向日葵 枯れて焼けたそれが風に揺すられていた。
チチ、と声を上げて雀たちが項垂れた花芯の跡をつつくたび、何粒かの黒い種が地面に溢れる。足を止めてその様子をしばらく見つめていた。
「……ウ?」
白い植木鉢には雨が跳ね飛ばしたのだろう泥の筋がこびり付いている。
「リンドウ!リンちゃん!」
「あ、悪い」
水面を隔てたように遠くから聞こえていた声はだんだんと強さを増し、呼び掛けられていたことにようやく気づく頃には周囲にしっかり響く程度になっていた。大声に驚いたのだろう雀たちがご馳走を諦めて飛び去っていく。ぼんやりしていたことを軽く詫びると、相手の顔には困ったような微笑みが浮かんだ。
「ゴメン、ボーッとしてた」
「リンちゃんさ、たまにリンドウワールドに行っちゃうよね」
それ見てたん?とフレットが顎で示す先にあるのは立ち枯れた小さな向日葵だった。
「あぁ、なんか懐かしくて」
「懐かしい?」
「覚えてるかな、あのゲームの時のことなんだけど」
「あー、前もよくこんな感じで見てたね」
二人はポツポツと思い出を辿る。
****
太陽を祝福するように咲く、その周囲だけは平穏な雰囲気が振りまかれていた。ノイズも死神もUGもない平和な夏休みの一日を思わせる。宇田川町の路地裏、床屋の軒先に他の植木鉢とひしめくようにして置かれたミニ向日葵は、路地裏に溢れる光の小ささにめげることなく精一杯に黄金の花を開かせていた。小さな葉が風に揺れるたび、路地に落ちた緑もゆらゆらと動く。
「どったのリンドウ」
「咲いてるな、と思って」
「まぁ、咲いてるけども?」
「前来たときは咲いてなかったよな」
「あー、チョコパン買って分けたときだっけ」
少し乱れた前髪を掻き上げながらフレットが言う。
二人が前回渋谷を訪れたのは二週間前。いつものようにフレットが渋谷散策を提案し、リンドウは「特に用事ないし」と何となく同意を返した。PARCO、センター街、LOFT。いつものコースを一通り辿り、この界隈 — 宇田川町まで流れ着いていた。時折スマホの画面を覗き込み、スワイプ操作すら始めようとするリンドウをフレットが軽く咎める。周りちゃんと見ないと階段で転ぶよ、と軽く手を引かれたリンドウが渋々顔を上げる。その視界の端にまだ開いていない向日葵の蕾が映っていた。あれ向日葵だよな、向日葵ですね、と他愛無いやり取りを交わして通り過ぎる。
その時のことがぼんやりと記憶に浮かんだ。
「うん。まだ咲かないの、遅いなって思ってたけど……今見たら咲いてた」
「今年梅雨長かったね」
「でももう夏になってる」
「夏っすなー」
訳の分からない”ゲーム”に巻き込まれて今日で6日目になる。そもそも参加する気があった訳ではなく、2週間前と同じように友達と遊びに来ただけだと思っていた。それだけの時間が経っていたという実感もない。何しろ”ミッション”が終わる16時頃には耐えきれない眠気に襲われて意識を失い、一瞬寝落ちしただけにしか感じないのにしっかりと翌日の朝を迎える — そんなことがもう6日も続いているのだ。
それでも、力強く花開いた向日葵は『ちゃんと夏は来ているよ』と宣言していた。長い梅雨は過ぎ、陽の光が渋谷を照らし、2週間分の熱量を受けた向日葵はしっかりと眩しい季節を謳歌している。リンドウは眠たげな顔のままで呟く。
「なんか前来たのがすごい前に感じる」
「分かる、でも昨日みたいにも感じない?」
「それはそうかも」
投げ合う言葉はうだるような空気の中を行き場もなく漂い、それからぽとりと落ちた。しばらくの沈黙を分かち合ったのち、もうやめよう、と言うようにフレットがバシバシとリンドウの背中を叩いた。
「なんかしんみりしちゃったね?ナギセンたちもう行ってるし、早く追いかけよ」
「……そうだな、早く行こう」
どろりと膠着した雰囲気を振りきって、二人の少年が宇田川町の階段を駆け下りていく。その後ろ姿を植木鉢のミニ向日葵が見送っていた。
それから更に2週間に渡って”死神のゲーム”は続き、二人とそのチームメンバーたちは何度も宇田川町の階段を上り下りした。通るたびに、視界の端にキラキラと光る向日葵がリンドウの目を引いた。何となく足取りが緩み、そのたびに相棒に揶揄うように咎められる。残光のように眩しいその花は、呑気に平和を楽しんでいるようにも見えたし、どこか自分を励ましてくれているようにも見えた。
— こっちはもう夏だよ。
— キミが頑張ってるのをずっと見ているよ。
— 早く、帰っておいで。
***
「あれ以来来てなかったもんね」
「死神ゲームやってるうちに夏が終わった感あるよな」
「あるねぇ……帰る頃には夏休み終わってたし」
損したわ、そう言うと相手はかがみ込んで地面を弄るように手を伸ばした。雀が食べ残した黒い粒を幾つか摘み上げて掌に広げる。その一粒を摘み上げ、陽に透かすようにしげしげと眺めている。
「コレさ、植えたら芽が出るかな」
「出るだろ、知らないけど」
「やってみない?リンドウ」
手ぇ出して、と半ば無理やりリンドウの右手を引き出して広げさせ、その上にぽちりと一粒種子を落とす。
「コレを育てろと?」
「そ。死神ゲームの思い出に、さ」
「思い出って……」
「だってバッジも捨てちゃったし、服もアクセも没収されちゃったし。写真も消されちゃったじゃん」
彼は文句を並べる。彼の言う通り物的証拠はことごとくなかったことにされていた。はしゃいで買い込んだ服飾品の類はUGに置いてくることになったし、投げ捨てたバッジはそのまま別次元の彼方に消えてしまった。珍しいというだけで撮ったワニの丸焼きも何故かフォトフォルダから無くなっていた。死神ゲームの確かな証拠があるとしたら、ツイスターズの共通ラインに残った先輩方とのやり取りと、あのゲームの中で出会ったショウカがこの世界にいるということ — その程度。
「そんな思い出にしたいようなものでもないだろ」
「でも俺は、さ……忘れたくないよ」
呟いた彼の声からは普段の軽薄なトーンが少し遠のいていた。
「ツイスターズのことも、カノンさんのことも。リンドウと一緒に頑張ってたこともずっと、覚えてたい」
宝物を数えるように慎重に紡がれる言葉を聞きながら、言うようになったよな、とリンドウは思う。時折ではあるが、かつて彼自身がわざと避けてきた真摯さや真っ直ぐな気持ちを少しずつ口にするようになっていた。彼の内心の臆病さや無力感を知った今では、無碍に切り捨てることもできないような気がしてしまう。
小さなため息を一つついて、リンドウは分かった、と向日葵の種を握りしめる。
「……おまえも育てんの?」
「当たり前!」
「なんかフレットすーぐ枯らしそ」
「おー、言ったね?」
挑戦するように返した声は完全にいつもの調子に戻っている。
「来年ちゃんと写真送るから見てろって!」
「どうだか」
軽くいなしながら、財布のジッパーの中に黒い向日葵の種を落とした。
一年後。
ベランダの青い植木鉢のミニ向日葵が、太陽に向かって金色の掌を広げる頃。
満足げに見つめるリンドウのスマホが震え、見知った相手からの通知を届ける。慣れた操作で画面を立ち上げる彼に嬉しそうなメッセージが飛び込んできた。それから、自分の植木鉢に植っているものとよく似た眩しい花弁の写真。
『見てリンドウ』
『あのときの向日葵』