その傷に爪を立てて さよならだ、と愛之介は呟いた。
はじめは、ほんの気まぐれのつもりだった。
目当ての少年の隣に居座る、気に食わない存在が目障りで、少し遊んで手酷く捨ててやろうと気まぐれに手を出した。
近づいて触れてみれば、存外悪いものでもなく。態と煽るような言い方をすれば、ムキになって噛み付いて来る子供が。組み伏せれば、意外にも健気な面を覗かせる子供が。少しばかり、可愛げがあるのではないかと。そう思えてきて。
毒されている。
個別のメッセージ画面を開き、ふと何度も繰り返される呼び出しとそれに応じるやりとりを見て、そんな考えが過った。
そんな馬鹿なことがあるか。思わず、スマートフォンを握る手に力が入り、みしりと本体が音を立てる。
あの赤毛に感情を乱されるなんて、有り得ない。認めない。あれを弄んでいるのは自分だ。主導権は自分にある。
さっさと前回のメッセージをコピーして送信すると、画面を閉じる。どうせ、あの赤毛は何も考えずにほいほいやってくるのだろう。そう、それで良い。あれを信用させて、堕として、それから手酷く捨ててやるのだ。
捨てた時、あの赤毛は一体どんな顔をするのだろう。そう思うと少しだけ胸のすく思いがしたが、一度考えてしまうと、ふとした瞬間に脳裏に過ってしまう。
腹立たしい。何故、あの赤毛のことを考えなければならないのか。不快で仕方ない。
苛立ちのまま、呼び出した赤毛を上等なシーツに組み伏せる。シーツに散らばった赤毛に、押さえつけた手首の頼りなさに。ゆらりと揺れるアンバーを思わせる瞳に自分が映り込んでいるのが見えて、じわりと征服欲が満たされる。
――そうだ、それで良い。
甘く掠れた声を必死に抑えようとしている赤毛を、甘く優しい罠にかけていく。ゆっくり、ゆっくりと堕としていく。
流されまいとする弱々しい抵抗を押さえつけて、もっと啼けとハリのある肌に触れる。汗が滲んだ肌は、不思議と手のひらに馴染んだ。
自分が与える快楽に溺れそうな赤毛が、助けを求めるように手を伸ばしてくる。その手を取って指を絡めると、ぎゅうと力を込められた。縋るようなそれが煩わしいと思うのに、何故か振り払う気にはなれなかった。
あぁ、もう限界だ。
さよならだ、と愛之介は呟いた。
もっと時間をかけてと考えていたが、もう面倒だ。この赤毛が愛之介の事を考えて時間を費やすのなら兎も角、何故自分が赤毛の事で時間を費やさなければならないのか。
それでは、意味がない。むしろ、腹立たしさが増すだけだ。腹の内でぐらぐらと煮える感情を自分でも抑えきれなくなっているのを感じるが、クレイジーロックでもない場所で感情のままに手を上げるのは、プライドが許さない。
自分は、感情のままに動くような人間ではない。そんな獣に成り下がった覚えはない。
ならば、自分の目の前から消すしかない。本来の予定よりは早いが、今の時点でも十分な傷を与えられるだろう。
決して、逃げるわけではない。
ソファの背もたれに引っかかっていたネクタイを回収して結び直しながら、繰り返す。
「さよなら、だ」
ベッドに背を向けながら告げて、反応が無い事を訝しんで振り返る。疲れ切ってぐったりとはしていたが、意識はあった筈だ。
そこには、静かにこちらを見上げる赤毛が居た。
じ、とこちらを見る目は、ゆらゆらと複雑な感情を湛えて揺らめいている。
「……わかった」
人の機微を読むのに長けた愛之介でも読みきれない複雑な感情の中、安堵に似たものが一瞬過ったように思ったのは、気のせいだっただろうか。
******
『最後に、一回だけ付き合って』
そう言った赤毛に、気付けば頷いていた。
面倒だとは思うが、これで終わりにできるのならば安いものだ。
一週間後。指定されたのは、パークでもホテルでも無い、何の変哲もない海浜公園だった。
入り口の近くに車を寄せて待っていると、ふらりと赤毛が現れた。珍しくスケートではなく徒歩でやって来た事に内心で驚くが、問題はない。
車から降りると、赤毛がひらりと手を振った。
「遅くなってごめんな。歩いたら結構遠くてさ」
慣れない事をするからだ、と口を開こうとして、どこか普段と違う空気を感じて、何も言わずに閉じる。
何が違うのだろうか。見慣れぬプラスチックの小さなバケツを手にしているが、それ以外はいつも通り、印象的な赤毛にバンダナ、パーカーとジーンズに履き古したスニーカーというラフな格好だ。
臆したわけではない。ただ、わざわざ言う必要がないと思い直しただけだ。
誰にともなく言い訳をして、こっちと公園に入っていく赤毛に、忠を置いて無言で付いていく。
公園の遊歩道から、階段を下りて砂浜に踏み込む。
磨き上げられた靴が砂で汚れるのは気に食わないが、一応気遣われているのか、比較的踏みしめられて固まっている部分を選んで先導しているらしい。
何も考えていないように見えて、この赤毛は色々と考えている。
そう気づいたのは、比較的最近だ。
普段は馬鹿みたいに笑って、スケートの事しか考えていないように見えるのに、ふとした瞬間に、はっとする一面を見せる。
人をよく見て、考えて、動いている。
――だとしても、所詮は高校生の子供だ。権謀術数の渦巻く政界を渡り歩いている自分とは、訳が違う。
そこまで考えて、何故この子供に張り合っているのだとまた苛立ったのは、思い出したくもない記憶だ。
「ここで、ちょっと待ってて」
砂浜に降りて少し歩いた辺りで愛之介を振り返ると、そのままどこかへ走っていく。
スニーカーで砂を蹴り上げながら走っていく背中を見送って、手持ち無沙汰に辺りを見回す。
温暖な沖縄と言えども、冬は流石に肌寒い。
出張で行った冬の東京よりは温かいが、海から吹く風は冷たく感じる。
煙草を吸う気にもなれず、日の落ちた海岸線をぼんやりと眺めていると、さくさくと砂を蹴る音が近づいてくる。
音のする方を振り返ると、赤毛が戻ってきた。
慎重にバケツを持っているところを見ると、水でも汲んできたのだろうか。
「よっと」
砂で倒れないように、ぐりぐりとバケツの底で砂を均しながら安定させると、ようやく愛之介を見る。
「これ、やろーぜ」
着ていたパーカーの前面にあるポケットを探って、かさりと取り出したビニールを見ると、中に細長い紙縒りが何本か入っている。
「線香花火か……?」
「あたり」
「……帰る」
「付き合うって約束したろー?」
踵を返しかけた体が止まる。最後の、約束。
赤毛の言う通り、約束したのは確かだ。一度は了承しておいて、それを反故にするのはプライドが許さない。
「……終わったら、すぐに帰る」
「おう。さんきゅーな」
へらりと笑う赤毛に、違和感を感じる。その違和感をうまく言語化できない気持ち悪さを抱えながら、渡された線香花火を受け取る。
「あ、やべ。ライター忘れた」
「キミは一体、何しに来たんだ」
ポケットを探って、しまったと声を上げた赤毛に、やはりいつもと変わらないかとため息を吐きながら、煙草の為に持ち歩いているマッチを差し出す。
「おぉ、さすが」
花火用の小さなロウソクを取り出すと、渡したマッチで火を灯す。
ゆらりとか細く揺れる火が風に攫われないよう、赤毛が体の位置を少しずらした。
お互いの腕が微かに触れそうな距離で、赤毛が線香花火の束を差し出した。
「ん」
か細い紙縒りが千切れないように、そっとそのうちの一本を摘まみだすと、同じように引き抜いた赤毛が、しゃがんでロウソクに紙縒りを翳す。ゆらゆらと気まぐれに揺れる火がじりじりと紙縒りを炙ると、その先で少しずつ火花が散り始める。
ちりちり、ぱしり
波の音に紛れて、小さな火で出来た花が咲いては散る音が耳に届く。
どこか郷愁を誘うその音に釣られて、愛之介も手元の紙縒りを火に翳した。
ちりちり、ぱしり
紙縒りの周囲で、小さな花が咲いては消え、咲いては消える。その一瞬を惜しみながらも楽しむのだと分かっていても、どこか寂しさを覚えてしまうのは何故だろう。
波の音と、小さな花が咲く音に包まれて、赤毛と並んで黙っている状況に疑問を感じながら、赤毛の出方を待っていると、ぼんやりと散る花を眺めていた赤毛がぽつりと呟いた。
「妹たちがさ、花火やりたいって言って、おっきなパックのやつ買ったんだけど。これは嫌だって残すんだ」
なんか、さびしーじゃん。
微かに口角を上げて笑っているように見えるが、寄せられた眉は苦しげで、何を思っているのか分からない。
クレイジーロックでスノーを始めとするメンバーと話している時の騒がしさはなく、自分に突っかかってくる時の勢いもなく。今日の赤毛は矢鱈と静かだ。
それが気味悪く感じるのに、茶化す気にもならない。
自分で自分の感情の動きについていけず戸惑うが、そうしてる間に、呆気なく花が散った。
ぽとり、落ちた灰をバケツに溜めた水が受け止め、じゅ、と微かに音を立てる。
かさりと風に吹かれた紙縒りが揺れて、終わりを告げる。
静かな花の終わりは、どこか物悲しい。
用意されたゴミ袋に残った部分を入れると、次が差し出された。
それを黙って受け取ると、愛之介は静かにロウソクに翳した。
「――ありがとな」
「……何が」
何度、それを繰り返しただろう。
話す気にもならず、淡々と時間と線香花火を消化していると、唐突に赤毛が零した。
別れを切りだした相手に、何故感謝などするのか。
もっと、弄ばれたことを怒るなり、悲しむなり、恨むなりすれば良いのに。
どうしていつも、この子供は自分の思うようにならないのか。
「うまく、言えないんだけど。怒んないで聞いてくれる?」
「……ああ」
何を考えているか分からないのなら、聞くのが一番手っ取り早い。
頷くと、ぽつぽつと、言葉を探すようにして音にしていく。
――おれ、あんしんしたんだ。
「安心……?」
何を、どうして、何故、安心を覚えると言うのか。何に対して、感じたと言うのか。
内心で混乱する愛之介に、子供はゆっくりと続ける。
「あんたは。愛抱夢は、俺の事嫌いだろ?」
「俺はあんたを許さないし、あんたは俺が嫌いだ。そう思ってたし、それで良いと思ってた」
「あんたが俺に近付いたのも、きっと俺が嫌いだからだって、そう思ってた」
「そう思ってた、のに」
「なんか、調子が狂ってきてさ」
波が、寄せては返し、寄せては返す。不規則で規則的な音に紛れるように、空気を壊さないように。声を荒げたら、この世界が終わってしまうと恐れているかのように、囁くように紡ぐ。その言葉に、愛之介の視界がぐらりと揺れる。
こちらの意図を、この子供は正確に理解していた。理解して、受け入れていた。そんな事が、あり得るのだろうか。
ちりちり、ぱしり。
花が爆ぜる。波が寄せては返す。潮の香りが鼻孔をくすぐって、風が肌寒さを運んでくる。
赤毛はただ、静かに花が散る様を眺めながら続ける。
「あんたが、あんまり優しくしてくるから」
「あんたの体温が、だんだん心地良くなってきて」
微かに声が震えたように感じたのは、気のせいだろうか。
「……早く、終われば良いのにって。そう思ってた」
この子供は、何を言っているのだろう。
今まで、自分が主導権を握っていると、支配していると思っていたのに。これでは、まるで。
「だから、助かった」
ほんと、危ないところだったから。
ぽとり、落ちた灰をバケツに溜めた水が受け止め、じゅ、と微かに音を立てる。
かさりと風に吹かれた紙縒りが揺れて、終わりを告げる。
「これで、おしまい」
自分の手元のものと、愛之介の手から紙縒りを引き抜いて、ゴミ袋に入れる。
いつの間に、手元の花は散っていたのか。
手慣れた様子でロウソクを吹き消してバケツを持ち上げると、赤毛は漸くこちらを見た。
済んだ空気の中、月明かりに静かに照らされるアンバーを思わせる瞳は、騒がしい喧噪の中や、ほの暗い明りに照らされている時よりも、ずっと深い色を湛えて愛之介を見上げる。
くしゃりと、まるで泣くのを我慢しているような歪な笑みを浮かべ、一度、ぐ、と強く目をつぶると、先ほどの表情が嘘のようなからりとした笑みを浮かべた。
「付き合ってくれて、ありがと」
じゃあな、とあっさり踵をかえした赤毛に思わず立ち上がって手を伸ばすが、自分よりずっと未熟で小さな背中は、こちらを振り返る事無く出口へと向かっていく。
一体、何が起きたというのか。そして、何故自分は彼を引き留めようとしたのか。情報を処理しきれず、思わず固まった愛之介を知ってか知らずか、その背中がぴたりと動きを止めて、振り返らないまま愛之介に声をかける。
「俺、あんたのことは許せないけど、でも、嫌いじゃあなかったよ」
まるで、鈍器で殴られたかのような衝撃を受けて、愛之介の頭は完全に思考を停止した。
そうしている間に再び歩き始めた背中は、今度こそ出口を抜け、やがて姿を消した。
愛之介はその背中を呆然と見送って、じわりじわりと赤毛の言葉を反芻し、咀嚼していく。 その意味を理解して、ぎりと歯を食いしばる。
胸の辺りがむかむかとして、ぎりぎりと絞られるような痛みが愛之介を襲う。それに耐えるように、絞り出すように声を出した。
「――だから、僕はお前が嫌いだ」
痛みは要らない。お前からの愛なんて、ごめんだ。
なのに、あの少年には消えない傷を残してやりたいと思う。
憎んで、嫌って、恨んで、愛之介の与えた傷を抱えて、生きていけば良いと思う。
傲慢で、矛盾した感情が、ぐるぐると体内で暴れて、喉元からせり上がってくる。
叫びだしたくなる衝動を強靭な理性で抑えながら、シャツの胸元を握りしめる。
人をよく見て、考えて、動いている子供。所詮は高校生。そう侮った。
あの子供は、初めから全部分かっていて、その上で愛之介の手のひらの上で転がされたのだ。
傷を、残したかった。
愛之介が与える偽りの優しさに踊らされて、溺れて、依存して、堕ちれば良いと思った。
そうして、堕ちきったところで手酷く捨ててやろうと、そう考えていた。
それなのに、どうしたことだ。
愛之介の奥深く、心の柔らかい部分に真新しい傷が開いて、どろりと紅い血が流れていくのを感じる。
痛い、
言葉にならない痛みが、愛之介を襲う。ぎゅう、と胸元を握る力が強くなるが、それでも内側の痛みは消すことが出来ない。
痛い、
脳裏を、立ち去る背中が過ぎる。
手を引いて、抱きしめて、驚いて怯んだところに甘い言葉を囁いて。強張った身体から力が抜けるのを待って引き倒し、地面に押さえつけて、めちゃくちゃにしてやりたい。
そうすればこの痛みが少しでもマシになる気がしたが、もう遅い。
どうして、あの少年に固執するのか。
風に揺れる赤毛に、熱を持ってとろりと溶けるアンバーに、愛之介よりも高い体温に、どうして触れたいと思うのか。
考えてはいけない。あれは、自分にとって良くないものだ。屈辱を与えたものだ。許してはいけない、間違っても、求めてはいけない。
「……れき」
苦し紛れに呟いたのが少年の名前だと気付いて、愛之介は今度こそ途方にくれた。
夜は、まだ明けない。
完