several coats of nail polish.(グラエマ) 発売当時、雑誌でも取り上げられて話題になったカラフルマニュキアのキャッチコピーは『あなたのココロで染まる指先。』だったかしらね、とヴィクトルは記憶を辿った。持ち主の心が宿るという水晶鏡片を砕いて魔術で加工したものを染料として使っているとかいないとか。
「アンタも塗ってみてよ。何色になるのか見てみたいわ」
カジノの営業時間前に買い物に行ったついでに、つい盛り上がって一緒に買おうとなったカラフルマニキュア。そのままだと一見ラメ入りの青紫系統のマニキュアで、星空のように見えるのに、ひとたび爪に乗せると色が変わるのだから不思議だ。
鼻歌交じりにボトルを開けて小指から塗り始めながらヴィクトルは自分の爪先がオレンジ色に染まっていくのをまじまじと見た。なるほど今はこの気分らしい、今日のネクタイはこの色にあわせてみようかしら、等々と考えて手際良く片手を塗り終えた。
その横でエマはマニキュアを塗るのに苦戦しているらしい。恐る恐るやっているためか若干ヨレていて、大胆な面もあるのにこういう時は慎重になりすぎね、とヴィクトルは微笑んだ。
「あんまりマニキュアを筆に含ませすぎても駄目よ、適当に扱いてやってみなさい」
「うーん……やってみる。上手く塗れなかったら後で塗り直せるし」
「ふふふ、その意気よ」
エマの横顔は真剣だ。少し引き結んだ唇がなんとも愛らしい。エマを見守りつつ自分の爪先が乾いているか確認してもう片方の手に取り掛かった。
「筆って、難しいよね。やっぱり」
不意にエマが呟く。横目でちらりと伺うと、眉根を寄せた困り顔でエマは手をひらひらさせていた。マニキュアを乾かそうとしているらしい。
「道具を使いこなす技術は一朝一夕には身につかないって事だよね」
「あら。何かを悟ったような台詞ね」
「上手な人の使ってるとこを見ているうちに『自分でも出来るかも』って思ったりしちゃうんだけど、そんなに甘くないよね」
苦笑して、それからエマは今しがた塗り終えた片手の爪を眺めていた。赤が混じったような、少し暗いマゼンダカラーのような不思議な色合いになっている。光の加減かマニュキアに元々入っているラメの輝きのせいか、薄い水色に反射する。
「意外ね。アンタの好きな色って大人っぽいというか……見かけによらないわねぇ」
「うん、私もこの色になると思わなかったけど……でも間違いなく私の、一番好きな色だよ」
目元を柔らかく細めたエマが右手を目線より上に掲げた。口元も緩く弧を描き、瞬きして見つめるその横顔は。
――まるで恋をしている少女だ。
(まぁ……そういう事なのかしら)
エマが思いを寄せる特定の相手がいるのかどうかをヴィクトルは知らない。いそいそと反対の手にマニキュアを塗る作業に取り掛かり始めるエマの表情は、爪先に染まる落ち着いた色とは正反対にあどけなく幸せそうな表情だった。
「もしかしてアタシ、見せつけられてる?」
「えっ? 何の話?」
きょとんとするエマを見て、何も言わず首を振ってヴィクトルはまた残りの爪にマニキュアを塗る作業に戻った。
「自覚ないところが罪な子ね。怖いわぁ」
くすりと笑ったヴィクトルにエマは困惑したように小首を傾げた。
***
プリムスクラブ主催でカジュアルなイベントが開かれる。と、そのヘルプに入ると出掛けていった彼女。
こちらへ戻ってくるのはムーンロードのかかる深夜未明。レコルドは比較的治安が良い方とはいえ、心配だから迎えに行く、とグランはエマに宛ててマイスターボードからメッセージを送信した。スタンプだけで返答があって、受信を確認してからグランはギルドホームを出た。
国境入口の門を通過して階段を降り、貯水池のほとりに向かう。見上げた先のムーンロードの輝きは淡く、空に少し雲が出ているものの、橋は無事に架かったらしい。目を凝らした先、まだこの距離では人影であるというくらいしか認識出来ないが、どうしてかそれは間違いなくエマだとグランには分かった。もう夜空に架かる光の橋を渡るのも慣れたもので駆け足で降りてくる姿に、転ぶなよ、と思いながら、自然と気持ちが逸る。
息こそ上がっていないものの、エマの姿が近付くにつれてグランの鼓動は高鳴っていた。
「エマ」
軽く手を上げるとエマも気付いたのか、一瞬立ち止まってまた駆け出した。というより、完全に全力で走っている。
え、と思う間もなくエマはムーンロードの橋を蹴って飛び降りた。
「グラン、ただいまっ」
然程高さはなかった。受け止める自信はあった。
それでも彼女がまさかそんな、本当に自分に向かって飛び込んで来るとは思っていなかったグランは動揺した。日頃から鍛錬を怠らずにいて本当に良かったと頭の中の妙に冷静な部分で考えたが、心臓は先程までとは全く別の意味で早鐘を打っていた。
「なんて危ない事をするんだ……!」
怒鳴りつける訳にもいかず、抱き留めた姿勢のまま腕の中に閉じ込める。風が出てきて視界の端でムーンロードが薄らいでゆく。空の雲が多くなってきたのか徐々に暗くなってきた。それで飛び降りたのかと納得しかけたが、否とグランは首を振る。
「怪我をしたらどうするんだ」
「グランならきっと受け止めてくれるって信じてたから」
「そういう問題じゃないだろう」
「ごめんね」
エマは悪戯っぽく笑うとそのままグランの胸に顔を埋めた。その場で暫時抱き合って、エマは背伸びの為に上げていた踵を下ろしてグランの顔を見上げた。
「グランに話したい事たくさんあるけど、これ。どうしても早く見せたくて」
差し出されたエマの手を覗いて、グランは指先が黒っぽい色に染っている事に気付いた。月明かりを頼りに目を凝らして、深い紫色が薄青にきらめいている事に気付く。
「カラフルマニキュアっていう、持ち主の好きな色に染まるマニキュアを使ったの」
そのままエマの手はグランの頬を包む。エマの顔が間近にあって、微笑む彼女にグランは一瞬、息を止めた。思わず眉尻が下がり、瞬きをしてからエマの眸を改めて見つめる。
「みんなに教えてあげたんだよ。私の一番好きな色なの、って」
エマの爪先を彩る見覚えのあるその色は、うつしとられたように鮮やかで、自惚れを確信に変えさせる色でもあった。
互いの目に映る影と色を確かめて、混ぜ合うように瞼が降りる。
――ああ月が翳る、と。
唇を触れ合わせたままグランを見上げて、エマは思った。
〈了〉