お菓子作り発端はひと包みのカップケーキだった。
釘崎さんがクリスマスに向けて菓子作りの練習をしているところに虎杖君、伏黒君を巻き込んでの練習会になったらしい。
試行錯誤の末に出来上がったものを消費の名目で渡されたというカップケーキ。
三人からひとつずつ、計三つを順番に、五条さんが目の前で嬉しそうに頬張っていた。
「クリスマスに向けて今から練習は随分気合が入っていますね」
まだ11月に入ったところで、街並みもハロウィンから少しずつクリスマスムードに切り替え始めていた。
「野薔薇は真希に渡すから下手なもの作れないって頑張ってるらしいよ」
美味しかったと満足そうに笑いながら指を舐める五条さんを嗜めながらティッシュを渡す。断って手を洗ってくると席を立った五条さんが捨てた紙カップを見て、知らず眉間に皺が寄った。
それが一週間前の事。
キッチンに並べた材料を腕を組んで見下ろす。
この時代レシピ本を買わなくてもネットで知りたい情報が出てくるのが有難い。
ココアパウダー、チョコレート、無塩バター、その他普段おおよそ使う事のない材料は購入して揃えた。薄力粉や卵は買い置きがある。
必要な材料、器具、Webページを並べて、万端の準備をしてなお躊躇う自分に溜息が出る。
簡単に言えば後は混ぜて焼くだけだ。
比較的簡単なレシピを選んだから人が食べるのに支障ないものが作れるだろう。
ただ、作った後が問題だった。
チョコレートを刻んで湯煎しながら考える。
甘いものを好んで食べないとは言え、スイーツも別に嫌いなわけじゃない。自分用に拵えるならビターで食後酒に合うようなものを作るだろう。
無塩バターや卵黄をレシピ通りに混ぜ合わせながら甘いかおりを追い出すかのように換気扇を点ける。
目で追っているレシピはビターなんてひと言もない、ミルクチョコと控えることなく砂糖を使用する濃厚なものだ。
糖分を必要とするあまり嗜好するようになった人。
渡したいと思ってしまった。私の、手作りを。
あの笑顔がたとえ生徒にもらったからという理由だったとしても。張り合ってるのかと笑われても。
……いや、笑われるのはイラッとする。だから躊躇うんだ。
驚くほど人を尊ぶかと思えば、引っ叩きたくなるほど人を扱き下ろす。長い付き合いの中、あの時もあの時もと思い出された怒りで卵白を泡立てる。
腹が立った事もケンカした事も数えきれないほどある。殴り合った事も口を利かなかった事もその度にもう終わりだと思いながら、今もまだ隣にいる事を許し合っている。
卵白を泡立て過ぎる前に気を落ち着かせ、他の材料を順番に混ぜ合わせて型に流した生地を予熱させておいたオーブンで焼く。
換気扇などまるで意味を成さない甘い香りに包まれながら焼き上がりを待つ。
ああ、なんだかどっと疲れた。
無事に焼き上がり、冷めたところで冷蔵庫に仕舞った。
備え付けるホイップクリームも用意してから、今日自宅に来られるかと連絡をする。来られなかったら…と考える前に、玄関が開いた。
「呼ばれて飛び出てーってなんか良い匂いする!!!」
よくわからない口上を切り上げてリビングに入ってきた五条さんは部屋のニオイを嗅ぎながらキョロキョロと辺りを見渡す。
「なんか、お菓子とか焼いた?」
「…………まあ」
「マジ!?珍し…なんでまた」
「………………さあ」
「さあってこたないでしょ」
歯切れの悪い私を尻目に軽い足取りで冷蔵庫を開け、感嘆の声を漏らした。
「ガトーショコラ!ほんとにこれ買ったんじゃなくて?七海が作ったの?」
「そうですが…」
「パティシエの才能がある!」
「私がパティシエになりたいと言ったらどうしますか」
「僕が雇っちゃう」
ニコニコしながら皿をテーブルに置いた五条さんに「食べるなら手を洗って下さい」と声をかけると「はーい!」と素直に応じる。
余程嬉しいらしいが、あまり期待されると不安が過ぎる。なんせ初めて作った上に味見も出来ていない。
せめて見た目だけでもと粉糖とホイップクリームで仕上げてやれば、戻って来た五条さんがまた歓声をあげた。
「食べよ食べよ!」
「お一人でどうぞ」
「食べたくて作ったんじゃないの?」
「…いえ、食べさせたくて作りました」
「……僕に?」
サングラスの奥の目をぱちぱちを瞬かせ、小首を傾げて問う姿があざとい。それを愛らしいと思ってしまうのが悔しくて無言で頷くと、さっと頬が赤らんで照れたように微笑んだ。ああ、もう。
「いただきます」
行儀良く手を合わせて、ひとくち口に運ぶ。
形の良い唇の奥に消えていく塊を思わず目で追った。
そのひとくちを随分味わってから嚥下しても五条さんは無言で、フォークを握ったままだ。
これは…失敗、だろう。
やはり味見をするべきだった。
あれだけ喜んだ手前、不味いと言い出せないのか。
だが気を遣われる方が辛い。
「五条さん、不味いなら無理しなくて良いです。口直しにココアでも——」
「——誰が、不味いって言った?」
立ち上がろうとテーブルに着いた手を掴まれる。
居直って五条さんを見ると手は解放され、小さく切り分けた塊を私に向ける。
「美味しいよ。七海も食べて」
差し出されるままに口にすると、甘すぎると感じるが不味くはなくて安心する。
「本当に美味しい。七海、ありがとう」
そんなに神妙に噛み締めながら言われるなんて、想像と違って居心地が悪い。
「大変だったんじゃない?普段お菓子は作らないだろ」
「そうですね、初めて作りました。でも難しいことはなかったですよ」
しれっと言ってやれば、ふふっと笑みをこぼす。
「僕の誕生日、期待しちゃうなぁ」
…藪蛇だったか。
でも、こんなに喜んでもらえるなら期待に応えるのも悪くはない。