光とゆうつづ「なぁ、今月末、諫早に祭りに行かないか?」
まるで子どもが気まぐれに明日の遊びの約束をするように、そう狡噛がこちらに言い放ったのは、彼が俺の部屋を訪れてしばらく経った、土曜の夕暮れ時のことだった。狡噛は窓際に置いたソファに座り、真剣な目でじっと俺を見つめていた。一方の俺はその時父の遺した酒を氷の入った二つのロックグラスに開けていて、飴色がたたえられたそれを一つ彼に差し出し出すところだった。でも、急な誘いに思わず手をすべらせそうになってしまったのを、今でもあの時の彼の表情とともに印象的に覚えている。
単純な言葉だったというのに、その誘いに俺はすぐには答えられなかった。というのも、月末はずいぶん先の話だったし、仕事柄イレギュラーが多かったから、予定を組むのが難しかったという事務的な理由があったのだ。花城に話したら調整してくれるだろうとも思ったけれど、彼がわざわざ言い出すことなのだからと、俺は勘繰ってしまった。例えば、またどこか遠くに行ってしまうのではないか、その前触れなんじゃないか、だから最後に特別な思い出を作ろうとしているんじゃないかって、恋人を信用しない馬鹿げたことを思ったのだ。
「諫早、か……」
諫早はここ出島から少し離れた、人のまばらな地域だった。高度に開発された移民保護に特化した出島という特別区域とは違って、今も昔ながらの家屋で生活をする日本人や、出島に嫌気がさした入国者がちらほらサイマティックスキャンから逃れて暮らしていると聞く。車で行けば三十分ほどで着く場所だから、そんなに遠くはないけれど、あんな今は寂れた地域で祭りがあるとは知らなかった。どんな祭りなんだろう。俺は人生の多くを東京で過ごしていたから、まだこの九州という地域についてよく知らない。猟犬として過ごした時間が長くて、出島から出ようと考えることもなかったからかもしれない。
「……なんて祭りだ?」
俺はロックグラスを傾けながら狡噛にそう尋ねた。すると彼はウィスキーを飲みつつこう答える。
「諫早万灯川まつり。百年と少しほど前だったか、大水害で多くの犠牲者が出た地区で——だから今あんなに寂れてるんだが——犠牲者を悼むために川に万灯を浮かべ、河川敷にも明かりが灯されるんだ。あわせて二万三千本だったかな。祭りの時間は万灯が消えるまでの一時間だけ。最後に花火が上がる以外は静かに追悼する祭りを、あの地区の人々は今もしてるんだ。誰に言われないでもずっと悲劇を語り継いでるんだよ。……ってのを今日マーケットの古株の婆さんから聞いた。その人は諫早出身らしくてな。ぜひ行けって言われたよ。自分の代わりに祈って来てくれってな」
俺はその答えに少し安心した。彼がどこにも行かないと分かったわけでもないのに、この誘いは単なる短い行楽だと知って、何も特別でないことだと知って。いつもの狡噛の気まぐれな安請け合いだと分かると、ようやく酒の味がした気がした。
「俺たちは潜在犯なのに?」
「今は特別捜査官じゃないか。天下のドミネーター様ですら俺たちを裁けない」
狡噛がいたずらっぽく肩をすくめて酒を飲む。
そうは言っても、俺たちが超法規的措置で自由を与えられるのは任務中に限られている。ということは、彼は月末の仕事中に諫早まで行こうというのだろうか? わざわざ花城に遊びに行くと伝えて? 仕事熱心な彼女にどう願い出るつもりなのだろう? まさかその美しいだろう祭りが見たいからだとは言えないだろうに。
「実は違法なメンタルケア薬剤の売買が諫早で行われるって噂があるんだ。これもマーケットの古株の婆さんから聞いた話。祭りで人がごった返してるなんて、恰好の取引場所だろ?」
一石二鳥じゃないか、そう狡噛が付け加える。
俺はその答えに少し頭が痛くなった。彼がまた消えるのではないかと疑った自分が、いくらか、いや大いに情けなかったからだ。悩むことなんてなかった、これはいつもの恋人の気まぐれだ。好奇心旺盛な彼は、まぁ仕事熱心でもある彼は、一度興味を持ってしまったら止まらないのだ。
「そりゃあそんな理由だったら花城も許可するだろうが、それなら全員で動くことになるんじゃないか? 一般人が知ってるくらいなんだ、漏れるくらいなんだから、大規模な取り引きなんだろう?」
俺はウィスキーを口に含み飲み込む。燻製のような香りがして、じきにヘザーの香りに変わる。俺はそれを楽しみながら、万灯が川を照らす様と、花火が上がる様子を想像した。
行き交う人々の群れ、その中で犠牲者を慰める光に照らされながら行われる違法な取り引き、川の氾濫で亡くなった人々の子孫たちは先祖を悼み、そんな彼らに隠れて薬と金が飛び交う。狡噛が俺を誘ったのは仕事が理由だったと思うと少し残念だったが、それでもきっと目に映るだろう景色を想像すると、悪くはない気がした。
「はぐれたふりをしたらいい。明かりがあるっていっても暗がりの祭りじゃあ隣に誰が立ってるか分からない。手を繋いでいなきゃ、本当にはぐれちまうくらいに」
狡噛がまた笑う。俺はそれにからかわれた気になって、思わずため息をついてしまった。大規模な薬物取り引きの結末を二人でやり過ごすのか? そんなこと可能なのか? きっと公安局も情報をかぎつけて絡んでくるだろう。そんな中で二人きりになんてなれるわけがない。けれど。
「祭りを楽しむのは仕事が終わってからだ」
「どうしてだ? きっと花火でみんなが目をくらませてる時に取り引きは行われる。それまで楽しんでもいいじゃないか」
「そんなに楽しみたいんなら、来年……」
そんなに楽しみたいんなら、来年にすればいいのに。俺はそう言いかけて、彼の気まぐれな約束をより確かなものにしようとする自分に気づいて、来年も彼とともにいたいと思っている自分に気づいて、とっさに口元をおさえてしまう。来年なんて俺たちにあるかどうかも分からないのに、一緒にいるとも限らないのに、そんな約束を、まるで明日の約束をするようにしようとしてしまう。俺は彼よりもずっとわがままだ。求めてはいけないものを求めようとしてしまう。例えば安寧な生活だとかを、父のように刑事として生きると決めたのに求めてしまうのだった。学生時代に監視官を勤め上げたら、官僚になって二人で一緒に暮らそうと告白したように、父とは真逆の人生を送ると決めていた時のように。
「なんだ、ギノ。もしかしてお前、来年も俺といたいのか?」
狡噛が言う。尋ねるというより、確かめるふうの声に、俺は頭を抱えそうになった。何を馬鹿なことを言いかけてしまったのだろう。俺は過去の自分を責め、そしてグラスをあおってウィスキーを一口で飲み干した。喉が焼けるようだ。
「大丈夫さ、死なない限り俺たちは一緒だよ。まぁ、行動課はそうそう簡単に解散しないだろうし」
「縁起でもないことを言うなよ……」
もう酔っているのか狡噛の低いが明るい声の約束に、俺はようやくため息をつくことが出来た。そりゃあ来年もお前といたいさ。俺はお前にやられてて、夢中で、何の役にも立たない恋愛感情を持て余してる始末なんだから。それは今に始まったものじゃなく、学生の頃からずっと抱えているものなんだから。
「分かった、諫早に行く。祭りに行く。ただし祭りを楽しむのは仕事を終わらせてからだ。そもそも鎮魂の祭りなんだろう? 静かに見るんだぞ」
俺がそう言うと、「来年も行けたらいいな」と、狡噛が目を細めて俺をからかうようにつぶやいた。けれどそれは切実な響きで、俺は何も言えなくなってしまう。
俺は思わず彼から目をそらす。窓際のソファ、夕暮れ時の残照が照らす空には、もう宵の明星が登っている。地球の兄弟星、金星、長く一番星と人が呼んで来たもの。少しばかり太陽に近すぎて、生命が生まれなかった残酷な運命を負った星。俺は西の空に浮かぶ、出島の騒がしいネオンに紛れてもなお輝くそれを眺めながら、狡噛と行く祭りについて考えた。二人きりではぐれるなんて、夢の中にいるようだ。狡噛はロマンチストだから、そんなことを思いつくのだろう。
「そうだな、来年も行けたらいいな」
俺はそう言って、狡噛の空になったロックグラスにまたウィスキーを注ぐ。そして自分のグラスにも飴色のそれを満たして、明かりの中に立つ自分を思った。それはやはり夢の中にいるようだった。任務を兼ねているというのに、俺は最近狡噛に似て来たのかもしれない。そうだとしたら、長く一緒にいるから、きっとそのせいだろう。
「何笑ってるんだ?」
「秘密だよ」
俺はまたウィスキーを口にする。キスはまだしない。宵の明星が登る頃には、きっと彼の深くに触れているのだろうと思いつつ、俺は恋人を焦らすことにした。そうしたらきっと、彼も自分の深い場所に触れてくれるのだと思って。自分の深い場所に触れて、この感情の秘密を暴いてくれと願って。