そのぬくもりに、癒されて side A 最近、天気予報を確認する癖がついた。
「おはようございます、愛之介様」
「……今日は」
「降水確率は六十パーセントです」
「昼食は購買で買うか、学食で食べる」
「かしこまりました」
起床してすぐ、カーテンの開けられた窓から見えた空模様を確認し、自分を起こしにきた青年に言葉少なに尋ねれば簡潔な返事が返ってくる。
ベッドから降りて身だしなみを整えながら思わず口元が緩むのを感じて、意識的に表情を繕う。
――今日も、会えるかもしれない。
それだけでこんなに胸が弾んで苦しくなるなんて、我ながら単純なものだ。
朝食に向かいながら、愛之介の意識は既に昼休みに飛んでいた。
******
その生徒を見かけたのは、偶然だった。
春先に行われた学年合同の球技大会。進級したばかりでまだ馴染んでいないクラスメイトや、普段は交流の少ない他クラスとも積極的に交流しようという大義名分の元に実施されたそれは、各クラスで男女別に二チームずつ合計四チームを編成し、男子はサッカーとバスケットボール、女子はバレーボールとバスケットボールの二種目に分かれて参加する。
そんな一種のお祭りのようなイベントで、楽しげにサッカーボールを蹴っているのを見たのが最初だったと思う。
サッカーに出場していた愛之介は、次の試合までの待機時間にあちらこちらから話しかけられるのが煩わしくて、ひらりひらりと当たり障りなくそれを躱しながら辿り着いた木陰に座り込んだ。
体育館の影になっていて人気がなく、その割に校庭のコートを十分に眺める事が出来るそこに満足して、ぼんやりと次の対戦相手になるかもしれないクラスの試合を眺めていた。
そこで、賑やかにボールを蹴っている少年を見かけた。目立って運動神経が良い訳ではなく、蹴ったボールは奪われることも多い。けれど、つい目を引かれる。
何故だろうと考えながら少年をしばらく観察して、成る程と納得した。
ボールを奪われたら悔しそうに騒いで、自分のクラスの得点になったら全力で喜ぶ。パスをくれと全身でアピールする。
騒がしく勢いのある彼のチームが勝利を収めると、チームメイトと手を打ち合わせ、クラスメイトと大げさに抱き合う。
その素直な感情表現に、表情に、惹かれたのかもしれない。
愛之介には真似出来ないその素直さに、抱いたのは羨望なのか妬みなのか分からない。
けれど、彼のクラスに勝ちたいと思った。学校での勝負事なんて、所詮は成績の為のものだ。当たり障りなく、それなりに勝てば良いと思っていた。
それなのに、彼のクラスには勝ちたいと思った。
勝てば、くるくると変わるあの表情を自分に向けてくれるかもしれない。
そんなどこか歪んだ興味を抱いた、初めての他人。
なのに、説明できないワクワクとした気持ちをなんとか抑えながら迎えた試合で彼のクラスに勝っても、彼はこちらを見てくれなかった。
試合中は視線を感じたがそれは試合の相手だからで、その視線もボールを蹴る足元に向けられるものが大半で、愛之介の求めたものではなかった。
試合後、クラスメイト達と負けたと賑やかに騒いで悔しがってコートを去っていく後ろ姿をつい眺めてしまったが、彼がそれに気づくことは無かった。
――どうして、こんなに残念なんだろう。
近づいて知った、太陽の光を受けて柔らかく輝く蜜色の瞳をこちらに向けて欲しかった。あの朗らかな笑みをこちらに向けて欲しかった。ボールを追う真剣な、でも楽しそうな表情をもっと見せて欲しかった。
――珍しかったからかもしれない。
自分の周りに居ないタイプの人間だから、興味を持ったのだろう。そう結論づけて、後ろ姿を追ってしまう視線を無理やり引き剥がした。
――喜屋武暦。
もう関わらないだろうと、そう思いながらも調べた彼の名前を、声に出さずに舌の上で転がしてその甘さを楽しむ。
昼休み、愛之介はいつも生徒会室でひとり静かに過ごすのを好んでいた。
生徒会長の特権をここぞとばかりに使って、生徒会の活動は基本的に昼休みを避けるように周知しているので、学校行事の直前でもない限りこの時間は誰も来ない。
持参した弁当を食べ終え、読みかけの文庫本に手を伸ばしかけてふと窓の外を見る。昼食を早々に終えて思い思いに休憩時間を過ごす生徒たちの中に、ふと赤毛が揺れた気がして窓に近づいた。
校庭の隅に設置されているバスケットゴールの近くで、何人かの男子生徒がボールを手にはしゃいでいる。
その中に求めていた赤毛を見つけて、知らず口元が緩んだ。
楽しそうに弾ける笑顔に目を奪われ、その笑顔が自分に向けられない事が何故だか悔しくて、視線を逸らして文庫本を開く。
けれど、続きを読むのを楽しみにしていた筈のミステリーは、どれだけ読んでも文字の上を目が滑っていくだけで一向に内容が理解できない。
一体、どうしたというのか。
自分でも理解できない状況に、愛之介は内心で戸惑う事しか出来なかった。
初めは戸惑うばかりだった己の心境に愛之介が整理をつけ、納得し、受け入れた頃には、休憩時間に鮮やかな赤毛を探すのは日常のルーティンのようになっていた。
愛之介の所属する特進クラスと暦のクラスは間に教室を二つほど挟んでおり、階段が暦のクラス側にある為、用がない限り暦がこちらの教室の前を通ることは殆どない。
移動教室の合間に、昼休みに生徒会室に移動する途中で、なるべく自然に見えるように赤色を探す。
そうしている内に、愛之介はあることに気がついた。
いつもなら晴れやかな笑みを浮かべているばかりの暦が、時折その表情を曇らせ、何かに耐えるように一人顔を顰めているのを。
感情表現が豊かな人間のようだから、授業で当てられたり、テストの結果が悪かったのだろうかとも考えたが、ふらりと辛そうに教室を出ていく背中にそうではないのだろうと想像する。
そんな状態の暦を数度見かけたある日、その背中を追いかけたのは何故だったか。普段よりも悪い顔色のせいだったかもしれないし、力無く壁につかれた手の心許なさに放っておけなくなったからかもしれない。
不自然にならないよう細心の注意を払って後を追えば、閉鎖された屋上に向かう階段の、一番上の段に腰掛けて蹲る暦がいた。
『……屋上は閉鎖してるよ?』
初めてかけた声は、震えてはいないだろうか。
らしくもなく緊張した言葉に気づいた様子もなく、暦は億劫そうに頭を持ち上げてぼんやりと愛之介を見ると、少しの戸惑いを混ぜた声で返してきた。
『……知ってる』
やはり体調が悪いのだろう、顔色も悪いが視線もどこか弱々しく、声音以上の戸惑いと疑問の色を混ぜて愛之介を見た。
ぞくり。
背中を走りぬけた感情を、なんと表現すれば良いのだろうか。
あの日試合で向けられなかった視線が、ようやく愛之介を捉えて認識したことに言い知れぬ喜びを覚えながら、それを悟られないように、授業をボイコットするつもりがない事を主張する暦になるべく警戒されないように隣に座る。
近くにある他人の気配にらしくもなく胸が弾むのを抑えようとして、いつもより元気がなく見える赤毛に無意識に触れるのを止められなかった。
『……なに』
『頭を、撫でようかと』
億劫そうな声に問われて、無意識だった行動を振り返るという間抜けな事態に陥りながら返せば、余裕が無いのか掠れた声が拒否を示す。
『そーゆうの、いーから』
もぞりと身動ぎをして、もう暦はこちらを見ない。
『ほっといて』
息を吐き出すのと共に押し出された声は、余裕が無いせいかシンプル故に愛之介にダメージを与えた。
そのまま眠ってしまったのか、静かな呼吸音だけが聞こえるようになった空間で、どうしようかとじくじく痛む胸を押さえながら考える。
思い返してみると、愛之介はこれまで他人に拒否をされた記憶がない。認められ、賞賛されることはあっても、遠回しな拒否すらされた事がないのではないか。
あったとしても、気にとめるほどでもないくらいの事だったのだろう。
――やっぱり、面白い。
もっと話をしてみたい。もっと愛之介を見て欲しい。その為には、どうするのが最善か。
愛之介は、暦の睡眠を邪魔しないように静かに考えを巡らせたのだった。
******
後日、天気の悪い日に当たりをつけて生徒会室で待ってはみたが一向に姿を見せず、かと言って教室にも姿のない赤毛を探して再び屋上への階段を上ると、案の定暦が居たのは驚いた。もしかすると冗談や社交辞令とでも捉えたのかもしれない。
己の厚意を素直に受け取らない暦に少しばかり苛立って、強引に手を引いて生徒会室に連れ込んでしまったが、それ以降は躊躇いながらも自発的に生徒会室に足を運ぶようになったので、良しとしている。
パイプ椅子と長机というお世辞にも寝やすい設備とは言えないが、薄暗くて埃っぽい空気に満ちた階段よりは断然体を休められると思ったのだろう。
ブランケットを抱えて枕がわりにして眠る暦の寝顔を眺めて、その赤毛をそっと撫でる。
起こさないように、細心の注意を払って触れる髪は、ふわふわと跳ねて意外と柔らかい。
これだけで、口から心臓が飛び出るのではないかと思うくらいに緊張するのだから、自分の事ながら笑ってしまう。
愛之介は知っている。暦が家族に心配をかけたくなくて、家族の前ではなんでもないフリをしている事を。そんなキャラじゃないからと、教室でもギリギリまで平気なフリをして、授業中に居眠りをする不真面目な生徒であるかのように振る舞っている事を。
放課後に一人でこっそり薬局に寄り、頭痛薬のコーナーで沢山置かれたパッケージを前に首を傾げている事を。
暦が、頭が痛いと、辛いと素直に言うのは愛之介の前でだけだと言う事を。
少しずつ自分に心を開いてくれているのかもしれないと、知らず緩む口元を見る人間はここには居ない。
ここは、暦にとっての安全地帯でなくてはならない。
何の見返りもなく生徒会室を使うことに抵抗があるらしい暦に、それなら弁当を分けて欲しいと提案したのは愛之介だ。
家人に知られたら口煩く言われるかもしれないが、バレなければ問題ない。
こう言う時は食欲があまりないせいで、普段はぺろりと食べる弁当を持て余している暦が、仕方ないと言いながら少しばかり多めに寄越してくる弁当に気付かないフリをして、暦の家庭の味を楽しむという愛之介にとっては最高の報酬も手に入れた。
暦にとって、愛之介はまだ秘密を共有するだけの人間だ。友と思ってもらえているかも分からない。
愛之介が抱える下心に勘づいているのか、距離はなかなか近づかない。
――今は、それでいい。
急がば回れ、急いては事を仕損ずる。
愛之介にとって、暦はただの学友ではない。
ゆっくりと、暦には愛之介が必要な存在なのだと思ってもらわなくては。
頰にかかる赤毛を指でそっと掬ってやると、ん、と無防備な声が漏れる。
そんな無防備な彼の側に居ることを許されているというだけで、この悪天候は愛之介にとって天からの贈り物に等しいのだ。
もうすぐ昼休みが終わって、暦を起こさなければいけない時間になる。
ふと思い立って、生徒会室のスピーカーの音量をオフにする。
――今日は、このまま一緒に寝過ごしてみようか。
起きた時、暦は一体どんな反応をしてくれるだろうか。
そんな誘惑に負けて、暦の隣に座りなおすと頬杖をつく。
己の中で、ゆっくりと休んで欲しい気持ちと、早く目を覚ましてこちらを見て欲しい気持ちが葛藤しているのすら新鮮で楽しくて、胸を高鳴らせながら目を閉じる。
起きたらきっと怒るだろう暦に謝って、許してもらえたなら一緒に弁当を食べよう。
少しずつ穏やかになってきた雨音を聴きながら、愛之介はゆるやかに訪れた眠気に身を任せた。