cry for the moon 狭い道のアスファルトから熱気が吹き出し、首元までじりじりと焦がされる。竹下通りを行き交う人々がゆらゆらと揺らいで見え、足元を水が逃げていく。雑踏とさざめく話し声、スクリーンの広告の音、それから車と電車の音が耳を満たす。
UGの存在である俺たちが熱中症や脱水症状で倒れてしまうことはない。そこだけは良かったが、やはり不快なものは不快だ。出もしない汗を拭こうと掌で額を拭って、前を向き直る。
先導する我らがリーダーは時折スマホを取り出し、歩きながら画面を弄っていた。危ないよ、やめなよと何度も注意しているのに全然治る気配がない。今一度声をかけようとして、飲み込んだ。こんな雰囲気の中で彼とお友達の邪魔をしたら、逆上されるのがいいオチな気がした。
死神のゲームに巻き込まれてからも、彼は「スワロウさん」なる謎のお友達と戯れ続けている。彼が夢中になっている「ポケコヨ」のフレンドだと聞き及んでいたが、なんとこの不可思議な死神ゲームの中でも連絡を取り合えているらしい。謎の存在。そんなアプリゲー越しのお友達と連絡を取り合う方が、どうやら存在を賭けて争うらしい死神ゲームより大事なのだろうか。彼は時折びっくりするほどマイペースで、その思考回路はいまだに掴めない。
掴めていないが、リンドウが何も考えていないわけじゃないのは知ってた。彼なりに熟考して前向きに答えを出そうとしているのだろうし、渋々ながらもこうして俺たちを引っ張って歩いてくれる。俺があまり気に入らないのはそこに至る過程の方だ。1分も2分も黙り込んで黙々とスマホを覗き込みながら考え込み、その間俺の話はちっとも聞いてくれない。何度声をかけてもなかなか振り向いてくれなくて、スワロウさんだかアナザーさんだか知らない画面越しの誰かと交信した後にはもう結論が出ている。その間俺たちへの説明も相談もナシ。
チームメイトってそんなにあてにならない?
真面目な話を避け続けてきたのは俺だという自覚はあるけど、話を振るぐらいはして欲しい。ついでに言えば、今朝彼が下した結論にも俺は微妙に納得がいっていない。
「ネクさんを探す」
「はぁ!?」
差し引きならない状況下で導かれた最善手が『見も知らぬレジェンドの力を頼る』という他所他所しいものだったことにも苛ついた。話したこともない他人に乗っかる方が、自分たちよりまだマシと言外に宣言されている。俺とナギセンはそんなに信用がなくて、話をしても無駄だと言うことか。いや、人見知りの激しい彼のことだからナギセンについては致し方ないと言うべきだろう。つまり俺。信用ゼロ。スマホ以下。
いつもだったら「酷いよリンドウ」と泣き付くふりをしてやったところだが、このどんよりした空気の中で戯れつくだけの空元気も流石に湧いてこない。
そもそもリンドウのスマホ依存は死神のゲームに参加する前から顕著だった。一緒に渋谷を歩いている時だろうと話の途中だろうと、SNSの着信が気になれば彼は黒い端末を取り出して操作を始めてしまう。俺の呼びかけを話半分に「んー……」と流して、しばらくは画面越しにお友達と遊んでいる。いや俺と会話してよ。
時折、柄の悪い青年の一団やスーツに身を包んだビジネスマンらしき一群が急ぎ足で通りを行き交った。他のチーム—ヴァリーやピュアハートのメンバーだろう。俺たちも急がないと、と気が逸るが、気落ちした足取りでノロノロ歩くリーダーに歩調を合わせざるを得なかった。
「手がかりも知れぬレジェンドを探すと言うのも……途方もない話ですなぁ」
ウンザリしたような声色が隣から漏れた。独り言だと分かってはいたが、口寂しさに横を歩くナギセンに声をかける。
「でしょお?ナギセンもそう思うよね」
大きな円眼鏡を通して映る視線は真っ直ぐ前を見たままだった。
「……あなたに言ってません」
ですよね。知ってた。ああ寂しー。
ところで、その「死神ゲーム」の内容は一種の謎解きイベントのようなものだった。一番まともなパターンでは「ノイズを倒せ」という出題が多かったが、やれ服を着替えろだのお悩み解決に付き合えだのクイズを解けだの、出題者の気分でお題はその都度様々だった。
「えっと……これで写真を撮ればいいんだっけ」
今回の課題は「写真撮影」だった。三匹の黒猫のポーズを真似て三人でプリクラに映る。公正なジャンケン一本勝負の結果、リンドウが一番無難な腰に手を当てるポーズ、俺が片腕を上げるポーズ、ハズレを引いたナギセンは後ろで大きく両手を突き上げるポーズに決まった。三人は無言のまま位置についた。上っ面だけの笑顔をカメラに向けて間もなく、はいチーズ、と無機質な声が音頭を取り、パシャリとシャッターが切られる。
しばらくして出てきた写真の中、三人はそれぞれに強張った表情をしていた。
「二人とも表情硬いねー」
「お前が無駄にニヤついてるだけだろ」
「どちらかと言うとリンちゃんがムスッとしてるだけじゃない?」
は、と馬鹿にしたようにリンドウが嗤った。違う、こんなことを言いたい訳じゃない。こんな空気じゃなかったら三人組の記念写真になっていたかもしれないし、きっとその方が楽しいだろうと伝えたかった。いつもみたいに肩を強く叩いて、プリクラだよリンちゃん笑って笑って!なんて言ったら伝わったかもしれないのに。もどかしい。
「うっわ……空気サイアクじゃん」
三人のすぐ後ろから湿った声での揶揄が聞こえた。振り向けば、黒猫帽子の女の子が皮肉っぽく口を歪めて写真を覗き込んでいる。 ギクリと驚いて咄嗟に距離を取り向き直るリンドウを見ながら、彼女は楽しそうにクスリと笑う。
「めずらし、ケンカしてんだ」
「してない」
「してない」
思わず口にした反抗の声は完全にリンドウのそれと重なった。それにすら不満げな顔で彼はじろりと睨んでくる。
「ぷ、良かったじゃん仲良しで。協力しないとあんたら、絶対ゲーム勝てないよ」
「で、何しに来たんだよ。暇なのか?」
「だからぁ、監視よカンシ。気落ちしてサボったりしてないか見に来たけど、案の定沈み込んでんの」
「そうだとしてもミッションはちゃんとやってますよー」
彼女に特に恨みはないが、煽り立てるような口調が神経を逆撫でしてくるのは事実だった。普段と変わらないトーンを装ったのは精一杯の強がりだ。
「そう?ま、精々早く仲直りして頑張れば?ルーイン倒したからって調子こいてサボってると、あっという間に消滅しちゃうから」
じゃね、バイ、と軽く語尾を上げて別れを告げると、ショウカちゃんはスイとどこかへ消えた。「なんだあいつ」リンドウの声も刺々しさを隠せないものになっている。
「……仲直り、できないのですか」
おずおずとナギセンが呼びかける。リンドウの答えはあくまでつれなかった。
「だから別に喧嘩してませんって。ナギさん、そんな気にしないでいいです」
「そうでござるか……」
言葉に詰まった様子でナギセンは眼鏡に指をやった。いや、こんなん俺でも取りもてないと思う。ましてや先週の途中から俺たちを見ていたに過ぎないナギセンには荷が重すぎる。再び歩き出したリンドウの後をついて歩きながら、小さく声をかけた。
「ゴメンね〜気ぃ遣わせて。リンドウ怒っちゃってる」
「……貴方も怒ってますよね」
場を取り持つだけのつもりだったが、ズバリと指摘されて内心が急に冷えた。怒っている?俺が?
「そう見える?」
「見えますな」
俺との会話を意図的に避け続けたナギセンに、突然突っ込んだ話を振られるとは思っていなかった。
「……気にいらぬことがあるなら、直接言ってみれば良いのでは」
ぐ、と言葉が詰まる。彼女が自分の趣味の他に意見を主張することは珍しいが、それは寡黙や奥手さ故ではないと思い知らされた。ただリーダーの主導に納得し、声を上げる必要がなかったから話していなかったに過ぎないのだろう。
「貴方はリンドウ殿にきちんと向き合って話していますか。はぐらかすだけでは、リンドウ殿も真意を伝える気にならないのではないですか」
「うー……」
薄々気づいてはいたけど、丸眼鏡の奥から覗く彼女の観察眼は鋭く尖っていた。その針先で痛いところを突ついてくる。
正面切って話し合う、それは俺が最も苦手とすることだった。きちんと向き合って何をしてほしいかちゃんと話せば、確かにリンドウは聴いてくれると確信している。俺自身が嫌で、背を向けてきただけのことだ。
『気に入らない』と突きつけて彼を傷つけたい訳じゃない。ましてやこれ以上怒らせてチームを決裂させたい訳でもない。ただちゃんと俺たちに向き合ってほしい、知らない誰かじゃなくて俺と話してほしい、それだけだった。……話されたところで俺が解決できるとは限らないから、腰が引けてしまうけど。その辺りが頼りないんだと自覚はある。
自分の中でも結論など出せていない。だから判断を保留にして、不満だけ口にしながらリンドウの背中を追っている。
「……そゆ真面目な話、苦手でさー」
いたたまれなくなって目を逸らす。ナギセンが声だけで追い討ちをかけてくる。
「逃げてる限りは解決不能ですな」
まぁ貴方がそう言うなら仕方がないのですが、と溜息をひとつついて、
「ワイのレガスト新章もかかっているので、できれば早く解決してほしいのですが」
ボソリと続けた。背中を押してくれているのだろう。退路がなくなった以上、自信がなくても話してみるほかない。
最初の口火を切るために、何度も何度も予行演習をした。声をかけようとして、思いとどまる。そんな逡巡を3度も4度も繰り返してから、やっと前を歩くリンドウに声をかけた。
「ねぇリンドウ」
何、と声だけで素っ気なく返される。下を向いたまま声だけで会話を済ませようとする彼の態度に心が萎えそうになるが、奮い立てて言葉を続ける。
「……ミッション、ちゃんとやるからさ。作戦立てない?」
「立ててる」
「そうじゃなくて、話し合わない?」
そこで初めてリンドウは怪訝そうにこちらに目を向けた。「話し合う?」
「俺、リンドウが何考えてるか分かんない。だからどう進めるか、チームで決めようよって言ってんの」
「ちゃんと説明してるだろ」
「だからそうじゃなくて、」
その時、リンドウが手に持ったままのスマートフォンが通知音を鳴らした。話は終わり、とでも言うようにリンドウは再び目を伏せて画面を見つめる。
「……スワロウさん?」
「だったら何」
またも話半分で聞き流されている。確保していたはずの余裕がちりちりと焼け落ちていく。猛暑日の日差しのようにじりじりと焦がされ、刺々しくなる声を抑えることができなかった。
「こんな時にまでスワロウさんスワロウさんってさ、なんか意味あんの?」
「は?」
「リンドウにはアプリゲーの方が大事かぁ」
駄目だ、これじゃさっきまでと同じだと自分でも分かっていた。まるで自分の身体じゃないみたいに、声帯が勝手に戯けた調子を紡ぎ出す。こんなことを言いたい訳じゃない。今すぐに泣きついて、ごめん今の嘘、本気じゃないからって言いたかった。しかし、再び顔を上げたリンドウの目に含まれていたのは、本気の怒りであろう暗い光が半分、それから残りは同情するような浅い笑みだった。
「……お前、何」
たった5文字。だが、刃を喉元に突きつけられるような鋭さだった。薄皮一枚残してもらえたのは温情で、本気だったら疑問形の部分が「ウザい」辺りになっていたかもしれない。喉元に感じる切先の鋭さに唾を飲み、急いで言葉を引き上げて距離を取る。
「……別に?気になっただけ」
怒ってるんだ、リンドウ。俺が怒らせたんだ。
「……じゃなくて、ちゃんと俺たちに伝えてほしいと」
思って、と続けようとしたが、もはや後の祭りだった。萎んだ声は地面に落ちて、リンドウは無駄だよ、と言わんばかりに息を吐いた。
「だってお前軽いから。俺はそんな簡単に考えられない」
交渉は決裂だった。じゃ行くぞ、と再び歩き出した彼の背中を茫然と見つめることしかできない。
諦めるしかない。
任せていればいいと、本人が言うんだから余計なことを考えなくて楽だ。
そう割り切って、ダメだったわ、とナギセンに一言報告する。あぁぁそれは残念です、と彼女は失望したように顔を下げた。申し訳ないけどやれることはやったんだ。
一人で黒フードの死神と話をしていたリンドウが、きっちりとこちらに向き直って告げる。
「二連戦しろって。戦えるか?」
「ハイハイ、いいですよー」
慣れきった軽い調子で答える方が、真面目くさった顔して向き合うよりずっと楽だった。いつでも行けます、と同意するナギセンの声も確認してから、リンドウが静かに目を閉じる。次の瞬間、虚空に幾つものトライバルが浮き出る。その二つをなぞるようにリンドウが両手を向けると、紋章から鋭い嘴と蠍の大きな鋏が這い出してくる。空間を裂くようにして異次元から現れてきた”ノイズ”にリンドウが飛びかかっていく。それを惰性で援護する。いつものように。
リンドウに続いて烏を蹴り殺しながら、どうでも良いよ、と思った。喉元を狙って飛びついてくる金の狼の爪を躱しながら、なるようになれ、と思った。ナギセンが爆弾を抱えてノイズの間を縫って走るのを眺めながら、せめてミナミモトさんがいてくれたらなあ、とぼんやり思っていた。
「フレット、危ない!」
「へ?」
咎めるような鋭い声と共に白黒のコートを纏った影に強く突き飛ばされ、衝撃が走った。アスファルトに身体を打ち付けられた痛みに、何すんの、と見上げる。だが目に映った光景に呼吸が詰まった。彼は左肩を押さえている。
大蠍の尾がリンドウの肩ごと空間を抉り取り、流血もなしに左肩のその部分が欠けてしまっている。なくなってしまっている。何度か目にした光景だが、違和感に吐き気がこみ上げてきた。リンドウは壊れた身体をそれ以上庇うこともせず、なおも反撃を叩き込もうと無理矢理に地面を蹴り、大きく振りかぶって蠍の甲殻に鋭い斬撃を見舞う。踊るように地面を踏みながら「次頼む」と援護を請う声に答えて、慌ててジョリ・ベコのバッジに手を触れ力を引き出す。脚の近くでバチバチと静電気が唸り、それが十分に蓄えられたことを感じ取って勢いよく飛び蹴りを見舞った。キューンともガオーとも付かない断末魔をあげたノイズが白黒のモザイクに分解され、次元の間に消えていった。
削り取られていたリンドウの右肩にふわりと光が集まって、肉体が再構成されていく。それでも痛みが退かないのか、力なくふらふらとへたり込む姿が目に入り、胸がぎゅうと締まるのを感じた。UGの幽霊のような存在であっても痛みや苦しみが無くなるわけではない。蠍に刺されると身体が熱くなり、猛烈な気持ち悪さとともに汗や涙が止まらなくなる。電信柱にもたれかかった彼も青い顔で地面を見つめていた。「そこ座ってて」と声をかけ、ナギセンに見張りを頼んでから、近くの自販機に駆け寄って缶ジュースを一本手に入れる。ごとり、と落ちてきたオレンジ色の缶を掌に受け、彼のもとに戻って首元を冷やした。
「うー……」
生理的な涙が滲んだ薄目と視線が交わる。気持ちよさそうに、首元に当てられた缶に手を伸ばした。ゼイゼイと短い息がだんだんと落ち着いていく。
「大丈夫?俺のせいで本当にごめん」
「……大丈夫」
汗をかいた缶のプルトップが引き上げられ、彼はそのまま喉を鳴らして液体を飲み下した。口を離し、一息をついて、下を向いてボソリと呟く。
「お前が無事ならいいよ」
嘘をつくことが苦手な彼のこと、本心からの吐露であることは分かっていた。その言葉に励まされるように、もう一度同じ場面を繰り返す。
「リンドウ、突っ走らないで……俺、ちゃんと聞くから」
「……別に、いつも通りだけど」
リンドウはじとりと俺たちを見上げてくる。まだ涙が残るその目にはもう怒りの感情は残っておらず、ただ「蒸し返さないでほしい」と願っているように見えた。
「それに嫌かと思ってた、そういう話すんの」
「好きじゃないけど。リンドウに無視される方がやだ」
「いいよ別に。無視しないし、俺は俺で考えるから」
それじゃ変わらないじゃん、と思う。リンドウはたった一人で考えて、体当たりで壁にぶつかって、上手くいかなかったらまた一人でやり直す。ボロボロになりながら試行錯誤する前に分かち合ってくれればいいのに。
「一人で抱え込まないで相談してよって言ってるんだけど?」
「お前そういうの嫌いなんだろ?いいよ、俺も無理強いしたくない」
見かねたように、柔らかな女性の声がリンドウを嗜める。
「リンドウ殿、ワイも見通しが立たないままよりは筋道が分かっていたほうがありがたいのですが……」
「じゃあナギさんがリーダーやってくれるんですか」
刺々しさを増した声で反撃するリンドウにナギセンが一瞬怯む。あぁ、これはダメだ。
「それは……」
これは俺の問題で、リンドウの問題だ。ナギセンまで巻き込んで彼女を傷つけたくはなかった。何より、これ以上不用意にチームの仲を裂きたくない。割って入るようにひらひらと大げさに手を振って見せ、リンドウをなだめる。
「分かったよリンドウ、もう言わないから」
「……」
それでいい、と言ったように彼はふんと鼻を鳴らした。
本心では俺も悔しくて堪らなかった。硬く閉ざされた彼の心の奥には、俺じゃどうしても手が届かない。いや、自分にだって覗いてほしくない心の部屋があるのだからどっちもどっちだ。お互いに内心に触れさせないまま、隣で時間を過ごすだけの関係で満足していた。ゲームになんか参加していなければそれで全然良かったはずだった。真面目な話なんかしなくても良かったし、上の空で話を聞かれても全然我慢できた。こんな気持ちにならなくて済んだはずだった。
真昼の月が白く光っている。粉を吹いた水晶のようにざらざらとした白い月が、笑うように俺たちを見下ろしている。遠い青空に浮かんで、透き通ってしまいそうに頼りない白さ。
本当に欲しいものはこの手で触れない。
『標的討伐チーム:ルーイン、トップチーム:ルーイン』
RNSの通知が虚しくミッションの失敗を告げ、程なく意識は薄闇の中に沈んでいった。
甘い夢を見ていた。
いつものように登校して、そこここに固まっている友人のグループに挨拶して、ワイワイ話しているうちにリンドウも教室に入ってきて……他愛ない話をして駄弁ってヘラヘラ笑い合う。HR開始のチャイムが鳴る。一週間も聴いていないその音に違和感を覚え、違う!これは夢だ、と気づく。覚めろ、と強く意識して、目を覚ます。
もはや見慣れたハチ公前の光景がそこにあった。見回すと、忠犬の象の台座にもたれかかるようにしてリンドウとナギセンが眠っている。早起きのコツは、微睡む夢を夢と見破ることだ。「死神のゲーム」においてもちょっと工夫すれば、少なくとも他のメンバーよりは早起きできる。
静かに寝息を立てるリンドウの側に歩み寄り、屈みこんでそっと旋毛のあたりに手を当てる。その身体が微かに震えた。起きたかな、と一瞬思ったが、彼はそのまま動くことなく静かに息を続けていた。多分、気のせい。それをいいことに柔らかな髪を手に絡めて数度撫で下ろす。寝てるやつの体温が温かく感じられるのは何でだろう。リンドウのそれも、まるで柔らかな小動物のようにふんわりと掌に暖かかった。こうして眠っている時なら簡単に触ってしまえるのに。
その時雑踏の音が一瞬遠のいたように感じた。ジリジリと焦げるような音がして交差点前のモニターを見上げると、案の定先ほどまでの広告が消え、何かを待つように黒い画面がちらついていた。あぁ、忌々しい「ミッション」の通知だ。名残惜しかったが、二人が起き出さないようそっと身を起こす。そこに現れるのは大嫌いな顔。いけ好かない金髪をワックスでガッチガチに固めて、上から目線丸出しで俺たちの悪足掻きを愉しんでいる男の顔。
御機嫌よう。
わざとらしい抑揚をたっぷり持たせて彼が言い放つ。うるさいよ。リンドウ気持ち良さそうに寝てんのに。
シブヤの民よ。
うるさい。視界の隅でナギセンが、続いてリンドウが眠りから覚め、それぞれに欠伸をする。……ほら、起きちゃっただろ。
愛しき民たちに告ぐ。
うるさい、うるさい、うるさい!声を張り上げて怒鳴りたかった。お前のせいで台無しなんだよ。俺たちはうまくやってきたし、こんなゲームになんか付き合わされなければリンドウがよそ見してようが全然我慢できた。命がけのゲームに巻き込まれたせいで俺の気持ちも友人関係もグシャグシャだ。せめてリンドウが幸せな夢でも見てればいいって思った。お前はそれすら邪魔をする。
罵倒したかった。バーカ、クソッタレ、ファック、何でも良いからこき下ろしてやりたかった。そんなことをしても何もならないのは知っていたから、俺はハチ公像の台座にもたれかかったまま、綺麗に漂白済みの軽い調子でリンドウに声をかける。
「おはよ」
案の定、渋々といった声で「おはよう」と返される。寝起きの低血圧を煮詰めたような低さだった。
コンディションは良くないようですな、と気を遣ってくれるナギセンに言葉を返す。
「そんなことない」
「そんなことない」
またも完璧なタイミングでリンドウと声が重なり、彼は気まずそうにそっぽを向いた。はぁそうでござるか、とナギセンが呆れているのが見える。上手くやれなくて、巻き込んでしまって申し訳ないと思う。思うけど、俺では力不足だった。ここからはただ時間が解決してくれるのを待つしかない。
今日もリンドウは顔を伏せてスマホを覗き込んでいる。きっと『スワロウさん』とゲームの話でもしているんだろう。死神ゲームの話か、ポケコヨの話かは知らない。液晶画面の向こう側には俺の知らない、知り得ない世界がある。それは彼の心が繋がっている世界だ。真昼の月のように凛として揺らぎがなくて、そして何より、俺はそこには属していない。
遠い遠い場所にある憧れに、彼は躊躇いなく手を伸ばす。かつて自分の手を強く引いて導いてくれたその温度が欲しいと思った。届かぬ月に差し伸べられた、その手を掴んで引き摺り下ろしてしまいたかった。
それだけの勇気のない俺は、後ろ姿を眺めていることしかできなかった。