IKL幻覚雨クリ小説③ 大量の本が、アメヒコの執務室に届けられた。
「キング・アメヒコ。こちらは……」
普段事務仕事を手伝ってくれている助手が、その本の山を見て閉口した。
どれもかなりの年代物で、雑に扱ったら破れてしまいそうだ。
「グランドキングのおすすめの本だとさ」
「グランドキングの?少し中身を拝見しても……」
クリスの名前を出すと俄然興味が湧いたのか、助手が目を輝かせた。
「図書館の本だから丁重にな」
「はい!」
助手はどきどきしながら一番上に積まれていた本のページをめくった。表紙には「海洋学入門」と書かれている。
「…………」
助手は、その本の中身をじっと見つめると、眉間に皺を寄せた。
「どうだい」
「……これは、古典文学、か何かでしょうか。文字は頑張れば読めないことはないのですが、言い回しが難しくて……」
助手は続けて二冊目、三冊目と手に取る。
「海洋生物と、世界の海か」
「キング・アメヒコは古典に明るいのですか」
「まあ、古い本は昔から嗜んでいたからな」
「すごいですね!さすが我らが中つ国の王です!」
「たまたまさ」
まあせっかく用意してくれたんだし少しずつ読んでいくか、と、アメヒコは数冊の本をデスクのブックスタンドに差し込んだ。その時に、本の山の中に童話と呼べるものが何点か含まれているのに気が付いた。
「ここらへんの童話は、俺が子供の頃読んだやつだ。入門編にするならうってつけだと思うぜ?」
そう言って、山から数冊薄めの本を抜き取ると、それを助手に差し出した。
「ありがとうございます、キング・アメヒコ」
助手はその本を手にすると、嬉しそうに笑った。
アメヒコが幼い頃は、当時中つ国の王であった叔母に連れられて、王城に隣接した中央図書館によく足を運んでいた。
浄化の力を持っていたため未来の王候補と目されていたのだろう。王城内に出入りすることも許されていたし、図書館で本を読んでいる時は必ず護衛が近くにいた。正直護衛については少し煩わしかったが、話しかけてくることもなかったし放っておいた。だがそれとともに、そんな物々しい雰囲気を纏う子供に話しかけてくる者も、またいなかった。
(まあ別に構わないが)
遠巻きに見てくる子供たちは、みな最近出たばかりの絵本を手にしている。一方アメヒコの手元にあるのはすべて、叔母がチョイスした古めかしい本だ。
――いずれ王になるのであれば、過去から学べるようにならなければ――などと言われ、積み上げられた古い本の山。正直少し辟易としていた。
(別に俺は、王になるつもりなどないのに)
ただまあ、本から逃げたところで他の子供たちのように遊ばせてもらえるわけでもなし。ただ時間を無為にやり過ごすのも勿体ない気がして、アメヒコは小難しい本に手を伸ばした。その時だった。
目の前に、自分と同年代くらいの少年が座っていた。
突然人が現れた、と驚きのあまり声が出そうになったが、その少年は「しー」と指を唇に当てて笑っていた。
「君は……」
これまで人から話しかけられたことがなかったアメヒコは、人懐っこく笑いかけてくるその少年に戸惑いを隠せなかった。
「びっくりしました。私と同年代なのに、難しい本をいっぱい読まれているから」
少年の視線の先には、アメヒコがこれから読む古い本が積まれている。
「あ……ああ。家の方針で。古い本を読まなくちゃいけないんだ。別に面白いものじゃないけど……」
不承不承、といった雰囲気が漏れ出ていたのだろうか。少年はぱちくり、と目を瞬かせせた。
「あの、少し待っててもらえますか」
「は?」
そういうと、少年は小走りで本棚の向こうに消えていき、少しもしないうちに戻ってきた。見れば、数冊の薄めの本を腕に抱えている。
「これ、すごく面白い本で。私大好きなんです。でも、ほかに読める人がいなくて。貴方なら、きっと読めるだろうから」
少年はそう言うと、その本をアメヒコに差し出した。
緊張しているのか顔がこわばっているし、少し手も震えている。
アメヒコは少しの間呆然とそれを眺めていたが、少年が「やっぱり、興味ないですかね……」と悲しそうな顔をしたのを見て、思わずそれを受け取ってしまった。
「いや、少し驚いただけだ。ありがとう。勉強の合間に、読ませてもらう」
「本当ですか!良かったです……ありがとうございます」
少年は嬉しそうに笑った。
その時、図書館の入り口がばたばたと騒がしくなった。
「こっちに来たと聞いたが」
「図書館の中だと見つけにくい。手分けして探そう」
その声にびくり、と肩を震わせた少年は、「では、また」と囁くようにして、逃げるように去っていった。
アメヒコの手の中には、「人魚姫」と「浦島太郎」と書かれた本だけが残されていた。
あれからしばらくした後、王城にいる叔母を訪ねた際に、あの時の少年が、幼くしてこの国々を統括するグランドキングなのだと知った。
そして叔母から、「いずれお前が王になったら、あの方をお支えするんだよ」と言われ、どこか他人事だった王位というものが、明確に目指す目標となったのだった。
アメヒコは、死に物狂いで勉強を重ね、やっとの思いで叔母からの承認を得て、中つ国の王位を継承することができた。その頃には、あの図書館での出会いから既に五年は経過していた。
即位のあいさつでやっと彼と対面した時の感動は、今でも忘れられない。しかし、向こうはこちらに気付いていないようだった。仕方ないだろう。五年も前のことだし、ほんの数分間の出来事だった。それに彼は、常に大勢の人間と関わらなければならない、王の中の王の立場なのだから。
一抹の寂しさを感じながらも、アメヒコは、中つ国というグランドキングのお膝元で王の地位に就けたことに、この上なく満足していた。
「キング・アメヒコ?どうかしましたか、ぼうっとして」
助手の声にはっと我に帰った。
「いや、なんでもない。その本を読んでいた時のことを思い出してな」
「そうでしたか。私も業務の合間に読ませていただきますね」
「そうしてくれ」
アメヒコは、山になって積まれている本を、デスクの横に積み直した。さすがにこの量は、すぐには読みきれない。
「さて、今日も仕事を片付けていくか」
「はい。よろしくお願いします」
そうして書類仕事に取り掛かると、時間はあっという間に経過した。召使いが昼食を告げるその時までに、アメヒコはその日の書類を全て片付け終えていた。
昼食をとるために広間に向かうと、クリスはまだ到着していないようで、姿が見えなかった。
「グランドキングは?」
「体調が優れないそうで……融解の祈りが終わってから、お部屋で休まれております」
「……今日もか」
アメヒコは顔を曇らせた。先日のことがあってから、クリスにはあまり無理をしないようにと忠告をしていたのだが。
「……ちょっと様子を」
そう言って席を立とうとすると、クリスの部屋付きの騎士が首を振った。
「なりません。キング・アメヒコには、ただでさえグランドキングの執務を肩代わりしていただいております。グランドキングも、これ以上キング・アメヒコに負担をかけることは望んではおりません」
「顔を見に行くだけだ」
「昼食を終えたらすぐに謁見の予定が入っております」
「少しくらいなら……」
それでも、騎士は首を縦には振らなかった。
アメヒコは、苦虫を噛み潰したような表情で、再び席についた。
アメヒコが昼食を食べている間、クリスの部屋付きの騎士が、これから謁見に来る者たちの情報を報告する。
西の国の有力者、中つ国の労働者団体、北の国の王。
「キング・ソラだと?」
王直々のお出ましは珍しい。思わず反応したアメヒコに、騎士は頷いた。
「ええ。キング・ソラで間違いありません」
「……そうか」
またこうしてソラに会えるのは喜ばしいが、ソラがわざわざ中つ国まで来る目的は間違いなくクリスだろう。会わせてやれないことが心苦しかった。
ソラも、自分と同じく、グランドキングとしての務めを果たしている彼を好ましく思っているのは間違いない。
(可能であれば、一目だけでも会わせてやりたいが)
そのようなことを考えながら、アメヒコは黙々と昼食を平らげ、謁見の間へ向かった。
*****
(遅くなっちゃったなー。クリスさんも忙しいだろうに、待たせちゃって申し訳ない)
ソラは、付き人を従え、王城の廊下を早足で歩いていた。
まさか、北の国から中つ国に向かうまでの道中で、氷の塊に道を塞がれているとは思わなかった。
お陰で普段ならばものの数分で通り抜けられる道に、何時間もかかってしまった。
「あんなの前からあったっけ?」
「いえ、数日前には無かったはずです。同じ道を通ってきましたから」
「そうだよね。最近やっぱり、氷の侵食、早くなってきてるよね」
はあ、とソラは深く息を吐いた。
今回クリスに会いにきたのもその件だった。ここ数日、氷の侵食の速度が著しく上がっており、北端の村の住人たちは南の方への移住も検討しているほどらしい。しかしこのままでは、南へ行ったところでまた氷に追いつかれ、やがては中つ国まで到達してしまうことだろう。
(それじゃ、根本的な解決にはならない)
とはいえ、この氷は削ることも難しく、火の力を持つ王の力を持ってしても、満足に溶かすことはできないという。となると、やはり水の力を持つグランドキングになんとかしてもらうしかない。
(王とは名ばかり。こうして頼ることしかできないなんてね)
ソラは自分の不甲斐なさに歯噛みした。
そうしている間に、ソラは謁見の間に到着した。
息を整え、扉を守る騎士に促され、入室した。
「あれ?」
ソラの視界に飛び込んで来たのは、クリスではなく、アメヒコだった。
「アメヒコさん?じゃ、なくて、キング・アメヒコ?」
「ああ、来たか。キング・ソラ」
本を読んでいたらしいアメヒコは、パタンと本を閉じ、膝の上に置いた。
「あれ、僕、グランドキングへの謁見を申し込んだつもりだったんですけど」
「ああ、それは知ってるが……、グランドキングは今は少し調子が悪くてな。俺が代理で話を聞いているんだ」
「そう、だったんですか……だから……」
クリスが調子が悪いと聞き、ここ数日の氷の侵食の理由が分かったような気がした。
「話は、氷の侵食の件についてかい?」
「え、なんで知ってるんですか」
「ここ最近、謁見で聞いた話の九割がそれだからな」
「……なるほど」
ソラはつい黙り込んでしまった。全国的に、氷の侵食が加速している。そしてクリスは不調。間違いなく、そこに因果関係はあるだろう。
「グランドキングは、ご病気か何かですか?うちの王城内に、腕利きの薬師がいますが」
「あー……いや、どうだろうな」
珍しく、アメヒコの歯切れが悪い。
「……何か、あったんですか」
「……お前さんには、話してもいいか」
アメヒコはそう言うと、近くに控えていた騎士や付き人たちに席を外させた。
「あまり、人に聞かせられない話なの?」
「まあ、そういうことだ」
アメヒコは、深刻そうな表情を浮かべ、ここ最近の出来事をかいつまんで話し始めた。
「……氷の侵食自体は、これまでもゆるやかながらも続いてきていた。しかし、ここ数ヶ月、特にここ数日の悪化の度合いは、少し異常だ」
「それは僕も北にいて肌で感じたよ。今日も、来る途中に氷の大きな塊が道にあって、馬車で通るのに苦労して」
「それで遅れていたのか」
アメヒコが顎に手を当て、得心したように息をついた。
「遅刻してごめんね?」
「そこは気にするな。仕方のないことだし、俺も久々に本を読む時間を取れたよ」
アメヒコは、手元の本を軽く持ち上げた。先程部屋に運び込まれた沢山の本のうちの一冊で、ソラの到着が遅れていると報告しにきた助手が暇潰しにと持ってきてくれたものだ。
「世界の海?ずいぶん古そうな本だけど、古典ファンタジーか何か?」
「古典は古典だが、ファンタジーではないさ。グランドキング・クリスのオススメの本だ」
「へえ。クリスさん、古典も読むんだ。知らなかったな」
何ということもないような会話をしているが、アメヒコの話を聞いたソラは、沈痛な表情を隠せなかった。
「……アメヒコさんは、クリスさんの今の状況、どう考えてるの」
「根拠のないことは言えないが……そうだな。水の力が切れかかってきている可能性は、否めないだろうな」
「そう、だよね」
僕もそう思う、とソラは目を伏せた。
国を預かる王としても、クリスの友人としても、そんなことは絶対にあってほしくない。だが、これまでの経緯を見るにその可能性は否定できない。
せめて水の力を持つ者がほかにいれば、その人物にグランドキングの座を代わってもらい、この有事に当たってもらいたいし、クリスには引退してもらい、残りの力を使って余生を生きてもらいたい。だが生憎、まだ水の力を持った子供が産まれたという話は、全く耳にしていない。
「ねえ、アメヒコさん。力を持つものってさ、全ての力を使い果たしたら……」
「言うな。……お前さんの知ってる通りだよ」
「だよね」
言葉にすることすら躊躇われる。それはつまり、命を落とすということだ。
だからこそ、王たちは自分の力がまだ残っている段階で、後継者を見出し、育て、後を託している。それがこの世界の普通なのだ。しかしクリスには現状、後継ぎがいない。
「じゃあどうしたらいいの?クリスさんを死ぬまで働かせる?それとも、みんなで氷に包まれて死ねばいいの?」
「おい」
「わからないよ。どっちにしろ、もう長くないんでしょ。クリスさんの水の力も、この国も。……どうしたらいいんだよ」
ソラは、地面に拳をついた。
アメヒコにも、この状況の打開策など浮かばない。あまりにも、氷の侵食の威力が大きすぎる。それに対抗できる策も、水の力しかない。もはや、打つ手なしだ。
謁見の間に、静寂が満ちる。
アメヒコも、ソラも、何も言えないまま、ただ、窓の外の陽が沈んでいくのを眺めていた。
「空……そうか……」
突然ぼそりと呟いたアメヒコの声に、ソラは顔を上げた。
「どうかした?アメヒコさん」
「なあ、一つ聞きたいんだが……お前さん、空を飛べるか?」