女王に捧げる菓子 食とは探訪であり、未知との遭遇でもある。雪深く閉鎖的な里を出奔した隠し刀にとって、片割れを求めての当てずっぽうで必死な旅路は出会いの連続だった。新鮮な海産物、奢侈故滅多に口にすることのなかった甘味、舶来のものなど、数え上げればキリがなく、思い浮かべば共にした出来事が脳裏を過ぎる。自分は食べ物の好き嫌いなどないと思っていたが、存外舌が奢ったと気づいた時に苦笑したものだ。
いつぞや思わずその旨こぼしたところ、傍で煙草を吸っていた福沢諭吉は呆れることなく、むしろ慈しむような眼差しを浮かべたことが思い出される。
「いいじゃありませんか。好悪の感情は個人のものですよ、あなただけのね」
「ああ。中でも諭吉が一等好きだ」
「……それはどうも、ありがとうございます」
「礼には及ばない」
そんな何気ないやりとりを振り返りつつ、隠し刀は今日の出会い——黄金色の橙が目一杯詰まった瓶を陽に透かした。橙が太陽のかけらのようにきらきらと輝き、ほう、とため息が溢れる。タウンゼント・ハリスのためにちょっとしたお使いをしたところ、彼が実家から取り寄せたという甘味、『まあまれど』なるものを分けてくれたのだ。
「これは疲れを癒してくれるものでな、お前もたまには休むと良い」
「感謝する」
思いがけぬ計らいに驚いてしまって、肝心の用法を尋ねなかったのは失態である。瓶を片手にとぼとぼと歩く道のりは癒しから程遠い。舶来のものならば西洋を知る人に訊ねるのが道理というもので、自然横浜貴賓館に向かう。尋人が今日いるかは定かではないが、まあいなくとも誰かしらに会うだろう。
「おおい!」
そろそろ到着するか、という辺りで声がする。少し塩っ辛さの混じった、人の良さそうな声音には覚えがあるので振り向けば、飯塚伊賀七が一生懸命手を振っていた。そんなことをせずとも、相変わらずの大荷物も相まって誰よりも目立つというのに、全身で訴えなければこちらが気づかないと思っているらしい。頑張らせるのも可哀想だと近づくと、伊賀七は天の助けとばかりにああ、と両手を天に掲げた。
「ここで出会ったのも何かの縁だよ!君、もしかして福沢君に会いにきたんじゃないかい?」
「明察だ、伊賀七。そういうお前も諭吉に用があるんだな」
「そうなんだよ。実は発明を少し手伝った人から貰い物をしたんだけれど、何に使ったらいいのかさっぱりわからなくてね。多分福沢君なら何か心当たりがあるんじゃないかと思ったんだ」
言うと、伊賀七は吊り下げている行李の一つから器用に銀色の箱を取り出した。
「鉄箱?」
「缶と呼ぶらしいよ。問題なのは中身さ……さ、福沢君のところに行こう。いると良いんだけれどもね」
次から次へと話が飛ぶのは伊賀七の特徴である。付き合い初めの頃には彼の立て板に水のような話っぷりと跳躍する話題についていけずに目を白黒させたが、すっかり慣れっこになっていたので隠し刀は黙って後に続いた。
「おや、今日はお二人でいらしたのですね。まさか、またフグではありませんよね?」
迷える衆生を救う仏は存在していたらしい。横浜貴賓館のいつもの位置で、仏は和洋折衷の着物を着て書物の頁を捲っていた。
「フグを期待していたのかい?いやいや、あんなのはもう懲り懲りだよ。今日の僕の用事は『ばたあくりいむ』なんだ」
先ほどの缶を取り出すと、伊賀七は諭吉の前で蓋を開けてみせた。乳白色の餡子のような練り物が箱にみっしり詰まっている。鼻を近づければ、牛の乳に似た香りがぷんと漂った。伊賀七が言うには、異人の酪農家を手伝ったところ、この食品を喜んで分けてくれたのだそうだ。
「ただ肝心の食べ方を聞き忘れてしまったんだ。そこまで詳しい話ができるほど、僕は会話が達者でもないからね。福沢君ならば、僕よりも西洋の食品に精通しているんじゃないかと期待しているんだ」
「……私も、実は同じ用件でここに来た。『まあまれえど』と言う甘味らしい。使い方を訊ねるのを失念してしまったんだ」
どうだろうか、と四つの目が諭吉をまっすぐに貫く。救いを求められた仏は目を丸くし、ついで口をむぐむぐと蠢かした。照れ臭い時の癖を見てとり、隠し刀はついつい眉間のほくろに口付けたくなった。ここが衆目の前でなければ遠慮なく喰らい付けるが、生憎そう幸運には恵まれていない。
「確かに僕は西洋に明るい方でしょう。けれども、食については然程詳しくはありませんよ。買い被りすぎです」
ただ、と諭吉は隠し刀が渡した瓶の蓋を開いて匂いを嗅いで頷いた。
「どちらも何かに塗るもの、そうですね、阿蘭陀のパン……蒸餅(じょうべい)に合いそうです。山手に居留地向けの店ができたと聞きましたよ。この時刻ではもう売り切れでしょうが」
流石は諭吉だ、と隠し刀はぱあっと頭の靄が晴れゆくのを感じた。隣に立つ伊賀七も同じ気持ちだろう、澄んだ瞳が輝いている。しかし今度はパンなる新しいものが必要になってしまったらしい。伊賀七と自分の持ち物が同時に役に立つのはありがたいが、日を跨がねばならぬのは口惜しかった。残念さを眉尻に滲ませていると、諭吉は唇の端を持ち上げてみせた。
「ふふ。お二人は運が良いですよ」
「え?」
「さては福沢君、最初から妙案があったんだね」
付き合いの長い伊賀七がやれやれと首を振る。どうやら情人に揶揄われたらしい。隠し刀が全く話の流れについていけず小首を傾げていると、諭吉は少し待っていてくださいね、と自分の荷物置きに引っ込んでいった。
「大丈夫。彼がああいう思わせぶりなことをする時は、ちゃんと結果が出るからね。心配には及ばないよ」
「わかった」
伊賀七の労わるような台詞に、そんなに不安そうな顔をしていたろうか、と隠し刀は心の中で舌打ちした。人の甘さを啜っていくうちに鈍くなってゆく刃を指摘されたような心地で、胃の腑がむかむかする。今の状況は幸福で、永劫を望むほどに素晴らしいのだが、同時に自分のなすべきものを惑わしかねない疑念がちらついて仕方がなかった。
「お待たせしました。今朝方、長崎から来た知人が土産に贈ってくれた家主貞良(かすていら)です。パンではありませんが、似たような食感ですし、甘さもありますからお二人の持ってきたものとも相性が良いかもしれません」
ものは試しです、と諭吉が箱から取り出したのは黄金色の輝きを放つ、ふんわりとした饅頭の皮を厚くしたようなものだった。聞けば、西洋のものを参考にこの日の本で開発された菓子なのだという。確かに未知なる西洋の食品と出会うには最適かもしれない。果たしてどんな味なのか——三人で想像を巡らせていると、神経質な声が割って入った。
「何やら楽しそうだな。茶会でもするのかね?」
「ああ、サトウさん。騒がしかったならばすみません」
「構わないとも。単に私が気になったまでだ」
生粋の英国人は三人が持ち寄った品々を順に見聞すると、しばし考えたのちにうん、と小さく頷いた。ただの憶測や推測ではなく、本場からの正解だ!固唾を飲んで待つ三人に、アーネスト・サトウは新たな提案を持ち出した。
「ジャムとバタークリーム、それとスポンジケーキか?我が母国には、その三つを使った菓子がある。……どうかね、私の紅茶と合わせて茶会と洒落込むというのは」
「ええ、ぜひに」
「驚いたな、三つを合わせるなんて、僕は全く想像もつかなかったよ。あ、ごめんごめん、君はどうだい?」
「楽しみだ」
否やはないさ、と返して隠し刀はまだ見ぬ菓子を想像した。知らぬものが混じり合って、一つの新しい形を作るとはなんと刺激的なことだろう。これだから探訪の道は止めることができないのだ。
「話は決まりだ。厨房を少し借りよう。ついて来たまえ」
サトウを先頭にゾロゾロと歩く四人組を、貴賓館の人々が物珍しげな目で見るも全く気にならない。
菓子の名前は、ヴィクトリア・スポンジケーキ。英国女王に捧げられた高貴にして素朴な菓子だ。もう少し甘くないスポンジケーキで作りたかった、というサトウにより次回の茶会が決まったのは、その数時間後のことである。
〆.