時速60kmと5cm 環状線がぐらりと揺れ、車内の人混みが動く。自分もバランスを崩しかけたが、横に突かれたフレットの手に抑えられてその場に留められる。代わりにフレットはかなりツラそうな表情をした。
二人で遊びに行った帰りのこと。お互いの家までの線に乗り換える渋谷駅まで、鶯色の電車に乗りこんで立ち乗りしていた。……が、並走する線の人身事故とかで急に人が乗り込んできたのだ。休日の帰りの時間にも関わらず、車内は急にラッシュアワーのような混雑になる。瞬く間に俺とフレットは窓際に追いやられ、そうしている間にも次々と帰り道を急ぐ人々が乗り込んでくる。密着状態になるだろうな、と思ったところで、間一髪フレットが俺を庇うように窓に手をついた。これが壁ドンって状態か、とぼんやり思う。確かに、至近距離に相手の顔があると結構意識してしまう。
ようやっとドアが閉まる頃には車内は息もつけぬほどの混雑だったが、フレットが隙間を作ってくれているお陰で俺の身体に圧力はかかっていなかった。但し、顔の横に両手が突かれていて独特の緊迫感はある。真向かいで頑張っているフレットに小声で話しかける。
『無理しないで寄り掛かっていいんだけど』
『いや、いーよ……その代わりドア開いたら降りていい?』
『オッケ、降りよう』
同意を返す。フレットは律儀に俺の目の前の空間を確保し続けている。電車が揺れ、人々がそれに合わせてよたよたと動くたびに彼の腕に力が入るのが見えた。自分より少しだけ背が高いフレットにそうして囲ってもらっていると、何だか守られているような気分でくすぐったい。
スマホや窓の外を見るだけの隙間も無かったから、手持ち無沙汰にフレットの顔を眺めていた。蒼い瞳、整った鼻筋。いつもつけている矢印のバッテンの代わりに、今日はリング型のピアスをつけている。何をつけても似合うな、と思う。もともと顔がいいのに加えてセンスのある彼のこと、さぞや女子にはモテるんだろう。……つらつらとそんなことを考えながら見つめていると、だんだんと彼の顔に赤みがさしてきた。
『リンドウ……ちょっと、恥ずかしいんですけど』
『あ、ゴメン』
マジマジとガン見されたらいい気はしないに決まっている。気まずい思いをさせてしまって申し訳ない。視線を逃し、彼の肩越しに電車の真ん中あたりに目をやった。休日にも関わらずスーツを着込んだサラリーマンらしき男と一瞬目が合い、忌々しげに視線を逸らされた。
2分後。次の駅に着いた途端、車内から半ば圧されるようにして俺とフレットは勢いよくホームに吐き出された。ちょっと離れてよう、と誘導されるに従ってホームの内側まで退避する。そのまま乗ってきた電車を一本見送った。
「いや〜めっちゃキツかったわ」
ブンブンと肩を回す彼にそっと礼を言う。
「ありがと……ってか、別に寄り掛かってくれてもよかったんだけど」
「いやぁ……それはちょっと」
何故か彼は誤魔化すようにしきりに頭を掻いていた。「俺の方がちょっとアレかも」
「アレって何だよ」
「ってか俺、リンドウに壁ドンしちゃったね」
見当違いの回答。はぐらかされたような気分になるが、ちょうど自分も車内で同じことを考えていた。
「おまえやっぱりああいうのサマになるな」
「お、ドキッとした?」
「女子ならすると思う」
そう告げるとフレットは心外そうに口を尖らせる。
「女子ってかリンちゃんの意見を聞きたいんですけどー」
「まぁ、近いし目線に困るのはあった」
「そういうのじゃなくてさぁ……」
ふぅ、とフレットは息を吐き、先ほどの再現のように片手を俺の頭の横に回した。
「”俺のことだけ見てろよ”」
「……何?」
「”どこにも行くな”」
低い声でわざとらしく言ってのけるフレットに思わず吹き出してしまう。
「あっは……何それ、乙女ゲー?」
「そう、レガストで勉強しましたー」
戯けているうちに時間が過ぎていたのか、ホームのチャイムが鳴って次の電車がもうすぐ訪れることを告げた。……ついでに、しばらく俺たちのいる3番線の電車は混み合うであろうこともアナウンスされた。
「しばらくはあの調子だろうな……」
「じゃさ、駅ナカとかで時間潰してちょっと待たない?」
「そうするか」
二人でホームに背を向け、地上階に出る階段へと向かう。同じ考えだろう人波に混じってゆるゆると階段を降る。彼らは一様にうんざりしたような、疲れた表情をしていた。
駅ナカのコーナーでウィンドウショッピングに勤しむフレットの傍ら、俺はスマホで乗り換えの検索を始めていた。幹線の遅延を受けて、駅から出ている路線は大方ひどい混雑予想が出されている。
「ってか救出作業でしばらく復旧しないって」
報告を聞いて、ショーウィンドウの中の冬用コートを見つめていた友人が顔を上げる。駅構内の清潔な光が明るい茶髪を照らしている。
「マージかー……」
「帰る時も混んでるかも」
「最悪、詰め込まれるのカクゴで帰るしかないっか」
「だな……諦めてそろそろ乗るか?」
「リンドウ」
何、とスマホから目線を上げると、相手は何やら悪巧みを思いついたようなニヤニヤ笑いを浮かべていた。
「もし次同じ感じになったらさ、リンドウも壁ドンして俺のこと守ってくれる?」
「あー……?どうだろ」
先ほどと逆のシチュエーションを思い浮かべてみる。車内にギュウギュウ詰めにされて密着状態で運ばれるのと、腕を痛めてでも一応距離を取って渋谷駅まで我慢するのとどちらがマシだろう。……どちらも気まずいが、相手が痛いとか苦しい思いをするのは嫌な気がした。なるほど、それで先ほど彼も俺を庇ってくれたのだろう。
「する……かもしれない」
「まじ!?したら俺リンドウに惚れちゃうわ」
「はいはい」
相変わらず大袈裟な友人をあしらいながら、再びホームへの階段へと向かう。軽く早足になってついてきた友人は、俺本気なのになー、つれないなーリンドウ、と不満げな声を上げていた。