うちのボスの話 ガラス窓に固い何かがあたるカチャカチャという音がして、暦は持っていたペンを置いて、ベランダに続く窓のカーテンをめくった。
そこには、毛並みの良い猫がお行儀よく座っていた。ゆらゆらと揺れる尻尾は、少し機嫌が悪そうだ。
「はいはい、今開けるって」
鍵を開けてカラリと窓を開くと、当たり前のようにするりと入り込んでくる。入ってすぐのところに敷いてあるタオルに乗ると、じ、と暦を見上げた。ふん、と鼻を鳴らす様に苦笑しながら、足の汚れを拭き取ってやる。抱えるようにすると怒るので、片足ずつ持ち上げながら優しく拭いてやると、気持ち良さそうに目を細めた。
「はい、どーぞ」
前足と後ろ足を拭い終わると、当たり前のように部屋の中を歩き始めた。キッチンの足元に置かれているフードボウルに近づくと、暦を振り返った。
「あー、水な」
水道水を入れても絶対に飲まない彼の為に、冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを出して、器に入れてやる。満足そうにチロチロと舐め始めたのを見て、レポートの続きに取り掛かる為、机に戻る。
資料やメモを確認しながら、ノートパソコンのキーボードを叩いていると、足元にふわふわとした物が触れる。見下ろすと、水を飲み終わったのか足元に擦り寄るようにして彼がこちらを見上げていた。
「ごめん、今ちょっと忙しいから後でな」
軽く頭を撫でながら謝ると、もっと撫でろというように頭を押し付けてくる。軽くもう一度撫でて手を引くと、ぐる、と何か言いたげに喉を鳴らす。気位の高い彼が撫でるのを許してくれるのは貴重なので、もふりとした手触りの良い毛並みを思う存分堪能したい誘惑に駆られるが、ぐっと我慢する。
レポートの提出は二日後だ、ここで遊んでしまうと間に合わなくなる。貴重なデレを逃すのは惜しすぎるが、今日ばかりは部屋の隅に設けてある専用スペースで寛いでいただこう。
資料に視線を戻して、どこまで入力したかと画面を確認した瞬間、軽い音がしてふわふわの体が机に飛び乗った。そうして、並べてた資料を物ともせず踏みつけながら優雅に歩くと、そのまま悠然とキーボードに寝そべった。
「おいー、それはダメだって」
退かそうとしても、あっさりと暦の手を避けてまたキーボードの上に戻ってしまう。おまけに、退かされそうになるのが気に入らないのか、広げた資料に尻尾をたしたしと叩きつけて、不機嫌をアピールしてきた。
「だから、後でなって……あーもう、分かったから」
とうとう伸ばした手を猫パンチで叩かれ始めて、暦は観念した。そっと頭に手を伸ばすと、退かす為ではないと気づいたのかじっとその手を眺めている。
そっと何度か撫でると、ごろごろと喉が鳴る。どうやら機嫌が直ったらしい。頭から首のあたり、背中を撫でてやると、そのまま気持ちよさそうに目を閉じる。短毛でふわふわとした毛並みが心地良くて、つい無心で撫でてしまう。
背中を繰り返し撫でていると、腕に頭を擦り付けられる。普段、頭を何度も撫でると威嚇されることを思うと、破格の待遇だ。よしよしと頭を撫でていると、満足したのかキーボードから退いてくれた。
もう少し撫でたい気もするが、あまりしつこくすると引っ掻かれるので、ここはキーボードを使えるようになったことを喜ぶとしよう。と、キーボードで文字を入力し始めると、何を思ったのかパソコンの側に座りなおした彼が暦の手にパンチを繰り出し始めた。
「あ、こら、入力出来ないだろー」
暦が手を止めると、彼もぴたりと止める。再開すると、またパンチを繰り出す。それを何度か繰り返して、暦は今夜の作業を諦めた。
忘れずに保存だけしてパソコンを閉じると、すかさずその上に彼が乗った。満足そうにふすーと息を吐く彼は機嫌が良い。
「なに、今日は良い事でもあったのか?」
椅子を降りてラグに胡座をかくと、組んだ足の間に体を収めてくる。本当に珍しいなと額を軽くかいてやると、ゴロゴロとまた喉が鳴った。
******
この不思議な野良猫と出会ったのは、半年ほど前だ。大学での生活にも、一人暮らしにもようやく慣れてきたころ。
バイト先へ向かう途中の路地裏で、物陰に隠れるように丸まっているこの猫を見つけたのだ。
丁度、台風が近づいている最中で、傘の骨が折れるのでは無いかという勢いで雨が降り、時折吹く強い風のせいもあって、傘をさしている意味がないくらいに全身がビショビショになるような、そんなひどい天気だった。
この辺りではあまり見かけない藍色の毛並みに、迷い猫では無いかと思わず足を止めた。逃げられないかと恐る恐る近づくが、目を閉じたまま動く様子がない。そぅっと触れた毛は水分を含んでぐっしょりと濡れていて、微かに伝わる呼吸は弱々しかった。
ーーこれ、やばいんじゃ。
ぐしょぐしょになったリュックから、バイト先である居酒屋の制服を引っ張り出す。多少濡れているが、絞れそうなくらいに濡れている上着よりはマシだろう。暴れないか心配したが、丸まった体を抱えても僅かに目を開いただけで、じっとしている。
なるべく濡れないように抱え込んで、あまり役に立たない傘を低く構える。
本当なら病院に行くのが一番なのだろうが、生憎近くに動物病院があるのかも分からない。調べようにも、両手が塞がっている。まずはこれ以上体が冷えないようにした方が良いと判断して、なるべく早足で自宅へ戻ることにした。
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帰宅して、ぐっしょりと濡れたリュックや上着を玄関の近くに放り投げ、靴下を脱ぎ捨てると、浴室近くのタオルラックから雑に畳まれたバスタオルを引っ掴む。床に二つ折りの状態で広げると、濡れてしまった制服を乗せて、そっと開いていく。
逃げることもなく、ぐったりとした体が現れたのを確認して、制服からバスタオルに移して濡れた毛並みをそっと拭く。ある程度水気が取れた事を確認して、新しいバスタオルで包む。
「……猫って、ドライヤー使えんのかな」
濡れたズボンのポケットからスマートフォンを引っ張り出して、検索サイトで調べる。途中でくしゃみが出たので、猫を気にしながら服を脱いで洗濯機に突っ込み、適当に体を拭いて新しい服を着る。
それからドライヤーを持って来ると、タオルを開いて火傷をしないようにそっと温風を当てる。音が煩わしいかもしれないが、窓に吹き付ける風の音もなかなか大きい。タオルドライよりもドライヤーの方が冷えた体を温められるだろうから、少し我慢してもらおう。ぺたりとした毛がなるべく早く乾くように、手櫛の要領で毛並みを何度も撫でて、少しでも風が通るようにして丁寧に風を当てていく。
徐々にふわふわと膨らみ始めた毛を確認して、一度ドライヤーを止める。そっと触ってみて、湿っている部分が無いのを確認すると、もう一枚新しいバスタオルを出してきて呼吸を邪魔しない程度に包んでやると、床は冷えるだろうとベッドの上に乗せた。
引越し祝いにやたらとバスタオルをもらった時はそんなに使わないだろうと思ったが、この時ばかりは持って行けと押し付けてきた母に感謝した。
そっと触れると微かに震えているように思えて、何か温められるものはないだろうかと部屋の中をあちこち物色する。やがて、冬用の上着から使い捨てのカイロを見つけ出した。貰ったものの、使わずに入れっぱなしにしていたらしい。低温やけどしないように、念の為小さめのタオルで包んでから猫の体を包むタオルの下に差し込んだ。
そっとタオルの中で丸まる体に触れると、先程よりは温もりを感じるようになった気がした。ひとまず安心して、近所の動物病院を調べようと先ほど適当に放り投げたスマートフォンを手繰り寄せると、メッセージアプリに通知が来ている事に気がついた。アルバイト先の連絡用グループに、今日は店が開けられないので家で大人しく待機しているように、と店長からの連絡が入っていたのを慌てて返信する。
アルバイトの事をすっかり忘れていたと反省しながら改めて動物病院を調べると、アパートから連れて行ける範囲に一ヶ所見つけた。猫好きな友人にも連絡を取って他に出来ることがないかを確認して、ベッドの前に座り込む。
タオルから覗くふかりとした毛並みをそっと撫でると、微かに身動ぎをして、か細い鳴き声が上がった。どこか寂しげな声に、暦は思わず声をかけた。
「……大丈夫だから。もう寒くないからな」
何度も撫でながら大丈夫と繰り返していると、もぞりと頭が動いて、額を手のひらに微かにくっ付けてきた。そこを撫でて欲しいのかと、そっと額を撫でてやると、ぐる、と喉が鳴った。
「大丈夫だからな」
よしよし、と妹たちにするように額を撫でながら、やがて穏やかな呼吸が聞こえてくるまで、暦は大丈夫と繰り返した。
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その後、動物病院に連れて行って薬をもらい、友人からフードボウルやトイレなどの最低限必要なものを教えてもらって、回復するまで面倒を見た。
弱っている時は感じなかったが、回復した彼は、なんとも言えない風格のある、我が儘なお猫様だった。
首輪を嫌がり、暦の部屋に定住する訳でもなく、ふらりとどこかへ行って、数日すると気まぐれにやって来る。
初めは首輪だけでもして欲しいと思っていたが、最近は暦も諦め気味だった。万一保健所につれていかれたらと思うと気が気ではないのだが、本猫はどこ吹く風だ。
「……まぁ、来てくれてるって事は、それなりに気に入ってくれてるんだよな」
これも何かの縁だ。出来れば、このままうちの子になってほしい。そう思いながら、藍色の毛並みをわしゃわしゃと撫でると、しゃーっと抗議の声が上がる。
「ごめんごめん」
乱れた毛を優しく整えてやると、仕方ないと言わんばかりに鼻を鳴らす。
時々、こちらの言葉が理解できているのではないかという気がするが、今のところ確認する術はない。
「……そういえば、今日刺身が安くなってたんだ」
ぴくり、と反応してこちらを見上げて来る目がキラキラして見えて、現金だなぁと笑う。
気付けばそろそろ夕食時だ。丁度良いだろう。
冷蔵庫から刺身のパックを出して数切れをフードボウルに載せると、足元で行儀よく待っている現金な彼の目の前に置く。
すんすんと匂いを嗅いでぺろりと舐めると、合格ラインに達したのか、はぐはぐと赤身に噛みつき始めた。
カリカリはあまり好きではないようで、基本的には缶詰やチュールを欲しがるが、刺身も好きらしいと気付いたのは、先日彼が来た日の暦の夕食がスーパーで安くなっていた寿司パックだったからだ。
あまりにも欲しがるので、仕方なくわさびの入っていない軍艦巻きのねぎとろを掬って食べさせたところ、ぺろりと満足そうに食べたのがきっかけだ。
調べると、トロを欲しがる贅沢な場合もあるらしいが、暦の財布事情を知ってか知らずか、彼は安い赤身でも喜んで食べてくれる。
そもそも滅多に刺身を買える訳ではないので、買えたときは二人で分け合って味わうのが恒例となっていた。
残りの刺身を食卓として使っているローテーブルに置いて、炊いてあったご飯を茶碗に盛ると、醤油と醤油皿、箸を持ってくる。
さて食べようかと両手を合わせると、にゃあと鳴かれた。胡坐をかいた膝に前足を片方載せて、ちょんちょんと小突くようにする彼を見て、彼用のボウルを見ると、いつの間にか赤身がなくなっていた。
「……おかわり?」
にゃ、と短く返事をするように鳴く彼に、仕方ねぇなぁと笑う。折角だからと、フードボウルを食卓の近くまで持ってきて追加の刺身を足してやると、ゆらゆらと機嫌よく尻尾を揺らしながら刺身にかぶりついた。
その様子を見ながら、自分も赤身に醤油をつけて口に入れる。彼とこうして食事をするようになって、明らかに食べる機会の増えた刺身は、今日も美味い。
ほかほかの白飯を口に放り込みながら、すぐ側で食事に精を出す彼を眺める。
何の縁かは分からないが、こうして一緒に過ごす相手が出来たのは、不思議ではあるが嬉しいものだ。
妹が3人居て賑やかだった実家暮らしから考えると、一人暮らしは音が無い。大学に行けば友達はいるが、やはり家に帰った時の静かさや孤独感はどうにも慣れなかった。
そんな暦にとって、今や彼は無くてはならない存在なのだ。
食べ終わって満足したのか、ぺろりと口元を舐めてこちらを見る彼に笑って、そっと額を撫でてやる。
喉を鳴らして、また暦の組んだ足の間に体を収め、くあ、と欠伸をして丸まったのを見て、今晩はこのまま泊まっていくのだろうかと背中を撫でてやる。
猫は他の動物に比べて長生きではあるが、人間に比べればやはり短い。
少しでも一緒に過ごせたら良いなと思いながら、甘えたように手に額を押し付けてくる彼に言うのだ。
「これからもよろしくな、ボス」
「シャーッ!!」
どうにも、暦の付けた名前はいまだにお気に召さないらしい。
完