IKL幻覚雨クリ小説② それはいつものように、朝の執務を終えたアメヒコがクリスへの報告と様子見を兼ねて、クリスの執務室を訪ねたときのことだった。
「キング・アメヒコ。申し訳ありませんが、グランドキングはまだお戻りではありません」
執務室の傍に控えていた騎士の一人が、申し訳なさそうにそう言った。
「まだ?どこへ行っているんだ」
アメヒコが知る限り、今日はクリスは特別普段と違う仕事は入っていないはずだったが。
「それが、朝の融解の祈りへ向かわれてから、お戻りになっていないのです。てっきり、キング・アメヒコとご一緒かと思っていたのですが……」
「そうか。では探しに行くが……、もし戻ったら昼に広間で落ち合おうと伝えてくれ」
「は。かしこまりました」
困り顔の騎士を置いて、アメヒコは早足で祈りの間へ向かった。
普段の融解の祈りの時間から、既に二時間は経過している。流石にもうそこにはいないとは思うが、手がかりくらいは得られるだろう。いや、そうであってくれ。
祈るような気持ちで、アメヒコは祈りの間の重たい扉を開いた。
「……!」
そこでアメヒコの目に飛び込んできたのは、祈りの間の中央で倒れているクリスの姿だった。
一瞬にして、心が冷えるようなそんな気がした。震える足をなんとか動かし、倒れているクリスのもとへ向かい、その傍らで膝をついた。
口元に手をやる。呼吸はしている。
生きている。
アメヒコの口から安堵の息が漏れ出た。
見れば、ひどく顔色が悪い。おそらく、力の使いすぎによる気絶だろうと予想された。
先日クリスが話していた、氷の侵食の件を気に病んで、普段より多く祈りを捧げたのだろうか。
アメヒコはぐ、と唇を噛んだ。
どうしてそんなにも、献身的でいられるのか。もっと、自分を大切にしてはくれないものか。
そんなやるせない気持ちで、アメヒコはクリスの頬を撫でた。
「う……ん、……」
触れられて意識が浮上したのか、クリスはゆっくりと目を開けた。
「アメヒコ……?」
「大丈夫か?……ここは寝るには良くない。寝室へ運ぶが、いいな?」
「私はまた、ご迷惑を、おかけしてしまったのですね」
クリスはぐったりとしたまま、アメヒコに体を預けた。
寝室へと向かう道中、クリスはアメヒコに、午後はいくつか謁見の予約が入っていることを打ち明けた。
「あまり長くは寝ていられないのです。騎士の方へ、時間になったら起こしていただけるようお伝えいただけないでしょうか」
「そんな体で人と会う気か。無茶だ。俺が代わりに話を聞いておく」
「ですが、……その、申し上げにくいのですが、彼らは連合の王、グランドキングである私に会うために……」
クリスは気まずそうに、視線を落とした。一介の地域の王であるアメヒコが出ても、約束の相手は満足しないだろうと。アメヒコもそれは理解している。
「まあ、相手さんには申し訳ないが。俺だって一応中つ国の王だ。納得してもらうさ」
「すみません。あなたにばかり負担をおかけして……」
そう言うと、クリスはぐったりと、アメヒコの胸に顔を埋めた。この様子では、相当無理をしたに違いない。騎士に起こされたとて、まともに謁見に対応できていたかどうか。
ようやくたどりついたクリスの寝室の、豪奢なベッドにクリスを下ろした。その頃には既に、クリスは再び眠りに落ちていた。
「おやすみ。よく休むんだぞ」
そう言ってかけ布団を引き上げてクリスにかけると、クリスはぼそりと口を動かした。
「ん?」
耳を口元に寄せて聞き取ろうとすると、クリスはうわごとのように「うみ……うみ、に……」と、極めて小さな声で呟いていた。
アメヒコははあ、と息を吐いた。
「海ねえ……」
その日の謁見は、結果としてアメヒコを悩ませるだけ悩ませて終わった。
東の国の使者からは、力を持った子供が産まれたという報告。土の力を持つ子らしい。
南の国の使者からは、氷の侵食により畑を失った者たちへの就労支援の相談。一旦預かり、仕事を失った者には金銭的な支援をするように申し渡した。
西の国の使者も南の国の使者同様、氷の侵食について。
使者以外にも何組かの者が陳情を持って上がったが、共通して言えることは「氷の侵食が進み、外側になればなるほど、住民たちの今後の生活が危ぶまれている」ということだった。
言外に「グランドキングはいったい何をしているのか」と非難するものもいた。アメヒコが「王は王のなすべきことをしている」と伝えたが、謁見にきたものたちの不満は拭えなかった。
「こんなものを繰り返し聞かされてたら、そりゃ気も病むだろうな……」
全ての謁見を終えたアメヒコは、自分の執務室のデスクに肘をついていた。
今日の午後やる予定だった書類が山積み、というほどではないにせよ、それなりの量がデスクに積まれている。これから全てに目を通し、場合によっては突き返さなければならない。
「キング・アメヒコ。お疲れのようですね。あたたかいミルクを持って来させましょうか」
「ん、ああ、そうだな。じゃあ二人分頼む」
アメヒコは、休憩がてらクリスの様子を見に行くことにした。察しの良い助手は、「ではグランドキングの部屋へお持ちします」と気を利かせてくれた。
「助かる」
そう言うと、アメヒコは席を立ち、クリスの寝室へ向かった。
クリスは、アメヒコが部屋に入った頃には既に目を覚まし、枕にもたれかかっては窓の外を眺めていた。
「起きていたのか」
「アメヒコ。……今日はその、すみませんでした」
「気にしなさんな。休むのも仕事のうちさ」
自然な動きで、クリスの隣に腰掛ける。
「飯は食ったか?」
「いえ、本日はまだ何も……」
「何も?そいつは良くないな。何か持って来させようか」
アメヒコは席を立つと、扉を開いた。見ればちょうど召使いが飲み物を持ってきたところだった。
「ありがとさん。悪いが、消化に良さそうな飯を持ってきてくれるか」
「かしこまりました、キング・アメヒコ」
ホットミルクを手渡した召使いは、部屋の奥にいるクリスをちらりと見ると、アメヒコに目礼してその場を去った。
アメヒコはクリスにホットミルクを手渡すと、ベッドの傍らにある椅子に腰掛けた。
「それで?今日はどうして、あんな無茶をしたんだ」
どうして、なんて聞くまでもないことはわかっていた。それでもそう問わずにはいられなかった。
クリスは何か言おうと口を開いたが、顔を曇らせ、口を閉ざした。アメヒコにはその表情が、困惑しているように見えた。
「……やっぱり、氷の侵食が心配で、祈りの時間を増やしたのか?……前にもダメだと言ったはずだが」
「いえ、その……増やしてはいないのです」
「は?」
クリスは、言いにくそうに目を伏せては、小さな声でそう言った。
「融解の祈りの、始まりと終わりに、鐘が鳴っているのはご存じですね?」
「ああ。毎朝早くに鳴っているやつだろう」
「私は今朝、その終わりの鐘を聞いていません」
「……集中していて気づかなかったんじゃないのか」
「まさか。祈りの間にいて鐘の音に気づかないはずがありません」
確かに、祈りの間のちょうど真上が鐘塔だ。ならば気づかなかったとは考えにくいだろう。
「つまり……」
信じ難い、という表情を浮かべたアメヒコが、クリスを見つめた。クリスは苦悩に満ちた表情で頷いた。
つまり、今のクリスは、普段のルーティンの祈りすら完遂できないほど、弱り果てているということなのか。
「申し訳ありません。連合の王たる私が、このような体たらくで……。やはり私など、王の器に足るものではなかった……」
クリスはすっかり萎縮しており、俯いている。
夢に見た海について話してくれていた時とは天と地ほどの差だった。
(海……そうか、そうだな)
アメヒコは、今のクリスを癒すのは海しかできないと確信した。そして、今は何よりも、クリスの気持ちを和らげることこそが優先されると。
アメヒコは、すう、と息を吸い込み、声のトーンを変えた。
「なあ。話は変わるんだが……聞きたいことがある」
「え、はい、なんでしょうか」
突然のアメヒコの言葉にクリスの気が逸れた。
「お前さんはいつ、どうやって海の存在を知ったんだ?」
「はい?」
突然アメヒコの口から出てきた海の単語に、クリスは目を丸くした。
「何故今、そんな話を……」
「前から気になっていてな。先日海について語ってくれただろう?あれだけ海を好きになるということは、よほど良い本に巡り合ったんだろうと思ったんだ」
「は、はあ……」
少し強引だったろうか。それでも構わない。それで少しでも、今感じている痛みが和らぐのであれば。
アメヒコはそう考えて、畳み掛けるように海の話を続けた。
「夢に見るほど、ということは、きっとそれだけ強烈な本だったんだろう。俺が知っている海の話と言ったら、海に住む人魚の少女が人の男に恋して地上へ上がる御伽噺と、人の漁師が海の底の城に行って最後は老人になってしまう御伽噺くらいなんだが」
いずれも古い古い話で現代語への翻訳も満足にされていないため、一部の古典マニアにしか知られていない程度の話だが、幸いアメヒコの家系はその古典マニアが多かったためか幼い頃に既に読んでいた。古い本を読むことに何の意味があるのかわからなかったが、ここにきてその経験が役に立つとは。
アメヒコの話を聞いたクリスは、最初はぽかんと口を開けていたが、段々と表情が綻んできた。
「ええ、そのお話は二つとも、ええ、知っています。アイスキングダム中央図書館の蔵書にもありますね」
「多分俺が読んだのはそれだ」
「素晴らしい。ええ、そうですね。私も図書館の本には何度もお世話になっております。海に関連する本は、殆ど読んだと言っても過言ではないかもしれません」
「それはすごいな」
「ふふ。古い本ばかりで、最初は苦労しました。ですがいずれも心躍るものばかりでした」
気づけば、クリスの顔には笑みが浮かんでいた。アメヒコは内心ホッと一息ついた。
「アメヒコは、海に関する本が読みたいのですか?」
「ああ。お前さんがそこまで入れ込む海ってやつが、段々気になってきてな」
まあ正直に言えば、海そのものへの興味関心というよりも、クリスを理解するために、海についてもっと知りたいというのが正しいのだが。
「素晴らしい!実はこれまで、身近な方に海に興味を持っていただいたことが無くて……たいていの方はみな海を知りませんし、知っていても伝説上の秘境、くらいにしか思っていただけず……。ですが私は、海は実在していたと確信していますし、きっと今もこの世界のどこかに、海は存在していると信じています!」
急に饒舌になったクリスは、きらきらとした笑みを浮かべ、幸せそうに陶酔しきっている。
「そうか……そいつは、ロマンがあるな」
「ええ。ええ。そうでしょう!海は非常に大きなロマンを秘めていると、私は思います。アメヒコが同志になってくださるのであれば、とても心強いです!今度、オススメの本をまとめて手配いたしますね」
クリスがここまではしゃいでいるのを、アメヒコは久々に見た気がした。
(いや、久々、というより、初めてに近いだろうか)
普段は物腰穏やかで柔和なクリスしか見ていないアメヒコにとって、新たなクリスを知れたような気がして、なんだか少し嬉しかったし、他の誰も知らない一面を見れたような気もして、心のどこかが満たされるような気がした。
「お手柔らかに頼むぜ」
「はい!お任せください!」
ちゃんと伝わっているのか、と疑問に思いつつ、それでもクリスの笑顔が見られたからどうでも良いか、とアメヒコは眉を下げた。