無性にチョコが食べたくなった先生の話欠伸を噛み殺しながら見上げた壁掛け時計は午前1時を少し過ぎたあたりを示していた。手に持っているスマホでも時刻は確認できるがこれは先生への牽制だ。
先生がパソコン前に陣取ってからかれこれもう四時間になる。時々紙資料にぐしゃぐしゃと何事かを書きつけては唸っている様子を見るにゴールはまだまだ遠いようだ。こうなると大体いつも先生は気軽に徹夜してしまうから「終わるまで待ってます」と申し出たのだけれども。大学のレポートも講義の予習復習も終わってニュースやSNSのチェックもあらかたしてしまいさっきからだらだらとスマホを眺めるだけになっているからもう眠たくて仕方がない。
ふあ、と欠伸をしたら背後で先生が欠伸を噛み殺した気配がした。すかさず立ち上がって先生の元まで走る。
「先生。もう諦めて寝ましょう。身体に障ります」
「そっちこそ待ってないで寝なさい」
「いやです」
きっぱり言い切ると先生は苦虫を噛み潰したような顔をした。先生は僕が頑固なことをよく知っているから。
「終わりが見えてないんですよね?一回寝てしまったほうがスッキリするんじゃないですか」
「今ベッドに入っても堂々巡りの思考に陥って眠れないだけだ」
「寝かしつけなら任せてください」
先生は住宅街で熊にでも出会ってしまったかのように目をかっ開いて僕を見上げた。ちょっと、いやだいぶ怖い。たじろぎそうになったが何とかその場に踏み留まる。
小言のひとつやふたつやみっつくらいは言い返されるかと思ったが何故か先生は僕を見つめたまま押し黙り、それからかたつむりが這うようなスピードでもって目を泳がせた。おや、と僕は首を傾げる。
先生がそんな動作をするのは珍しい。何より合理性を尊ぶ人だから、先生はいつだって裏おもてなく言いたいことを言う。こんなふうに言い淀むことなんて普通はあり得ないのだが。
「何か僕にして欲しいことがあるなら遠慮しないでください。コーヒーのおかわりはそろそろやめたほうが良いと思いますけど、言ってくれればお風呂だって沸かしますしお布団だって温めます。あ、夜食ですか?カップラーメンとかあったかな……」
ぱぱっと作れるもの、何だろう。おにぎり……は、ご飯を炊かないといけない。パスタ、うどん……意外と茹で時間がかかる。パンの買い置きは無かったし、コーンフレークは冷たい牛乳が胃に悪そうだ。非常食のレトルトや乾パンってわけにもいかないし他に何か…………。
「……チョコ、」
不意にぼそっと呟かれた声が、思考の海へどっぷりと沈んでいた僕を唐突に現実へと引き戻した。急すぎてチョコという言葉の意味を認識するまでに随分と時間がかかってしまう。
「チョコ……」
先生の言葉をそのままおうむ返ししたら先生は途端にぐっと顎を引いて何かを耐えるような顔をしながら僅かに頷いた。
「チョコ持ってたりしないか」
「……」
そこまで言われても、先生がどうしてチョコと言っているのか思考がなかなか追いつかなかった。それほど先生とチョコの間に接点を見出すことができなかった。
「ええっと……、もしかして、先生が食べるんですか?」
我ながら馬鹿な質問をしたと思う。食べる以外の何があるって言うんだ。案の定先生の顔がみるみる曇っていき、ついには捨てられた飼い犬みたいな情けない風貌にまで落ちてしまった。僕は慌てて先生に詰め寄る。
「かっ、買ってきます、今すぐコンビニで!希望ありますかっ?ミルクとかビターとか、あっ、いちごとか抹茶とかもあるかな。やっぱり板チョコ、それともアーモンド入りの、生チョコ……あっ、ハイカカオ……?とっ、とりあえず色々買ってきてみますね!」
早速玄関に向かおうとしたら、ぐいっと腕を引っ張られてたたらを踏んでしまった。
「俺も行く」
びっくりして振り向くと先生が纏めていた髪をほどきながらすたすたと玄関へ歩いて行くから、ぱちくりとまばたきをしながらその後ろ姿を見つめる。いつもより丸まった猫背を見送りかけてからようやくハッとして僕は先生の背中を追いかけた。
「ま、待ってください先生コンビニくらい僕ひとりで行けますから!」
「自ら進んでトラブルに巻き込まれにいく問題児のくせに何言ってんだ。また一人で突っ走ってんじゃねえかっておちおち仕事もしてらんねえよ」
「うっ、」
玄関脇に並んで掛けてあったコートのうちひとつを僕に向かって投げて寄越し、その間に先生はさっさと自分のコートを着込む。裸足の先生はコートにサンダルというちぐはぐな出で立ちで大儀そうに振り向いた。
「手ぶらだからな、会計は任せる」
「!任せてください!」
単純な僕はそんな言葉ひとつでモヤモヤしていた気持ちが吹き飛んでしまった。先生は居心地悪そうに首の後ろを掻いている。
「チョコにそんな種類があるなら直接見たほうが合理的だろ」
「ええ、ええ、そうですね!」
そうして二人揃って深夜のコンビニへと向かうことになった。寒い!って文句を言いながら手を繋いで。
「あ、先生チョコミントとか好きそうですね」
「ああ、まあ。アイス食うならいつもチョコミントだな。山田に歯みがき粉だろって毎回呆れられる」
「ふふ、僕もチョコミント結構好きです」
チョコミント、あるといいなあ。
白い息が弾む。
コンビニに着く頃には、繋いだ手がすっかり温かくなっていた。