君がため(sample) 今宵も雲深不知処には笛の音が響き始めた。魏の若様がいらしてからは昼も夜も華やかになったと藍曦臣はひとりごちる。
それまで哀しげに響いていた琴の音は、笛の音を得てからとても嬉しそうで、こちらまで嬉しくなったものだ。
はて、今日は琴の音が聴こえないなと不思議に思ったときだった。
笛の音に重なったのは歌声。
低音は静かに、高音は透き通るような……忘機ではない……としたら、と考えて思い当たったのは江宗主。
そうだ、蓮の収穫も終わり落ち着いたからと雲夢の荷風酒を携えて、夕刻から彼が遊びに来ていたのだった。
始めは遠慮がちであった歌声も、興が乗ったのか次第に力強く艶やかさが増していく。
心地よい歌声に、藍曦臣はいつの間にか裂氷を口元に当てていた。
二人の、久しぶりであろう合奏に水を差してはいけない。そう思いつつも、この歌声に裂氷の音を重ねたくなってしまった。
一節だけでも。
裂氷の涼やかな音色が加わって、まだ暑さの残る雲深不知処に心地よい風が吹く。
笛の音の間をすり抜けるように歌声が響き、それを追いかけるように笛の音を重ねる。
こんなに心地よい気分は久方ぶりで、あと一節、あと一節、と引き延ばすうちに亥の刻は間近に迫っていた。
朝、身支度もそこそこに客間へと向かうと、向こうから魏無羨が歩いて来るのがみえた。
「魏の若様、おはようございます。江宗主はまだお部屋ですか?」
「沢蕪君、おはようございます。江澄ならいまさっきここを出ました。慌てることなんてないのに、俺まで叩き起こされて...…あ!それより昨日の笛の音は沢蕪君ですよね。江澄と合奏してたら、急に笛の音が聞こえてきてビックリしたけど、沢蕪君と合奏する機会なんてそうそうないからーー」
江晩吟がもう帰ってしまったと聞いて、その後も矢継ぎ早に話す魏無羨の話を、藍曦臣はほとんど聞いていなかった。魏無羨に二言三言返して、その場を離れると、踵を返していま来た道を戻った。
寒室に戻ると筆を取り、簡潔に用件を書いて門弟に託す。返事は来るだろうか。来なかったら……と考えて、文を出したばかりなのにそわそわと落ち着かなかった。