トリックだったら、良かった カボチャにコウモリに、吸血鬼。果てにはゾンビやフランケンシュタイン、かと思えば愛らしいネコミミを付けて。
あちこちでイベントが企画され、飲食店でも特別なメニューを提供する。
そう、これは最早祭りだ。
公務で関係のあるイベントにいくつか顔を出して、どこを見ても仮装だらけの浮き足立った空気に、愛之介は車に戻ったとたん深いため息を吐いた。
「本日の予定は、以上です」
「ああ」
「事務所へ寄りますか」
「いや、今日は直帰する」
「かしこまりました」
いくつか事務所に寄って確認しておきたい事もあったが、それよりもこの空気に辟易していた。早く帰宅して、こういった空気を断ち切りたい。
確認は、明日で問題ないだろう。
そんな愛之介の空気を察したのか、忠は無言でアクセルを踏んだ。
車の窓から見える町の様子も、あちらこちらで仮装した人々が楽し気にはしゃいでいる。
子どもだけなら可愛いものだが、良い年をした大人がアルコールを片手にというのはどういう了見なのだろうか。
はしゃぎ過ぎて、事件や事故が起こらなければそれで良い。むしろ、羽目を外しすぎなければ、こういったイベントで町が活気づくのは喜ばしい事だ。
――スノーが居れば、もっと良かったが。
愛抱夢がお気に入りとして執着していた彼は、高校卒業と共に東京の大学に進学した。そういう素っ気ないところも堪らない、と見送りの場で伝えても、周囲の反応に比べてかなり淡泊な反応だったのを思い出す。
――あの、赤毛も。
スノーの隣で揺れていた赤毛も、同じ日に東京へ旅立った。
当たり前のようにスノーの隣に居るのが気に食わなかった赤毛の少年は、どうしてそうなったのか分からないが、気付けば熱を分け合う仲になっていた。
惚れた腫れたといった心躍る関係かと言われると、正直言葉に詰まってしまう。お互いにマイナスの感情から始まった筈で、恋とか愛とか、そういうカテゴリーに分類するのは違うように思う。
恋というのならば、スノーに対する感情の方がよほど近い。けれど、あの赤毛を戯れに側に置いてみると、意外にも悪くなかった。それだけだ。
いつの間にか、ぼんやりとしていたらしい。車が停まる僅かな振動で、我に返る。
車から降りて見慣れた自宅を見上げ、街中よりこの邸宅の方が余程怪物の居城のようだと自嘲しながら、開かれた扉に歩を進めた。
******
自室に戻り、漸く人心地がついた。
スーツの上着を脱いで後ろに控える忠に放り投げ、ネクタイを緩めてデスクの椅子に座る。
スマートフォンを取り出すが、クレイジーロックのモニターチェックは気が乗らない。
今日は、例に漏れずハロウィンイベントと称して、いつも以上に派手な装いをしたスケーターたちが溢れているはずだ。
運営は忠に任せてあるので、問題はないだろう。こういったバカ騒ぎ自体は嫌いではないが、今日に限ってはどうにも疲労が先に立つ。
あちらこちらで視界に入る派手な色合いが、合言葉として繰り返されるフレーズが、耳に残る。
――今頃、彼らもそうしているのだろうか。
大学生なんて、そういったバカ騒ぎに全力で興じる頃合いだろう。
ちらりとデスクに置いたスマートフォンに目をやるが、新着の通知はない。
「……バカらしい」
「なに、連絡待ってんの?」
「……っ!?」
危うく、声が漏れるところだった。
気配も感じさせず目の間にいるのは、先ほどまで思い描いていた赤毛の少年だ。
見送った時とさして変わらない、パーカーにジーンズ、履き古したスニーカーと、バンダナ。
まるで、この部屋のインテリアのように自然に、当たり前のようにそこに立っていた。
何故、ここに居るのかと問おうとして、それより前に少年――暦――が嬉しそうに笑った。
「驚いた?」
「……ああ」
「やりぃ!」
ガッツポーズでもしそうな勢いで喜ぶ暦に、愛之介は言葉を飲み込んだ。自宅に招いたことは無いが、もしかすると忠辺りに聞いたのかもしれない。
あの男でも、イベントにノるのかという驚きはあるが、何故か仲の良いこの二人ならばあり得るかもしれない。
「いつ戻ってきたんだ?」
「んー。さっき?」
「スノーも一緒に?」
「……いんや、俺だけ」
「……そうか」
「残念だったな、ランガが居なくて」
「そうだな」
「……なあ、愛之介」
「なんだ」
「……元気?」
「どう見える?」
「疲れてる」
「……問題ない」
「ふうん、そっか」
話すことが無くなったのか、物珍しそうに部屋を眺めている暦に、愛之介が聞き返す。
「……君は」
「うん?」
「元気だったか」
「おう、ぜっこーちょー!」
「……そうか」
「ランガも、元気だぜ」
「そうか」
言いたい事も、聞きたい事もそれなりにあるはずなのに、何故だかうまく言葉が出てこない。
やはり、疲れているのかもしれない。
「……連絡のひとつも、寄越せば良いだろう」
言うつもりのなかった言葉が零れて思わず口元を抑えるが、出てしまった言葉は取り消せない。
そんな愛之介を見て、茶化すでもなく不思議そうに暦が首を傾げた。
「ランガ、連絡してねーの?」
してるよな?と確認してくる暦に、思わず口が滑った。
「そうじゃない、君の方だ」
「おれ?」
ぽかんと口を開いた間抜け面に、人の気も知らないでと苛立ってくる。
確かに、スノーからは時折連絡がくる。だが、それは恐らく暦に言われたからだろう。画像付きで、これを食べた、何処へ行った、と業務連絡の様な短さで届くメッセージ。その画像には、いつも暦の存在がある。見切れている場合もあれば、スノーと一緒に写っているものもあるので、スノーの近況と共に暦の近況も概ね把握できてしまうが、愛之介が言いたいのはそういう事ではない。
定期的に届くスノーからのメッセージとは対照的に、暦から最後にメッセージを受信したのは、旅立つ日の少し前。搭乗予定の便を知らせるものだった。そのメッセージ自体も、『ランガも一緒だから、来いよ!』というズレた内容で。
少しばかり腹が立ったので、見送りの時はランガにと機内に持ち込める飲食物を山のように贈って、暦にはそれなりに振った炭酸飲料のペットボトルを渡してやった。
幼稚と言われればそれまでだが、それ以上に幼稚で鈍い暦に、やり返したかったのだ。
「だって、俺よりランガからの方が嬉しいだろ?」
心から不思議そうな暦に、心底腹立たしい気分になってくる。
「君からの連絡が要らないなんて、言っていないだろう」
「え……?」
何の為に、連絡先を教えてやっていると思っているのだ。
スノーからの連絡が欲しくないとは言っていない。だが、そうではないのだ。何故、清々しいほどに連絡をしてこないのかと、苛立って仕方ないのだ。
「だって、別に用があるわけじゃねぇし」
沖縄に居た時、彼との連絡は会う為のものばかりだった。
「会うわけでもないし、いちいち連絡するのとか、嫌いかと思って」
意味のない連絡は、確かに嫌いだ。けれど、どうでも良い人間からの連絡と、そうではない人間からの連絡が、同じ訳がないだろう。
「その、連絡しても、良かったんだな……そっか」
そっか、ともう一度呟いた暦は、どこか安心したような、泣きそうな、複雑な表情をしていて。どうしてそんな表情をしているのかと、出しかけた言葉を飲み込んだ。
「当たり前だろう」
「……はは。なんか、ばっかみてぇ」
結構悩んでたのにな、と笑う暦に、微かに胸が軋んだ。それくらいの事、察するべきだと言えばそれまでだ。けれど、この少年は長年自分に仕える男ではない。自分より余程人生経験のない子どもだ。
優しくしてやるべきなのかもしれない、けれど、そうはしたくない。
自分でも把握しきれない暦に対する思いを、察しろと言うのも無理な話だ。
ふと、離れたところに立ち尽くす暦の姿が揺らいで見えて、目を眇める。そこまで疲れているだろうかと、自分の疲労具合に疑問を感じながら、暦の名を呼ぶ。
「……いつまでそこにいるんだ。こちらに来れば良いだろう?」
愛之介なりに譲歩したつもりの言葉を、けれど暦は困ったように笑う。
「俺は、ここでいいや」
「何故?」
「なんとなく?」
要領を得ない話に、愛之介は立ち上がると大股で暦に近づく。そうすると、その分何故か暦は後ずさる。
「……僕に近づくのは、嫌か」
「そういう訳じゃ、ないんだけど」
尚も近づこうとして、愛之介は漸く違和感に気が付いた。
暦の影が、ない。そこに居るはずなのに、何故影がないのか。室内の光量を落としているとはいえ、愛之介の足元には当たり前のように影が存在しているというのに。
それに、大雑把に見えてしっかりとしている暦が、人の家で靴も脱がずに居るものだろうか。
「……君は」
何と続けるのが適切なのか分からず、口を開いては閉じる愛之介に、気付いた?と明るく続ける。
「俺さ、飛行機に乗った覚えも、ここに来た覚えもないんだ。て言うか、来たことない所にいつの間にか居るってすごいよな」
「……ああ」
気配を感じなかった理由は、間近で暦を見れば明らかだった。暦を通して、部屋の壁紙が透けて見える。部屋の影になる場所に居たから、近付くまで気付かなかったのだ。
「なぁ、なんか感想とかないの?」
「……驚いている」
「マジ?じゃあ、イタズラ成功!てやつだな」
愛抱夢を驚かせてやった!とはしゃいでみせる暦に、手を伸ばす。微かに震える手は、暦の頰に触れ、そのまま通り抜けた。
「……っ」
「透明人間って、こんな感じなのかな……変な気分」
絶句する愛之介に、暦は調子を変えずに続ける。
「ハロウィンってさ、元々は日本でいうお盆みたいな行事だったんだろ?」
――だからかな?
「あんまりよく覚えてないんだけどさ、でも、会いたいなって思った気がする」
「馬鹿は休み休み言え」
「俺、真面目に話してるんだけど?」
震えそうになる喉を叱咤して、何でもない事の様に振る舞う。何が起こっているのか、理解が追い付かない。
どうして触れることが出来ないのか。どうして、目の前に居るこの少年は、ホログラムの様に透けているのか。
「あ、言い忘れてた」
本人は、相変わらず何でもない事の様に振る舞って、ポンと手を打った。
「なぁ、トリックオアトリート!」
「……菓子はない」
「じゃあ、トリックな!」
いっそ、今の状況をトリックだと言ってくれた方が余程マシだと思うが、本人はいたって真面目に考えているらしい。
深刻に考えているこちらが可笑しいのか。頭痛がしてきた額を押さえて、思わずため息を吐くと、何が楽しいのかまた笑う。
「……なんだ」
「や、こういうの、ちょっと懐かしいなって思って」
「……そう思うなら、帰ってくれば良い」
ぽろりと零れた本音に、ぐ、と口を噤むが、暦には聞こえたらしい。
「なんだよそれ……」
眉を顰めて、腹を立てているような、何かを我慢しているような表情で、暦が近づいてくる。気のせいか、その足元は先ほどまでよりずっと薄くなっている。
伸ばされた両手は、愛之介の頬に触れるか触れないかの距離で止まる。ちょっと屈んで、と凄まれて思わず腰を屈めると、唇に風が触れたような微かな感触があった。
「会いたいなら、アンタが会いに来ればいいだろ!」
ばーか!と怒りのせいか目元に薄っすらと涙を溜めているのを見て手を伸ばすが、瞬きの間にその姿は消えていた。
「……れき?」
デスクに置きっぱなしだったスマートフォンが着信を知らせたのは、その直後だった。
******
らしくない事をしているという自覚は、ある。
スノーからの連絡を受け、すぐに忠を呼ぶと翌日のスケジュールを全て白紙または延期するように指示を出し、何か言いたそうな様子を一蹴して、一番早い東京行きの便を予約させた。
『暦が、事故に遭った。頭を強く打って、目が覚めない』
普段、愛之介に対してあまり大きな動揺を見せないスノーの震えた声に、状況が芳しくない事を察すると、優しく宥めながら病院を聞き出した。
突然目の前に現れた暦は、『あんまりよく覚えてない』と言っていた。もし、あれが所謂、臨死体験だったのだとしたら。
目の前で消えた暦の言葉が、表情が過ぎる。
『会いたいなら、アンタが来ればいいだろ!』
「……まったくだな」
自嘲して、小さな窓から雲を眺める。今できることは、逸る気持ちを抑える事と、精々祈るくらいだ。
パークで、別のスケーターが空中でのトリックに失敗して落下し、その際に接触したのだという。
技術は未熟でも、それなりに経験のあるスケーターの癖に、今更そんな事故を起こすなんてどういう了見だ。
あの子供に傷を負わせるのは、自分だけで良い。そんな事を考えて、自覚している以上に暦に執着している事に気付いた。
気にしている癖に、執着している癖に、気にしていないフリをして、好きにすれば良いと放っておいた。
これではどちらが子どもか分からないなと自嘲して、ゆっくりと息を吐きだす。暦に対しての複雑で苦い思いを飲み込んで、微かに震える手を握りしめた。
手配した車で病院に到着し、忠の先導で病室へ向かう。救急で運ばれたせいか、病室の空きがないのか、二人部屋の入口に見覚えのある名前が書かれていた。
使われているベッドは片方だけで、そこには見慣れた赤毛の少年が横たわっていた。呼吸器をつけて、いくつかの管に繋がれている姿は痛々しく見える。
スノーが付き添っていると聞いたが、丁度席を外しているらしい。
心拍を刻む音だけが響く、清潔感のある薬品の匂いがする部屋。
現実感のない空間をぼんやりと眺めていると、花を活けてくると忠が退室していく。
ゆっくりと、枕元へ近付く。呼吸器が無ければ、眠っていると言われてもおかしくない穏やかさで。けれど頭に巻かれているのはバンダナではなく白いガーゼとネット包帯だ。
「……来てやったぞ」
ベッドの側にあったパイプ椅子に座ると、暦に話しかける。足元には、昨夜見たのと同じ、履き古したスニーカーが置かれていた。
力なく身体の脇に投げ出された手に、そっと触れる。透ける事無く体温を感じることに安堵して、安堵した自分に思わず苦笑して言葉を続ける。
「僕がわざわざ来てやったのに、寝ているなんて良い身分だな」
手を取って、ざらつく皮膚をそっと撫でながら、起きたらハンドクリームを押し付けてやろうと思う。
「悪戯、するんだろう」
手の甲に唇を押し付けて、両手で包むように持つ。
「今なら、相手をしてやらなくもないぞ」
額に当てて、柄にもなく願う。
――あれが最後だなんて、認めない。
思わず、手に力が入っていたらしい。握った手のひらが微かに動いたような気がして、顔を上げる。
「……ぃた、い」
薄っすらと瞼を持ち上げた暦が、微かに声を漏らす。
「おい、分かるか?」
ナースコールを押しながら呼びかけると、ゆっくりと蜜色の瞳がこちらを見る。呼吸器ごしに、掠れた声が名前を呼んだ。
「ぁい、のすけ」
「今、医者が来る」
「また、あえたな」
「……ああ」
「いたずら、」
「ああ」
いくつもの足音が近付いてくるのを感じる。スノーが暦を呼ぶ声も聞こえた気がするので、それを聞きつけて忠も戻ってくるだろう。
「いつでも、かかってこい」
「……ん」
嬉しそうに笑う暦に、珍しく愛之介も口元を緩めた。
しばらくは検査や見舞い客の対応、心配をかけたスノーへのフォローで話す時間も取れないのだろうと予想がつく。
愛之介も、急なスケジュール変更のしわ寄せが待っている。
まだどこかぼんやりしながらも、触れたままだった手を弱く握り返してくる暦に対して言葉にし難い感情を抱きながらも、やっと触れたこの体温をもう少しだけ味わっていたいと、そう思うのだった。
完