ハレノヒ 正月を迎えた江戸は、今や一面雪景色である。銀白色が陽光を跳ね返して眩しく、子供らが面白がってザクザクと踏み、かつまた往来であることを気にもせず雪合戦に興じるものだからひどく喧しい。しかしそれがどんどんと降り積もる量が多くなってきたとなれば、正月を祝ってばかりもいられない。交通量の多い道道では、つるりと滑れば大事故に繋がる可能性が高い。
自然、雪国ほどの大袈裟なものではないが、毎朝毎夕に雪かきをしては路肩にどんと積み上げるのが日課に組み込まれるというもので、木村芥舟の家に住み込んでいた福沢諭吉も免れることは不可能だ。寧ろ家中で一番の頼れる若手として期待され、庭に積もった雪をせっせと外に捨てる任務を命じられていた。これも米国に渡るため、芥舟の従者として咸臨丸に乗るためだと思えば安い。実際、快く引き受けた諭吉の態度は好意的に受け止められている。今日はもう雪よ降ってくれるなと願いながら庭の縁側で休んでいると、老女中がそっと茶を差し入れてくれた。
「毎日ご苦労様です。今年は塀が崩れずに済みそうですわ」
「お気遣いいただき、ありがとうございます。塀が?そんなに降ったんですか」
「雪が積もった松の枝が折れたのですよ」
どこかの武家出身なのだろう、凛とした老女は中途半端な枝ぶりの松を示した。確かに、近くの塀が一部だけ新しく漆喰が塗られている。ただ松に積もる雪を美しいと眺めてなどいられないらしい。茶を啜ると、馥郁たる香りと甘さに疲れが癒やされた。おやつに、と揚げ餅も添えられて言うことなしの高待遇である。正月の餅を割って作った揚げ餅は、ただ塩を振っただけの簡単なものだが、疲れた体によく沁みた。
いつぞや情人である隠し刀と、様々な味を食べ比べたな、と思い出しかけて無理やり消し去る。彼とは当面会えそうにもない。思い出すだけ寂しくなって、置いていくのは自分の都合だというのに拗ねたくなってしまう。大人気ない気持ちを持て余してポリポリ齧っていると、揚げ餅が雪のように口の中で溶けていった。
「福沢さん、先ほど飛脚が貴方宛にこちらの品を届けてくださいました。郷里の方からだそうですよ」
ぼんやりしているうちに一度引っ込んでいたのか、老女中が今度は一抱えほどある行李を運んできた。礼を言いながら受け取れば、郷里の名物である竹製の行李である。しかし誰がこの場所に宛てて送るだろうか。心当たりはないものの、諭吉は平静を装って声を弾ませた。
「郷里から?嬉しいですね」
「今日はもうゆっくりなさいませ。旦那様はしばらくお城から帰ってこないでしょう」
昼食には顔を出すように、と告げる老女中は最早田舎の祖母の若き優しさを滲ませていた。一ヶ月にも満たない奉孝だが、自分は随分と気に入られたらしい。あるいは、この家に仕える中間たちがろくでなしだったのだろう。密かな満足感を得ると、諭吉は言葉に甘えて自室に下がった。
「ああ」
行李に詰められた紺色に、諭吉は思わず感嘆の声を漏らした。添えられた文を脇に置き、ふわふわとした布を引っ張り出す。この感触は間違いない、フランネルだ。長さからして、襟巻きにするとちょうど良いだろう。試しに首にさらりと回せば、その温かさと柔らかさにうっとりする。こんなものを自分に贈ってくれる人間の心当たりは、一人しかいない。添えられた文を広げると、微かに火薬の匂いが鼻をくすぐった。
『異国では、一人一人の誕生日を祝う習慣があるとジュールから聞いた』
その一文から始まる文章には、忘れ去ろうとした日常が詰まっていた。隠し刀は――敢えて差出人の名前は書かれずにいたが、他の誰でもない――ジュール・ブリュネに異国の習慣を聞き、すぐさま諭吉の誕生日が近いことを思い出したらしい。個人の誕生日を祝うことは諭吉も初耳で、如何にも個人の存在に重きをおく異国らしいと目を細めた。
つい先日、諭吉は誕生日を迎えた。と言っても、日本では正月を越えたことで一つ歳を重ねる方式が採用されているため、個人の誕生日はさして重要な情報ではない。幼い子供と老人だけが、生きながらえたことを周囲に寿がれるが、それ以外はただ生きているだけ、とも言える。故に諭吉も自分の誕生日を覚えていても、なんということもない日常を過ごすのみだった。
それを隠し刀は、祝えなかったことを悔やみ、マーカス・サミュエルに頼み込んで祝いの品を選んだのだった。江戸の冬は横浜よりも寒いだろう、と案じる言葉が優しい。
『誕生日おめでとう、諭吉。お前が生まれてくれて、巡り会ってくれたことは私の人生の宝だ』
普段は朴訥とした語り口である男が、こと文章となると饒舌に切々と胸の内を語ってくれることは嬉しい発見だった。ただ落ち合う連絡をする文でなし、会えない想いが詰まった諭吉のためだけの物語である。
「貴方は祝わせてくれないでしょうにね」
いつぞや生まれ月の話をした際に、隠し刀は故郷も過去も無くしたのだと淡々と語っていた。本当に自分が何年に生まれたかさえも覚えていないのだという。幕府に潰された集落の記録が残っているはずもなく、手がかりは最早この世にない。だからいつでも好きな歳でいられるのだ、と男は嬉しそうに笑ったものだ。
「温かい」
ぎゅう、と男が触れたであろうフランネルに縋る。差出人も出さず、故郷からの品を装ったのが、隠し刀が諭吉の身の上に配慮してのことだと痛いほどに理解できていた。渡米し、帰国するまで自由に会うことは許されぬ身の上だ。想いを繋ぐ約束をしても、将来どれほどのものが待ち受けているのかは一切想像がつかない。ありがとう、と呟く。
どういたしまして、という返事はいつまで経っても聞こえなかった。
「Happy birthday、諭吉」
そろそろ届いたろうか。雪雲を見上げ、隠し刀は遠い江戸に向かって声を吐いた。今の自分に何かしてやれることはなく、どこかで偶然を装って会えないかと少々未練がましい試みを繰り返した果てに見つけた希望である。流石はブリュネ、小粋な習慣を知っているものだ。できうることならば直に祝いたかったが、叶わぬ身の上である。せめて自分の襟巻きに似た色合いのそれを身に纏い、少しでも暖かさを感じてくれればそれで十分だった。
「おーい!そろそろ凧揚げを始めるぜよ!」
「わかった」
それぞれ凧を手にした坂本龍馬と岡田以蔵に従って歩き始める。海のおかげで温かい横浜は、今日も凧揚げ日和だ。坂を登る。走って走って、えいやと放たれた凧は勢いよく風に乗って飛んでゆく。ひらり、ひらり、ひゅんと飛ぶ凧は、ひょっとすると江戸からでも見えやしまいか。
「飛べ」
そんな可能性が万に一つもなくても。ぎゅっと腹に力を込め、隠し刀は声を上げた。
〆.