0721の日・ホラー回「一人でするところ見せてよ」
魏嬰が言った。
静室の天井を背景に、彼の夫の顔が間近にあった。結い上げた髪がいくらか乱れている。
もちろん藍湛の艶やかな黒髪を乱したのは魏嬰だ。文机で書き物をしていた彼に戯れついた結果、組み敷かれてひとしきり口を吸われていた。
「見てどうする?」
と藍湛が尋ねた。
「夫のかわいい姿を眺めて楽しむんだよ」
「君にとって楽しいものではないと思う」
しとやかな夫が恥ずかしがって拒否するのはわかっていたから、魏嬰はさんざん口づけをした後に頼んでみたのだ。魏嬰に噛みつきたくてたまらないという顔をした今の藍湛なら、うっかり披露してくれるかもしれない。
「見せてくれるまで俺は待つぞ」
魏嬰は言うと、床に押し倒されたまま襟元を直し、要求を飲んでくれるまで触れさせないという態度を取る。
藍湛は仕方ないというふうに大きくため息をつき、自らの帯を解きにかかる。
窓から生ぬるい風が、床を這うようにして吹きこんできたのはその時だった。夜風とは異なる、人の吐息の温度と湿度を持った、背筋がぞわりと粟立つような風だ。
藍湛がはっとしたように手を止め、窓のほうを見た。そのただならぬ様子に、魏嬰も窓のほうを振り返る。
丸窓のところに、男の脚だけが見えた。窓枠に男が腰かけている。
侵入者となれば、藍湛がすぐにでも避塵を抜き出しそうなものだが、彼にそんなそぶりは見えない。
魏嬰が男の顔を見ようとするが、藍湛がそれを阻むように覆いかぶさってきた。
「藍湛…?」
魏嬰が訝しみながら尋ねると、窓のほうから声がした。
「この男が来た日から沙汰がないから、もう喚(よ)んでくれないのかと思ってたよ、藍湛」
魏嬰のよく知っている声だった。今度こそ、藍湛の下からさっと這い出て身を起こす。
燭台の薄明りの中でもはっきりとわかった。招かれざる客人は、夷陵老祖と呼ばれていた頃の魏嬰と瓜二つだった。
青ざめた肌に切れ長の目、冷たい雰囲気。それがゆらりと立ち上がり、音もなく二人のほうへ近づいてきた。
燭台の灯りに照らされると、雪でできているかのように、全身にうっすらと温かい色を含む。邪とも聖とも区別がつかなかった。
藍湛が諦めたように魏嬰のすぐ隣で端座した。
それは二人までの数歩の距離をすぐに詰め、藍湛の背後へ行ったかと思うと、首に手を回して抱きつこうとする。
「藍湛に触るな!」
魏嬰は腰を浮かせると、ほとんど本能的にその腕を払って退かせた。人に触れたのと同じ感触があった。
夷陵老祖の姿をしたそれは大げさに肩をすくめ、二人からすこし離れて床に腰をおろした。
「藍湛、前にもこれを見たことあるんだな?」
魏嬰の問いに藍湛がうなずく。
「はじめて見たのは……君に再会する何年か前だった」
それは気怠げに脚を崩して座り、こちらをうかがっている。顔形は生前の魏無羨だが、生きた人間の温もりのようなものがまったく感じられず、瞳は透き通った氷のようで、肌は陶器でできた人形のように滑らかだ。
「おまえ」とそれが魏嬰に目をやる。「藍湛が一人でするところを見たいんだろ?」
藍湛がとっさに文机の脚元から避塵を手に取った。続きを言わせまいとしたのだろうが、すでに遅かった。
「藍湛は、俺とすることを『一人でする』と呼んでいたんだ」
藍湛が謝罪の言葉を口にする気配を感じ、魏嬰は機先を制した。
「俺はかまわないよ、藍湛」
魏嬰の言葉に、夷陵老祖の似姿は「ふうん」と薄く笑って、膝立ちで藍湛の隣へすり寄った。白い耳たぶに唇を寄せてささやく。
「今夜はどんな風にしようか?」
それは凪いだ湖面のような瞳のまま、口元だけ笑みを作っている。藍湛はそれの両肩を押し留めながら魏嬰のほうを見やる。
「見せてやればいい」と似姿が言った。「一人でするところを」
「いや、それはもういいや。気が変わった」
魏嬰が答えると、似姿が首を傾げた。
「なら、どうするって言うんだ?」
「そんなの、おまえに消えてもらうに決まってる」
言って、魏嬰は文机の硯箱から、すばやく紙切り包丁を取った。刃で薄く親指を切ると、血に濡れた指をそれの背に押しつけ、勢いよく文字を書き出す。
「魏嬰……!」
呪文を半ばまで書いたところで、藍湛はその術に気がついたらしく、戸惑った声をあげた。似姿が抵抗する間もなく呪符を刻んでしまうと、魏嬰はパン、とてのひらをそれの背に置いた。
血文字が赤く光り、おぼろげな炎を発し、やがて呪文ごと燃焼した。魏無羨の形をしたものの指が痙れんするようにひくりと動いたかと思うと、あっけなくその場に崩れた。
「なぜこんな術を……」
藍湛はそう言うと、すぐさま前世の姿の彼を助け起こし、肩にもたれさせた。続いて心配そうに魏嬰の頬に触れ、顔色を確かめる。
それぞれを見比べた藍湛の瞳が、わずかに見開かれた。
「意識を二つに分けたのか? 剪紙化身は、こんな使い方ができるのか?」
魏嬰は顔を上げ、危険だの最初の一字を発しそうな口に、人差し指を当てて言葉を制した。
「本体と依代とのあいだに距離があると難しいが、これだけ近ければ意識を二つに分けても平気だ」
「だとしても、そもそも、その依代は……」
「この依代がなんだ? 得体が知れないか?」
「うん」
「知れなくもないさ。藍湛も想像はついてるんじゃなのか?」
「まず人間ではない。だが人間以外のものが化けた妖や怪かと言うと……」
藍湛が言葉を切って考えこむ。
「ああ、妖魔鬼怪に、厳密には分類できない」
「なあ、もうおしゃべりはいいだろ」
そのとき前世の似姿が――魏無羨が二人の会話に口をはさんだ。低く艶やかな、昔の声だ。
魏無羨は藍湛の肩にもたれたまま、白い手で藍湛の頬をすくい、滑らかな感触を楽しむように指で撫でた。
「それもそうだな」
魏嬰が言って、藍湛の首に抱きつくと首すじに噛みつくように口づける。
実際には、魏嬰が一人で二つの体を制御しているから、そうやって二人で話しかけるようにして藍湛をからかっているに過ぎない。
だが藍湛には効果があったようだ。彼はどちらを見るべきか迷い、二人のあいだでせわしなく視線を行き来させている。
魏嬰は調子に乗って、二対の目で夫の顔を見上げた。
「「今夜はどっちと遊びたい?」」
藍湛がぐっと言葉を詰まらせる。
「よし、選べないなら三人で遊ぼう」
それを聞いた藍湛は、さらに凍りついたように動きを止めた。
「し、しかし…」
「これの正体がわからないと心配か?」
「……」
魏嬰はため息をつくと魏無羨の襟を少しくつろげ、胸の焼き印の痕に、確かめるように指を這わせた。
「俺がいないあいだもずっと忘れないでいてくれたのは知ってたけど、こんなふうに証拠を見せられちゃうとなあ」
ひとり言のようにつぶやきながら、自らの似姿の肌や髪に触れていく。
「例えるなら、雲深不知処の冷厳な気が縦糸で、おまえの想いが横糸。それだけじゃあ平たい布だが、何日も、何年も変わらず想い続けてくれたから、こうして形を持つまでになった」
今度は魏無羨が、魏嬰の襟を開いて生白い胸をあらわにした。
「もし年月と共に気持ちが変わっていったとしたら、こんな現象は起きなかっただろうな」
だから魏無は先刻、藍湛にかまわないと言ったのだ。
「あくまで声も出る人形で、こいつ自体に意識が生まれたってのとはちょっと違うから、中に入って操るのも造作なかったよ」
魏嬰は明るく言った。機嫌がよかった。
「俺の夫と来たら、毎晩毎晩、俺が泣いてもやめてくれなくて、全身ぐったりして大変なんだ。俺がもう一人いて、二人がかりでおまえをかわいがれたらと常々思ってたんだよ」
魏嬰が藍湛の抹額の片方に手を掛ける。
「今夜、許しを請うのはおまえだぞ、藍湛!」
魏無羨がもう片方の端を引っ張る。二人がかりで真っ白な抹額を解いてしまうと、彼を見上げた。
「……ッ、恥知らず!」
藍湛が絞りだすように言った。二人の魏嬰がにんまり笑う。藍湛の口からこの言葉が出るのを待っていたのだ。
魏無羨が彼の首に飛びついて唇を奪う。唇を擦りつけ舌を絡めあっていると、藍湛がすぐに魏嬰の頭に手を回し、二人のほうへ引き寄せた。
「え……?」
魏嬰の唇に藍湛の舌が忍びこみ、舌が誘い出される。二人の口づけに、三人目として加わることになり、魏嬰は一瞬、何が起こったのかわからなかった。
藍湛は二人の魏嬰と舌を絡め、それぞれを甘く噛んだり情熱的に吸ったりして、二人ともをかわいがることに余念がない。
藍湛はどうして三人で口づけするなんておかしなことをするんだと半ば混乱しながら、魏嬰は口づけに翻弄されるばかりだ。
剪紙化身を応用した術であるため、魏無羨が味わった感覚は、魏嬰と共有される。背骨を伝って腰にくる甘い感覚に、二人の魏嬰はいっぺんに床にへにゃりと崩れてしまった。
そこへ藍湛が覆いかぶさり、右手は魏嬰の、左手は魏無羨の帯を解きにかかる。
「待って、藍湛。やっぱり一人ずつしよう」
魏嬰はそう提案したものの、藍湛からの答えは聞く前からわかっていた。
「駄目だ。三人でと言ったのは君だ」