そのままの君で 暦は、所謂使い魔と呼ばれる存在である。
使い魔と言っても、種族も様々、誰に仕えるかも様々だ。猫魔族である暦が契約しているのは、吸血鬼の男だ。
普通、猫魔族を使い魔に選ぶのは魔法使いが多い。人間の間でも、魔法使いと言えば黒猫、と連想するくらいだ。暦も、そう思う。
けれど、それは叶わなかった。
猫魔族は一般的に黒毛の者が多く、次いで白、茶やサビ柄が僅かに居る程度。そんな中、暦は生まれついての赤毛だった。
いつからかは覚えていない。気がついた時には、路地裏でゴミを漁る生活をしていた。
恐らく捨てられたのだろうというのは、暦を見た同族の反応でぼんやりと理解した。街中で使い魔として見かける猫魔族の中に、暦と同じ色をした者は居なかったから。
こちらを見て驚いた後に、憐れむような、自分がそうでなくて良かったとでも言いたげな表情に、幼いながらも自分は受け入れて貰えないのだと感じた。
それでも、路地裏で生活をしている他の種族の者の中には、幼い暦が飢えないようにと余分に手に入れた食料を僅かに分けてくれたり、寒さに震える夜に、一緒の毛布に入れてくれる者もいた。
路地裏で生きていく術も、言葉も、そうして教えてもらって、なんとか日々を生き抜いてきた。いつか人に化けられるようになったら、自分も誰かの使い魔として立派に仕えるのだと、そんな夢も持った。
けれど、漸く人に化けられるようになって、現実はそんなに甘くない事に暦は気がついた。十歳前後の子どもの姿に化けた暦の髪は、鮮やかな赤毛のままだったのだ。
猫魔族の場合、人に化けた時もそのまま体毛の色が髪色に反映されると言うのを、その時に知った。
――それじゃあ俺、どうしたら良いんだ?
赤毛が忌み嫌われるのであれば、このまま暦は誰にも仕えることが出来ないのではないか。ささやかな夢すら、叶わないと言うのだろうか。
それでも、人型なら出来ることは少なくない。子どもの姿でもこなせるお使いや靴磨き等をして、日銭を稼げるようにはなってきた。
使い魔にはなれなくても、このまま金を貯めて何処かに家を借り、細々と暮らしていくのも良いのかもしれない。半ば諦めに近い気持ちで椅子代わりの木箱に座り、靴磨きの客待ちをする。
最近は陽が落ちるのが早くなってきたせいか、夕方になるとあまり客は来ない。肌寒くなってきたせいか、今日は昼間もあまり稼げなかったので、せめてもう一人くらいは客を取りたい。
靴磨き仲間達が、一人また一人とねぐらに帰って行くのを見送って、もう少し、あと少しと粘ってみたものの、人通りは減る一方だ。半袖の腕を擦って、そろそろ諦めようかと道具を片付け始めたとき、上から声が降ってきた。
「まだやっているかな?」
視界に、土埃で汚れた靴が入る。慌てて顔を上げると、そこには見るからに上等な服を着た男が立っていた。
「あ、やってる、ます」
今まで暦が対応したどの客よりも格が高いのを肌で感じて、しどろもどろになりながら慣れない敬語を使う。
子どもの暦よりもずっと背が高く、服の上からでもしっかりとした筋肉がついているのが分かる。藍色の髪は綺麗に撫でつけられていて、血の様に紅い瞳が強く印象に残った。
「頼みたいんだが」
「あ、はい、どうぞ」
綺麗な服が汚れてしまうのではないかと、古ぼけた椅子を気持ちばかり布で拭って、そこに座ってもらう。靴磨きとは言え、失礼があれば客に打たれることもある。
緊張で震える手で靴を預かると、出来る限り丁寧に、しっかりと汚れを落とす。それから、靴墨を使って艶々に仕上げる。これをあまり待たせる事無く、迅速に行わなければならない。
使い慣れた仕事道具のはずなのに、緊張のせいか手にうまく力が入らず、動きがぎこちなくなってしまう。焦ると失敗してしまうので、そっと深呼吸をして、よしと作業を開始した。
「猫魔族か?」
「……え?」
作業に集中していて、話しかけられた事に気付くのに少し遅れてしまった。慌てて聞き返すと、怒った様子もなくもう一度同じ問いを繰り返される。
「あ、うん、じゃなくて、はいそうだ……です」
「良い、話しやすいように話せ」
「……うん」
「それは地毛か?」
何度もされた質問だが、あまり嫌な感じはしない。悪意を感じないからだろうか。ちらりと見上げると、じ、と興味深そうにこちらを見下ろしている。
「地毛、だけど」
「ほう、それは面白い」
「おもしろい?」
憐れまれた事や、気味が悪いと言われた事はあっても、面白いと言われたことは初めてだ。
「えっと、旦那さんは、気持ち悪くないの?この色」
「何故?」
「え、えっと、あんまり、言われたことないから」
どう言っていいのか分からず、要領を得ない答えになってしまう。汚れが綺麗に落ちた事を確認して靴墨を用意しながら沈黙を誤魔化していると、ふうん、と男が首を傾げた。
「確かに赤毛は珍しいとは思うが、僕もあまり猫魔族に詳しい訳ではないのでね。何か、親にでも言われているのか?」
「……親は、居ないから」
「そうか」
この辺りでは、親が居ないのは珍しい事ではない。あっさりと納得した男は口元に手を当てて何かを考えこんでいる様子だったが、話しかけられなくなったのを幸いと、靴を磨き上げる。汚れを落としてみれば、上等な服に見合う立派な靴だった。
ぴかぴかになったと満足して、出来ました、と仕上がりを確認してもらい、悪くないと相手が笑った事で合格点をもらえたのだと、足元に揃えて置く。
「遅くにすまなかったな」
靴を履いて満足したのか、男がぱちんと指を慣らすと、どこに居たのか別の男が姿を現した。暦とは違う濡れ羽色の髪と同じ色の耳に尻尾。やはり上等な服を着ているが、赤い首輪が使い魔である事を示している。
新たに現れた男は、そのまま懐から財布を出すと、暦の手に金貨を握らせた。今まで見たこともない大金に、思わず尻尾が逆立った。
「こっ、こんなに貰えない!返す!」
渡してきた男に金貨を返そうとするが、受け取ってもらえない。銀貨だって貰いすぎだというのに、よりにもよって一番貴重な金貨だ。
こんなものをねぐらに持って帰ったと知られたら、強盗に遭って殺されてしまうだろう。
最早命の危険を感じ始めて涙目になっている暦に、何が問題なんだと主人らしい男が言う。
「こんな大金、殺される!」
必死に訴えると、そうかとあまり納得していない様子で、それでも下げて貰えた。代わりに銀貨が出てきたので、銅貨で!銅貨にして!と土下座する勢いで頼んで、ようやく銅貨が差し出された。それでも普段より枚数が多かったが、これ以上は譲ってもらえないらしく、暦の来ていたオーバーオールのポケットに無言でねじ込まれた。
「あ、ありがとう」
ほっと息を吐きだすと、ぺこりと頭を下げる。出来れば次回も使ってもらえるよう、失礼がないようにする。これは、仲間から教わった大原則だ。
「……ところで、君。身寄りがないんだったな?」
「え、まあ、そうだけど」
「靴磨きを生業にしたいという、こだわりが?」
「別に、ないけど」
「そうか」
生業にしたい訳ではないが、今のところ暦が出来る仕事の中で一番稼ぎがいいのが靴磨きなのだ。売り上げに波はあっても、なんとかやっていけている。
何故、そんなことを聞くのだろうか。首を傾げている暦に、男は楽し気に笑った。
「使い魔になる気はあるか?」
「……っ!?」
使い魔。それは、暦がずっと憧れてる存在だ。
「あ、あんたの……?」
思わず問い返すと、ぴくり、と使い魔の男が微かに眉を顰める。失礼な言い方だったかとは思うが、今はそれどころではない。
「そうなるな」
「い、良いの?おれ、こんなだけど」
「面白くて、良いじゃないか」
「おもしろい……」
男の言う面白さがいまいち分からないが、これは暦にとって大チャンスだ。上等な服を着ているのなら生活は苦しくないだろうし、側の男も酷い扱いは受けていないように見える。けれど。
「お、おれみたいのは、使い魔なんてなれないって……」
「何故だ?問題ないだろう」
嫌なら、無理にとは言わないが。首を傾げた男に、どきどきと心臓が煩くなる。
――本当に?おれ、使い魔になれる?
「自分で選べ」
男が、尊大に笑って手を差し出す。暦は、期待と興奮と、少しの不安を覚えながら、おずおずとその大きな手のひらに自分の手のひらを重ねたのだった。
******
そうして、暦は男の使い魔として契約することになった。
契約に先立ち、使い魔の先輩である忠に教わったが、主人となる男――愛之介――は古くから存在している吸血鬼で、一族の中でも重要な存在だという。
説明の途中で暦が頭から煙を出しそうな状態になったので、忠も出来る限り簡単に教えてくれた。
「とにかく、凄い方だ」
「わかった」
凄い存在の愛之介は魔族としても格が高い為、中級・下級の魔族であれば使い魔として契約して使役することが出来るのだそうだ。
「とはいえ、使い魔として正式に契約をしているのは私だけで、君が二人目だ」
「そうなの?」
住み慣れた路地裏を離れ、仲間に別れを告げて連れられてきたのは石造りの立派な屋敷で、忠以外にも働いている魔族が何人か居た。
「あれは、使用人だ。契約はしていない。雇われている身だ」
「しよーにん」
「そういうお仕事だ」
「わかった」
頷いた暦に、忠は軽く息を吐いた。理解が悪くて申し訳ないと思うが、こればかりはどうにもならない。今まで生活していた路地裏とは何もかもが違いすぎて、別世界に迷い込んだようだと暦はきょろきょろと辺りを見回す。
そんな暦の首根っこを掴んで、心なしか据わった眼で、忠は宣言した。
「契約の前に、まずは風呂だ」
「ふろ」
説明をするのが面倒だったのか、そのまま屋敷の中に入り、長い廊下を進んだ後、どこかの扉を開ける。水の匂いがするが、空気は温かい。
ここは何処なのかと聞く前に服を全部脱がされて、ぽいと水を張った箱のようなものに放り込まれた。
「~~っ!?」
驚いて声を上げようとすると、口の中に水が入ってくる。放り込まれて気付いたが、水は温かく、とても心地良い。心地良いが、それを堪能する前に頭に冷たいものをかけられ、わしわしと擦られる。驚いて身を捩った拍子に液体が目に入り、それが染みてまた驚く。
「なになに!?」
「丸洗いしているだけだ、目と口を閉じて鼻から呼吸をしていろ」
端的に言われて、慌てて目を両手で塞いで口を閉じる。そのまま、遠慮のない手つきで文字通り丸洗いされると、湯から出され、見たことが無いくらい清潔で真っ白なタオルで水分を拭き取られる。
それから、上等な服を渡され、こんなに上等な服は着れないと断ると、主人の面子に関わると無理矢理着せられた。
急に決まったせいか、サイズの合わない服の裾と袖を折って無理矢理動けるようにする。
そうして、ようやく屋敷を歩くことを許された。
「ほう、なかなかに見違えたじゃないか」
忠に連れられて長い廊下を歩いた先、屋敷の主はカウチソファで寛いでいた。
垢と土埃に塗れていた全身を丸洗いされて、清潔な服を与えられたので、今の暦は普通の町人くらいにはなっているはずだ。
それと共に、汚れてくすんでいた赤毛も、元の鮮やかさを取り戻している。
「……お側へ」
「え、あ、うん」
忠に促されて愛之介の側へ近寄ると、愛之介の視線が上から下へ値踏みするように動く。
「悪くない」
忠のお陰で、合格点を貰えたらしい。ちらりと忠を見ると、微かに口元が『おれい』と動く。
「ありがとう……?」
あっているのか分からず疑問形にはなったが、大目に見て貰えたらしい。
「契約をしよう。本来の姿に戻れ」
「わ、かった」
ぽん、と軽い音を立てて、本来の猫型に戻る。人型が子どもになる通り、暦の身体は小さい。同族と比べたことはないが、仲間にはよくチビと呼ばれていた。
服の山から現れた暦を見て、思ったより小さな暦に驚いたのか、愛之介が軽く目を見開く。
「やはり、まだ早いのでは……」
「……いや、単に栄養不足だろう」
どうすれば良いのかと愛之介を見上げると、ひょいと抱え上げられる。
「なるほど、見事な赤毛だな」
「……やっぱ、嫌、とか」
「僕は、一度約束をした事は余程の事が無い限り守る主義だ」
「余程じゃない?」
「今のところな」
「……ほんと?」
膝の上に乗せられて、頭を撫でられる。今まであまり人に撫でられたことが無いので少し緊張するが、大きな手のひらで撫でられるのは心地良い。
――まるで、夢みたいだ。
大きな屋敷に、お風呂に、綺麗な服。自分を撫でる大きな手。思わずうっとりと目を閉じてその手のひらを享受していると、咳払いが聞こえた。
忠の機嫌が悪いな、と揶揄うように笑って愛之介が撫でていた手を引く。
「では、契約をしようか」
こうして、暦は愛之介の使い魔となったのだ。
******
使い魔というのは、簡単に言えば何でも屋だ。主人の望みを叶えるために、ひたすら全力で働く。
暦に出来ることはまだ少ないので、精々食事の仕込みや配膳、庭仕事や屋敷の掃除の手伝いくらいだ。けれど、忠は違う。人狼族である忠は、愛之介が幼い頃から仕えているらしい。
愛之介が言わずとも意を汲んで先に動いている事もあるし、複雑な命令も難なくこなしている。
――すっげぇ。
いつか、あれくらい役に立てたら。赤毛で、体も小さい暦を使い魔にしてくれた愛之介に、契約して良かったと思ってもらいたい。
でも、まずは目の前の仕事だ。
吸血鬼ではあるが、血液以外の食べ物も嗜む主人の為に、暦は張り切って野菜を洗い始めた。
暦の仕事は、他にも二つある。
一つは、靴磨きだ。路地裏を離れる際に持ってくることを許された道具を持って、愛之介の部屋を訪れる。道具を脇に抱えて、大きな扉をノックする。
「入れ」
許しが出てから扉を開ける。ひょこりと顔を出すと、カウチソファに凭れて愛之介が本を読んでいる。
「しつれーします」
忠に教わった通りの作法で入室すると、本から視線を外した愛之介に手招きされる。道具を抱えなおして愛之介の側まで行くと、頼むと一言。
はいと頷いて靴を預かると、道具を広げて汚れを落とし始める。
愛之介は、存外忙しい。
そろそろ隠居するのも悪くないな、と冗談めいて言っては、忠に窘められている。
昼間は眠りについて、日が沈むと目を覚ます。朝食を摂ると、そこから朝が来るまでずっと仕事だ。時折どこかへ出かけては、月が沈む前に帰宅する。外出する際は、忠が同行している。
暦はいつも屋敷の仕事を手伝いながら愛之介の手が空くのを待つが、昼夜が逆転した生活にまだ慣れず、待っている間に寝落ちてしまう事もある。
忠に起こされたのは、一度や二度ではない。言いつけられた仕事をちゃんとこなせるように、早く慣れたいところだ。
そうこうしているうちに、愛之介から直接言い渡された数少ない仕事がこれである。
いつも通り、ぴかぴかになった靴を揃えて戻すと、道具を片付ける。
「ご苦労」
言いながら己の隣を軽く叩いた愛之介の側に寄り、しつれーします、と断りを入れてから隣に座る。そうすると、暦の奔放に跳ねる髪をくしゃりと撫で、同じ色の耳を擽るように撫でる。思わず喉がごろごろと鳴ってしまうのは、不可抗力だ。
これが、暦のもう一つの仕事だ。あにまるせらぴーと愛之介は言っていたが、意味はよく分からない。忠が、難しい顔をして額を押さえていたが、止めないのであれば問題はないのだろう。
ぽん、と軽い音と共に本来の姿に戻る。撫でられるのが心地良くて、つい人型が解けてしまうのだ。忠曰く、暦がまだ未熟であるせいらしい。
もぞもぞと服の山から抜け出すと、愛之介が暦を抱えて膝の上に乗せる。そうして、愛之介の気が済むまで撫でられるのだ。
どちらかと言うと、靴を磨くよりこちらの仕事の方が多い気もして、暦としてはもっと働いている感が欲しくはあるが、愛之介が楽しそうなので、まぁ良いかと自分を納得させる。
どことなく疲れた空気を纏っている時も、暦を撫でている時は少しだけ元気になっているように思うので、ちゃんとあにまるせらぴー出来ていると思うと、役に立てているのだと嬉しくなる。最近は忠も暦を撫でてくれるようになったので、嬉しい反面、忠も疲れているのではないかと心配になっている。
――本当に、夢みたいだ。
まだまだ一人前とは言えないが、使い魔としての日々は忙しくて大変で、けれどとても充実している。失敗すると叱られはするが、理不尽に打たれることもない。毎日腹一杯ご飯を食べられて、柔らかくて暖かい寝床で、命の危険に怯える事無く安心して眠れる。
だからこそ、やはり気になるのはこの赤毛だ。
使い魔の最低限の仕事として、身だしなみは完璧に整える事、と忠から支給された鏡を覗き込んで、自分の髪を摘まんでみる。ここに来るまではガラス窓に写り込んだ自分しか見たことが無かった暦にとって、鏡に映る予想以上に鮮やかな髪色は衝撃的だった。丈を直してもらった服に、使い魔の証である赤い首輪。髪色以外、身だしなみは問題ない。
屋敷で働く使用人たちも、今でこそ普通に接してくれるが、初対面の時は驚いたり、何か言いたそうだったり、あまり好意的ではない反応もあった。
身だしなみひとつ整えられないのは、主の恥になる。忠はそう言うが、それならこの髪もそうなのではないか。つい、そんな風に考えてしまう。
自分を拾ってくれた愛之介たちに、迷惑をかけたくない。
「色、変わったりしないかなぁ」
ごろりとベッドに転がって、はぁとため息を吐く。もう外は朝日が昇っている。早く眠らないと、また仕事の途中で眠くなる。そうすると、ちゃんと休むのも仕事のうちだと、忠に叱られてしまう。何か良い方法はないかと見つからない答えを考えながら、暦はゆっくりと瞼を閉じた。
悩みすぎたせいだろうか、いつもより少しぼんやりとしたまま仕事をしていた暦は、庭仕事で使う為の道具が入った大きな箱を倉庫から出そうとしている途中で、棚にぶつかってしまった。
幸い棚が倒れる事は無かったが、棚が揺れた拍子にストックしてあったインク壺が落ちて暦に当たり、暦とその周囲に中身をぶちまけたのだった。
******
「大丈夫か!?」
珍しく慌てた様子の忠の声がして、一瞬気を失っていた暦は頭を振って立ち上がった。ばさりと布が落ちて、インク壺が落ちた拍子に変化が解けてしまったのだと気が付く。
もぞりと布の隙間から顔を出して無事を知らせようとして、忠が目を見開いてこちらを見ているのを確認した。
「だいじょーぶ」
「……インクか?」
くん、と鼻を動かして呟くと、近くに集まってきた使用人にいくつか指示を出し、暦を抱え上げるとそのまま屋敷へ向かう。
「あの、忠さん、おれ、また失敗しちゃって」
「いや、それよりも、問題がある」
「問題?」
「愛之介様が、君を呼んでる」
微かに焦っているような言い方に、何か怒らせただろうかと尻尾が垂れる。
「いや、愛之介様がどうという事ではなく、問題は君の方だ」
毎日入るように言われている風呂場に暦を連れてくると、鏡の前に降ろされた。暦の視線の先、鏡の向こうに真っ黒な猫が居た。
「……おれ?」
「インクを被ったせいだろう。早く洗い流すぞ」
「おれ、黒くなってる!」
夢にまで見た光景に、暦は思わず忠を振り仰いだ。が、忠はそうだなと言うと、そのまま暦に湯をかける。何度か繰り返してもなかなか落ちないのを確認して、今度は暦を湯船に浸けると石鹸を泡立てて丸洗いする。毛にしっかりとしみ込んだしつこいインクを、石鹸とお湯で器用に落としていく。視界の端に見慣れた赤毛が見えて、暦は心から落胆した。
「……折角、黒くなれたのに」
「インクで黒くなっても意味が無い。それに、インクで毛が濡れて不快だろう」
「でも、黒かった」
「……あの方は、気にしていない」
「でも!」
「……落ちたな。乾かすぞ」
湯船から引き上げられて、タオルに包まれる。ちらりと見えた湯船の湯が黒く染まっていて、何故だかとても悲しい気持ちになった。
******
結局毛が乾ききらず、タオルに包まれたまま運ばれてそのまま愛之介に引き渡された。眉を寄せた愛之介に簡潔に事情を説明すると、忠はそのまま退室した。
「怪我は無いのか?」
「だいじょーぶ、です」
インク壺がぶつかった辺りを確かめるように撫でられて、少しばかりの居心地の悪さを感じながら答える。
「何か、気になる事が?」
「……なにも」
「暦」
名前を呼ばれて、思わず背筋が伸びる。契約のせいか、愛之介に名前を呼ばれると姿勢を正さなくてはいけないような気になる。
魔法で、変化が解けてもサイズが自動で調整されるようになっている不思議な首輪が、そうさせるのか。
「……鏡を見たときに、おれ、くろねこみたいになってて」
「それで?」
「おれ、ずっとそうなれたらって思ってたから」
「……」
「……嬉しくって」
「そうか」
「でも、お湯で流れて」
「落ちて良かったな」
「……うん」
残念だった、とは言いにくくて口ごもる。それを見透かしているのか、愛之介はれき、ともう一度呼んだ。
「君の主人は誰だ?」
「……愛之介?」
忠が居たら、様を付けろと注意されるが、愛之介は気にした様子もなく続ける。
「僕は、君のこの色を気に入っている。とてもね」
「……でも」
「まぁ聞け。君は、僕と、会ったこともない誰かの、どちらが大事だ?」
「……愛之介」
「基本は理解できているようで、なによりだ」
それで、と撫でる手を止めて、愛之介が目を細める。
「会ったこともない誰かの目を気にして、僕が気に入っているその色を隠そうとするのは、どう言うつもりだ?」
「……ひっ」
何かされた訳でもないのに、ぞわりと背筋を寒気が走る。反射的に身を引こうとして、包まっていたタオルごと押さえつけられる。
「それとも、誰か気に入られたい相手がいるとでも?」
「いっ居ない!居ないいいい!」
にこりと笑みを浮かべているのに、目が一切笑っていない。
――怒ってる!
恐怖のあまり毛を逆立てながら、必死に否定する。
「おれっ、愛之介の役に立ちたくてっ、めーわくっかけたくなくてっだからっ」
「……それで?」
温度のない声音に、嫌われてしまったかもと恐ろしくなる。折角契約して貰えたのに、破棄されてしまうかもしれない。
――どうしよう。
なんと言えば良いのか分からず、パニックになりながら忠から教わった謝罪を叫んだ。
「ご、ごめんなさいいいいいっ」
ふにゃーっと情けない声を上げると、押し付けられていたタオルが緩んだ。のろのろと這い出ると、首の後ろを摘まれて引き戻される。
「……分かれば良い」
頭を撫でられるが、ちっとも落ち着けない。それを分かっているのか、愛之介は言い聞かせるようにゆっくりと繰り返す。
「またクロネコになりたいなんて考えを起こしたら、次は僕が直々にシロネコにしてやろう」
鋭い牙を見せて恐ろしい笑みを浮かべた愛之介に、もう絶対に考えないと誓ったのだった。
完