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    ぷらいべったーでちょこちょこ公開してた分のアメムゲ(※本の序盤部分)

    ※ビークロR後のムゲンさまをカードショップ店長のアメヒコさんが拾う幻覚の話

    【一 雨の日の出会い】

    『誰か、助けて』
    何処からともなく響いた声は、憔悴しきり今にも消えてしまいそうだった。
    それは雨が降り続くある日の夜、アメヒコが自身の経営するカードショップで店じまいをしていた時のこと。アルバイトも帰宅し、誰もいないはずの店内に突如響いたその声は、アメヒコにとってはそう珍しいものでもなかった。
    「店の外、か?」
    アメヒコには時折、人ならざるものの声が聞こえることがある。どうやらカードの中には意思を持ち、人に語りかけてくるものもあるようだということ、そしてそれを認識できる人間はごく僅かであることを理解したのは、片手で数えても余るほど幼い頃のことだ。
    『誰か』
    聞こえる声は徐々に弱々しくなっていく。
    外で何が起こっているのかはわからない。だが、カードがここまで切実に助けを求めているということは、何かよっぽどのことが起こっているのだろう。
    カードの声が届く数少ない人間として、アメヒコはこの声を無視するわけにはいかない。それが自分の役目なのだとすら考えていた。
    アメヒコは傘を片手に足早に店を出て、声のする方へと向かった。



    さあさあと雨が降り続ける中、か細い声を頼りにたどり着いたのは、店舗の裏のゴミ捨て場だった。
    「これは……」
    立ち並ぶゴミ箱の間、ぐったりと壁にもたれかかるように倒れている男が一人。顔には何度も殴打されたような傷を負い、身に着けている衣服もボロボロの男の懐から、先ほどの声は聞こえていた。
    頭からつま先まで男の状態を確認したアメヒコは、小さくため息をつく。カードショップを経営し、日々ビーストクロニクルの情報に触れているアメヒコが、その制服を知らないはずがない。
    「閃極ファイターズスクールの幹部か……また厄介なことになったな」
    閃極ファイターズスクールは規模の大きいスクールだが、裏で入ってくる悪い噂も多い。少しばかり考える素振りを見せるアメヒコに、アメヒコの存在を認識したカードが語りかけてくる。
    『お願い、ムゲンを助けて』
    「ムゲン……」
    閃極ファイターズスクールの幹部でその名を持つ人間には、一人しか心当たりがない。
    先日失脚したと言われる日本支部の代表、深見ムゲン。表舞台から姿を消した彼が、どうしてこんなところで傷だらけで倒れているのか。
    『お願い』
    本来であれば警戒するに越したことはない立場の人間。それでも彼の有り様や、切実に助けを求めるカードの声を思えば、助けないという選択肢は浮かばなかった。
    「まあそうさな、お前さんが助けたいというのなら、力を貸そう」
    『ありがとう……きっとそう言ってくれると思ったよ』
    語りかけるかのようなその声は、雨音にかき消されて消えていく。カードは力を使い果たしたのか、その後言葉を発することはなかった。男とこのカードがどういう経緯で、何故ここにいるのかはわからないまま。
    「仕方がない。詳しい事情は本人から直接聞くしかないな」
    雨に打たれる中、ぴくりとも動かない男へ手を伸ばす。傷を負っているのは顔だけではないのだろう。その身体を起こすと、痛みに小さく呻く声が聞こえる。抱えた身体はその長身に見合わず軽く、長時間雨に打たれたためか、ひどく冷え切っていた。



    薄暗く冷たい牢の中。陰鬱な空間には不釣り合いなほど明るい嘲笑が響いていた。
    痛い、苦しい、痛い、恐い、痛い、痛い
    こんなはずではなかった
    どうして
    どうして
    「だれ、か」
    この声は、誰に届くこともない。
    ぶつり、と意識が途切れ、真っ暗になる。
    どこまでも落ちていく。



    目が覚めると、そこは見知らぬ部屋だった。
    「……ここ、は」
    がばりと身を起こそうとしたムゲンは、全身に走った痛みに耐えきれず、横たえられていた布団に再び身を沈めた。
    窓から差し込む陽の光が暖かい。よく見ればボロボロだったはずの衣服が、柔らかな香りのするシャツに替えられている。
    「目が覚めたようだな」
    「っ!」
    物音に気づいたのか、やって来たのは見知らぬ長身の男だった。
    (ここは何だ?どうして私はここにいる?この男は?)
    男を警戒しようとしても、傷を負った身体は上手く動かない。
    「お前さん、丸二日は眠っていたが、気分はどうだい?」
    歩み寄ってくる男を見て、覚醒し始めた頭が、これまでの記憶をフラッシュバックさせる。
    脳裏を過ぎるのは、暗い牢の中。時間の感覚すら薄れた空間で、硬い靴音が響くと始まる悪夢。
    「ぁ、ああ……」
    本能的に身体が震えだす。近づいてくる男に、ムゲンを甚振る男たちの姿が重なる。
    これもあの続きなのか。また好き勝手に嬲られ、弄ばれるのか。
    長い時間をかけて植え付けられた恐怖がムゲンを襲い、余計に混乱が増す。
    「来ない、で……来ないでください……!」
    早く逃げなければと頭が警鐘を鳴らしているが、自由に身動きを取ることができない身体では、身を守るように縮こまることしかできない。ムゲンはギュッと強く目を引き結び、男の起こす行動に身構えた。
    「っ、おい」
    目の前の男が戸惑うように呼びかける声もムゲンの耳には入らない。
    時間がひどくゆっくりに思える中、この男は何をしてくるのだろう、どうしたら一刻でも早く許してもらえるだろう、といつものように考える。
    だがどれだけ経っても男がムゲンに何かをしてくることはなかった。
    「……悪かった、お前さんを怖がらせたかったわけじゃないんだ」
    恐る恐る目を開くと、男はムゲンから距離をとり、床に腰を下ろしていた。
    「いきなり知らない場所で目が覚めたんだ、混乱するのも無理はない。まずは俺の自己紹介をしよう」
    男の瞳は静かに凪いでいて、落ち着いた低音からは、確かに害意は感じられない。
    ムゲンは少し落ち着きを取り戻し、警戒を続けながらも続きを促した。
    「俺は葛之葉アメヒコ。カードショップの店長をしている。ここは俺の自宅兼店舗で、下の階がそのカードショップだ。お前さんは裏のゴミ捨て場に倒れていたんだ」
    「貴方が、私をここに……?」
    「ああ、お前さんのカードに呼ばれてな」
    アメヒコと名乗った男は懐から一枚のカードを取り出し、ムゲンにそっと手渡す。
    「これは……『深怪神鯨アスピドケロン』……」
    巨大な白鯨のイラストが描かれたそのカードは、ムゲンが幼い頃に初めて手にしたカードだった。力を追い求めていくうちにデッキに入れることがなくなったこのカードは、人からの貰い物だったと記憶している。これまで多くのカードに触れ、時に手放してきたムゲンだが、このカードだけは何故かしまい込むことも手放すこともできず、お守りのように持ち歩いていた。
    迅宮寺ライトに敗北した後、使用していたデッキは取り上げられてしまったが、このカードだけはデッキに入っていなかったことで難を逃れたのだろう。
    「あんまり必死な声だったから様子を見に行ってみたら、お前さんが倒れていたってわけだ。着の身着のまま、持っているのもカード一枚ときた。さすがに驚いたよ」
    「貴方は、カードの声が聞こえるのですか……?」
    閃極ファイターズスクールで多くのウェイカーを見てきたムゲンでも、カードの声が聞こえる人間に出会ったことはほとんどない。
    偶然逃げ延びた先で、偶然カードの声が聞こえる人間に見つけられるなんてことは、ほとんど奇跡に近いだろう。
    だがアメヒコが嘘を言っているようには見えなかった。
    「まあ、頻繁にではないが聞こえる時がある、という程度だな。さて、俺の話はこんなところだが……お前さんの話を聞いても良いかい?」
    「そう、ですね」
    真っ直ぐに向き合ってくるアメヒコの視線から逃れるように、ムゲンは目を伏せる。
    問われることはわかっていた。助けてもらった以上、説明する義務があるとも感じているが、いざ説明しようとすると上手く言葉が出てこない。
    無様に負けて、捕らえられて、閉じ込められて、それから。
    思い出せば再び恐怖がぞわりと背筋を駆け上がる。言葉を発しようと口を開いたまま息を詰めたムゲンを見て、アメヒコは少し眉根を寄せた。
    「わたし、は」
    少しずつムゲンの呼吸が乱れていく。はくはくと喘ぐように息をするムゲンを落ち着かせようとアメヒコが手を伸ばすと、ムゲンの身体がびくりと大きく跳ねた。
    「落ち着け、大丈夫だ。ここにはお前さんを傷つけた奴はいない。無理に思い出して話す必要もない。考えなくていい」
    優しく背に触れて宥めるように語りかけてくる低い声を聞いていると、次第にムゲンの呼吸が整い始める。
    「落ち着いたか?」
    「は、い……すみません……」
    「一つだけ確認させてくれ。……お前さんは、閃極の深見ムゲンか?」
    アメヒコの問いかけに、ムゲンは一瞬の躊躇の後、小さく頷いた。少しの間があった後、意を決したようにムゲンは顔を上げ、アメヒコに向き合う。
    「助けていただいたこと、感謝します。私は深見ムゲン。お気づきのように、かつて閃極ファイターズスクールの日本支部代表を務めていた者です。……何故、私が深見ムゲンだと気づいたのですか?」
    「カードがお前さんをムゲンと呼んだ。まさかとは思ったが、お前さんが身に着けていた制服も考えれば、思い浮かぶ候補は一人しかいなくてな」
    「そう、でしたか。……貴方がカードショップを営む身であれば、私を良くは思わないでしょう。貴方にこれ以上迷惑をかけるわけにもいきません。すぐにでも、ここを立ち去ります」
    これまでの自分の行いが、ビーストクロニクルを愛する人たちの恨みや怒りを買うものであった自覚はある。カードに呼ばれて、人助けでここへ連れてきたとはいえ、アメヒコがこれ以上ムゲンを助ける理由も、ここに置いておくメリットもない。目が覚めた以上、ここを去るのがムゲンにとっては当然で、きっとアメヒコにとっても当然だろう。
    ムゲンが痛みに軋む身体で立ち上がろうとすると、アメヒコは驚いたような顔をした。
    「まあ待て、そんな状態じゃまだ満足に歩くこともできないだろ」
    「……何故止めるのですか?貴方にとって、私がここにいるメリットなんてないでしょう?」
    「こんな状態の人間を放り出すほど薄情じゃないさ。それにお前さん、ここを出て行く宛はあるのかい?」
    アメヒコに問われたムゲンは閉口する。ここにたどり着くまでの記憶は朧気だが、戻る場所などないことはわかっていた。
    落ちるところまで落ちたムゲンは誰にとっても用済みの存在。強いて言えば、闇のカードを扱った貴重なサンプルとして、閃極コーポレーションが利用しようとしているくらいだろうか。だが彼処にももう戻れない。戻りたくない。
    「幸いここは俺一人だし、スペースも持て余してる。もしお前さんが行くところがないっていうなら、しばらくここで過ごして構わないぜ。」
    アメヒコの言葉に、今度はムゲンが驚く番だった。
    「どうしてそこまでしてくださるのですか?貴方にはそんな義理はないでしょう」
    「何故と聞かれると困るが……まあただの気まぐれ、興味本位みたいなものだと思ってもらっていい」
    「ですが……」
    行く宛のないムゲンにとって、これは願ってもない提案だ。少ないやり取りだけでも、アメヒコが悪い人間ではなく、ムゲンをどうこうしようという気もないことがわかる。ここでならば、落ち着いて傷を癒やすことができるだろう。
    だがムゲンは競い合い、蹴落とし合い、利用し合う世界しか知らない。だからこそムゲンはこの状況に戸惑い、アメヒコの提案をどう受け取っていいかわからずにいる。
    逡巡するムゲンを見たアメヒコはいたずらっぽく笑ってみせた。
    「それでもお前さんが気にするっていうなら……そうだな、元気になったら店の手伝いでもしてくれたらいいさ。バイトが一人いるんだが、せめてもう一人くらい雇ったらどうだ、とせっつかれていたところなんだ」
    「葛之葉、さん……」
    「アメヒコとでも呼んでくれ。正直なところ、この苗字を名乗る権利があるのかも怪しいもんでな」
    そう返すアメヒコの表情はどこか複雑で、ムゲンにはうまく読み取ることができなかった。



    「これからどうしたもんかな」
    いつものように店番をしながら、アメヒコは小さく呟いた。
    あの日、ムゲンを連れ帰ったアメヒコは、薄汚れてずぶ濡れのその身を清め、怪我の手当を行った。衣服の下の状態は想像以上に酷く、長い間、あらゆる方法で痛めつけられていたことは明白だった。
    それから目覚めた後のムゲンの様子。ここにたどり着くまでに受けた仕打ちが、ムゲンの心に深い傷を残していることは想像に難くない。結局ムゲン本人からも、詳しい経緯を聞き出すことはできなかった。
    一度目を覚ましたムゲンと少し会話をした後、ムゲンはまた眠りについた。昏々と眠り続けるムゲンを見るに、本調子に戻るにはまだ時間を要するだろう。
    これまでそれなりに様々なことを経験してきたアメヒコも、人を拾った経験はない。ましてや行く宛もない、傷だらけの迷い人ときた。どう扱ったものか、考えても答えは出ない。
    「アメヒコ店長、今日はどうしたんですかー?」
    店内でわいわいとはしゃぐ子どもの声を聞きながら思考を巡らせていると、品出しを終えたアルバイトに声を掛けられた。
    この小さなカードショップで唯一のアルバイトである北村ソラは、近くの大学に通う大学生だ。のんびりとした口調とは裏腹に、テキパキと仕事をこなし、時になかなか鋭いことを言ってのける彼を、アメヒコは気に入っている。
    「俺が変な顔でもしていたかい?」
    「何だか上の空みたいなんでー。あ、もしかして彼女ができたとかですかー?」
    ソラの物言いにアメヒコは思わず苦笑する。
    お互いに自分のことをあまり話さないタイプのせいか、二人は時折、相手のことを探るような会話をすることがあった。探りあっているようで踏み込みすぎない、言葉遊びのようなやりとりは、暇な昼下がりの店番の時には、良い退屈しのぎになる。
    「ソラには俺が恋煩いでもしてるように見えるのか」
    「違うんですかー?」
    「なに、ちょっとネコを拾っただけさ」
    ネコ、ときょとんとした顔のソラが繰り返す。
    「店長、動物は苦手なんじゃなかったですっけー」
    「確かに犬は得意じゃないな」
    「ネコなら大丈夫っていうのは初耳かもー。あ、僕今日はこれで上がりなんで、後はお願いしますー」
    エプロンを外しながら、ソラは会話を切り上げる。開店時間からのシフトだったソラは、これから授業が入っているらしい。
    「今度その拾ったっていうネコ、見せてくださいねー」
    「……ああ、機会があればな」
    ソラが想像するネコを見せてやることはできないアメヒコは曖昧に返答した。
    アメヒコが拾った『ネコ』は今も上の部屋で眠り続けている。
    カードショップの閉店時間まであと約五時間。戻った時、彼は目を覚ましているだろうか。
    どうやら、少しだけ閉店後が待ち遠しいと感じる程度には、彼に興味を抱いてしまったらしい。
    ソラを見送ったアメヒコは、久しぶりの感覚に一人小さく笑った。



    【二 初めての手料理】

    ムゲンが家に来てから、一週間ほどが経った。
    最初の数日は眠っている時間の方が長かったムゲンは、ようやくアメヒコと同じサイクルで目を覚まし眠りにつくことができるようになった。
    生活リズムが揃い、少しずつやりとりが増えていく中でわかったことが三つある。

    まず一つが、ムゲンも苗字で呼ばれることを好まないということ。初めてムゲンのことを深見、と呼んだ時の複雑そうな表情は記憶に新しい。
    まだムゲンが閃極ファイターズスクールの代表を務めていた頃に、深見ムゲンは本人の実力もさることながら、家柄や人脈も持ち合わせているのだということを、アメヒコは聞いたことがある。
     そんなムゲンも己の苗字に、それが生み出す柵に思うところがあるという事実が、アメヒコにとっては驚きでもあり興味深くもあった。
    「実家には良い思い出がないのです。向こうも今頃は失態を犯した私の存在をなかったことにしたいと考えているところでしょう。恐らく、私はもうあの家の敷居を跨ぐことすら適わない」
    そう話すムゲンの表情は穏やかで、戻れないことよりも戻らなくて良いことに安堵しているように見えた。
    ともあれ、ムゲンの望み通り、アメヒコはムゲンのことを名前で呼ぶようになった。

    二つ目は、ムゲンが長いこと陽も差し込まない暗闇の中で閉じ込められていたらしいこと。
    正式に居候となったムゲンは、最初に運び込まれた寝室をそのまま使用することになった。日当たりの良い部屋にも関わらず、ムゲンがカーテンを締め切り薄暗い部屋で過ごしていることが、アメヒコの最初の気がかりだった。
    放っておけず声をかければ、久しぶりの陽の光が少し目に眩しいだけとのことだったので、少しだけ安堵する。
    同時に、ムゲンがそれだけ長い間何処かに閉じ込められていたという事実に対して、アメヒコの中にささやかな、憤りにも似た感情が芽生えるのを感じた。
    そして数日が経ち、やっと明るさに目が慣れたらしいムゲンは、今度は窓から外を眺めるようになった。
    何の変哲もない、カードショップの入口に面した通り。カードを片手に楽しげに駆け回る小さな子どもたち。
    それを眺めるムゲンが何を考えているのかまでは、アメヒコにはわからない。ただ、少しずつ動けるようになってきても、ムゲンが外に出ようとすることはなかった。

    そして三つ目。
    アメヒコにとってとりわけ予想外だったのが、この生活を楽しみ始めている自分がいることだった。



    ムゲンが目を覚ました日、まともに食事もとれていなかったらしいムゲンのために、アメヒコはお粥を作ることにした。
    普段から自炊をしているとはいえ、料理を食べさせるような相手もいないアメヒコにとっては、誰かのために料理をするというのはなかなかの緊張感だ。
    「お前さん、お粥は食べられそうかい?」
    「おそらくは……ありがとうございます、いただきます」
    久しぶりの食事で胃が驚いてはいけないとアメヒコが最初に作ったのは、長めに火を入れ、薄く塩で味付けをしただけのシンプルな白粥。
    椀をムゲンに手渡したものの、利き手の怪我のせいか、身体の疲労が回復しきっていないせいか、レンゲでお粥を掬う手は少し覚束ない。
    「ほら、貸してみな」
    見かねたアメヒコが椀とレンゲをムゲンから取り返すと、ムゲンはきょとんとした顔でアメヒコを見た。どうやら意味がわかっていないらしいムゲンの口元に、お粥を掬ったレンゲを運ぶ。
    「……え」
    レンゲとアメヒコの顔を交互に見たムゲンは、少しの間の後ようやく状況を理解し、驚いたようにアメヒコから少し距離をとった。
    「な、何を……!」
    「その腕じゃ食べるのも大変そうでな」
    「自分で食べるくらいのことはできます!」
    「遠慮しなさんな。布団の上でひっくり返すよりは良いだろ?」
    アメヒコにそう言われれば、布団を借り受けている身であるムゲンは弱い。そして事実自力で食べるのに苦労していたのだろう。少し考える素振りを見せたものの、渋々といった様子で口を開いたムゲンにお粥を食べさせていると、アメヒコは本当にネコでも拾ったかのような気分になる。
    こういうのもたまには悪くないと考えている自分に驚き、アメヒコは小さく笑う。
    結局最初にムゲンが食べられたのは、ほんの少しの量だった。
    「もう無理そうかい?」
    「すみません……」
    申し訳なさそうに眉尻を下げるムゲンを安心させるように、アメヒコは笑ってみせる。
    「なに、じきに食欲も戻るさ。胃が慣れるまではお粥を持ってくるが、もし食べたいものがあったら言ってくれ」
    「……ありがとうございます」
    そうしてアメヒコの日課にお粥作りが仲間入りした。
    梅にたまご、鮭に鶏肉に旬の野菜。飽きてしまわないように、少しずつでも栄養を摂れるようにと試行錯誤していくうちに、ムゲンが食べられる量も少しずつ増えていき、アメヒコの手を借りずに食べ進めることができるようにもなった。
    アメヒコは仕事の合間を縫って、次のメニューを見繕うためにレシピサイトとにらめっこをする。そんなアメヒコを見て、ソラが「アメヒコ店長が何かにそんなに夢中になっているの、初めて見たかもー」と呟いた声もアメヒコには届いていなかった。
    そんなこんなであっという間に一週間が過ぎ、ムゲンはようやく普通の食事にチャレンジしてみることになった。



    その日はアメヒコが経営するカードショップの定休日だった。
    午前中に溜まっていた家事を片付けたアメヒコは、近所の商店街に買い出しに出る。スーパーでそろそろ切らしそうだった洗剤や調味料を買い足し、二人分の食材を買い込むと、思っていた以上の重量になってしまった。
    「あとはいい魚が手に入ればいいんだが……」
    買い忘れがないか考えながら、アメヒコがいつも世話になっている魚屋に足を向けると、いつものように店主が明るく声をかけてくる。
    「アメヒコくん!今日は大荷物だね!」
    「つい買い込んじまってな。今日のおすすめはなんだい?」
    「今日は良いカレイが入ってるよ!」
    「お、丁度いいな。煮付けでも作ろうかと思ってたんだ。二尾もらえるかい?」
    自分とムゲンの二人分。多めに作っておけば明日の朝も食べられるだろうと考えて店主に告げると、店主は少し驚いた顔をする。
    「アメヒコくんが二尾買っていくなんて珍しいね!なんだい、ついに手料理を食わせてやる相手でも見つかったのかい?」
    「そんなんじゃないさ」
    ムゲンを拾ったばかりの頃に、ソラにも似たようなことを言われたことを思い出してアメヒコは苦笑した。
    店主が店の奥で下処理をしている間に、アメヒコは夕飯のメニューを考える。
    その間も頭に思い浮かぶのはムゲンのことだ。
    自分の料理を食べてもらう相手がいるというのは大変だが、その分作り甲斐があるのだということに、この歳になって初めて気づく。自分の作る料理で、ムゲンの傷が少しでも癒えればいい。
    「……情が移ったかな」
    そう考える己の変化も、アメヒコには悪くないと思えた。



    「これは……」
    ムゲンがアメヒコに呼ばれて居間に向かうと、既に小さな食卓を埋め尽くすように二人分の料理が並んでいた。
    順調に回復し、やっと布団から出て動けるようになったムゲンが、お粥生活を脱して初めてアメヒコと食卓を囲むのが、今日の夕飯だった。
    卓上には炊きたての白米にカレイの煮付け、味噌汁と小鉢が二つ。
    「貴方が作ったのですか?」
    二人分のマグカップを持ってキッチンから戻ってきたアメヒコに問えば、アメヒコは少し照れくさがっているかのような表情をする。
    「まあ、たいしたもんじゃない。口に合うかはわからないが……」
    卓につくと料理の香りに誘われるかのようにぐう、と腹の虫が鳴る。こんな風に空腹を覚えたのはひどく久しぶりだった。
    「いただきます」
    心なしか、ムゲンが食べ始めるのを待つアメヒコがいつもよりそわそわしているように見えて、それが少し面白い。
    手を合わせ、ムゲンは早速煮付けに箸を運ぶ。
    「……美味しい」
    自然と口をついて出た言葉に、ムゲンは自分で驚いた。
    しばらくまともな食事にありつけていなかったとはいえ、かつてのムゲンはそれなりに良い食生活を送ってきたと思う。家が裕福だったこともあり、実家にいた頃は何もしなくてもプロの技術とよりすぐりの食材を用いた料理にありつけた。
    ただ、ムゲンに与えられる食事はより優れた人間を形作るための、好きも嫌いも気分も許されない、管理され尽くしたもの。
    そうして生きてきたムゲンにとって、食事はただの自己管理のための栄養補給だった。
    そこには楽しみも驚きも温もりもない。
    出される料理はすべて当然のクオリティで、何かを食べて驚き、思わず美味しいと言ったことなど、ムゲンにはなかったのだ。
    「こんなの、初めて食べました。アメヒコは料理人の資格でも持っているのですか?」
    「お前さんの口に合ったのなら良かったが、ただの一人暮らしの男の料理だぜ?」
    ムゲンの思わぬ好反応に、アメヒコも喜びを通り越して驚いたような顔をする。
    並んでいる料理は家庭料理としてはよくあるラインナップだ。確かにムゲンにとって家庭料理は物珍しいが、珍しいというだけでは片付けられない感覚がムゲンの中にはあった。
    思い返すと、アメヒコがこれまで運んできてくれたお粥も、痛みで朧気な記憶の中でもどこか暖かくて、安心する味だったように思う。そこまで意識を向けられていなかったが、あれもきっとアメヒコが作ってくれたものだったのだろう。
    「確かに、今日の魚は魚屋の旦那イチオシだったから、モノは良いと思うが……お前さん、魚が好きなのかい?」
    「魚は栄養価が高いので良く食べていましたが、特段好みというわけでは」
    「栄養価か……それじゃあ好きな食べ物は?」
    アメヒコに問われてムゲンは難しい顔をする。
    ムゲンにとっての食べ物は、どれも等しく栄養補給のためのもの。長年そうして生きてきたムゲンには、特段好物と呼べるようなものはなかった。
    「……わかりません。好んで何かを食べることなどなかったので」
    「そうか……好きなものでもあれば、今度作ろうと思ったんだが」
    「……でも、そうですね。アメヒコの作る料理のことは好き、なのかもしれません」
    言葉に出して、ムゲンは自ら頷いた。
    アメヒコが作る料理を、栄養補給とは関係なくもっと食べてみたいと思った。
    美味しくて、暖かくて、自然と箸が進む。
    でもそれはきっと、食材の良さによるものでも、作る人間の技術の高さによるものでもないのだろうと、良い食材も良い料理人も知るムゲンは思う。これまで食べてきたものにはない何かが、きっとアメヒコの料理にはあるのだ。
    そしてそんなアメヒコの料理を食べて初めて得られたこの感覚は、言葉に表すなら確かに好き、だと思う。
    うんうんと一人納得していると、目の前でアメヒコは虚をつかれたように固まっていた。
    「アメヒコ?」
    「あ、ああ、いや、お前さんがそこまでお気に召してくれるとは思わなくてな」
    少し狼狽えたように返すアメヒコの表情には、ほのかに照れと喜びが混ざっている。
    「もしかして、照れているのですか?」
    「そこは触れないでほしいところだったな」
    「アメヒコがそんな表情をしているのを見るのは、初めてのことだったので」
    会話を続けながらも二人の箸は止まらない。
    ムゲンは商談のための会食はこれまで何度も経験してきたが、こうして誰かと他愛のない話をしながら食事をした経験はほとんどなかった。
    「食事とは、こんなに楽しくもなるものなのですね」
    ここに来て初めて柔らかく微笑んでみせたムゲンに、アメヒコは少し目を見開いた後、そうだなと頷いて笑った。



    【三 知識豊富なアルバイト】

    アメヒコの家に居候するようになってから、ムゲンは何もできない時間を持て余していた。身体は回復してきたものの、まだ自由に動き回れる状態とは言い難い。
    更に言えば、閃極の追手がムゲンを捜索している可能性が高い中で、今のムゲンが安心して過ごせる場所は、アメヒコの家の中だけだ。
    ただ、いつまでもここに居続けるわけにはいかないということも、ムゲンにはわかっていた。
    一日をアメヒコの家の中で過ごさざるを得ないムゲンは、上手く身動きがとれない間は、窓から外の様子を眺めて過ごしていた。
    きっかけは外から響いた楽しげな声。何気なくその様子を窓から覗いたムゲンは、外でカードを片手にはしゃぐ子どもたちを見つけ、自分の幼少期を思い出した。

    厳しい家の生まれだったムゲンは、幼い頃から一日のスケジュールを徹底管理されていた。ムゲンの一日の時間はほとんどが教育に割かれ、友人と自由にはしゃいで遊ぶなんてことは許されなかった。
    強いて言うならただ一度だけ、息の詰まるようなスケジュールに耐えられず、外に逃げ出したことがあるくらいだろう。
    「ああ、確か、あの時でしたか」
    多忙な日々の中で薄れていた昔の記憶が、少し蘇ってくる。
    家から脱走し、あてもなく迷い込んだ公園で、ムゲンは初めてビーストクロニクルのカードを手にすることになったのだ。
    公園で一人ポツンとブランコに座るムゲンに声をかけてくれた不思議な少年のことは、今となっては顔も思い出せない。その少年はムゲンにビークロの存在を教え、一枚のカードをくれた。
    『深怪神鯨アスピドケロン』
    それが、閃極から逃げるムゲンを助けた、あのカードだった。
    カードを手にしたことがきっかけで、ビークロをやってみたい、と願い出たムゲンに、両親は喜んだ。それはビークロの世界で深見の人間が力を持つことに、価値を見出したからにすぎなかったわけだが。
    ムゲンが力を付けるために最適な環境として、両親が選んだのが閃極だった。閃極で過ごすうちにムゲンは力を追い求めるようになり、初めてカードを手にした時のワクワク感も、ビークロの楽しさも忘れてしまった。
    初めてカードを手にした時のムゲンは、外ではしゃぐ子どもたちのように、無邪気な顔で笑っていたはずなのに。
    ウェイカーとしての道を選んだことへの後悔はないが、大切なことを忘れて道を踏み外してしまった自分には、強い後悔がある。
    ただ、窓の外から見える子どもたちの様子は、ムゲンが失ったビークロの楽しさを少しだけ思い起こさせた。



    ムゲンはアメヒコと食事を共にするようになってから、よくテレビを見るようになった。幼い頃からテレビの視聴を制限されており、大人になってからもニュースを見る習慣しかなかったムゲンにとって、バラエティ番組やドラマは新鮮だ。
    特にアメヒコと共に夕飯を食べ、会話を交わしながら見る夜のバラエティ番組は、ムゲンにとって興味深く楽しいものだった。
    「アメヒコ、今の発言はどういう意味なのですか?何度も繰り返していたということは何か重要なメッセージが込められているのでしょうか?」
    「……お前さん……マジか」
    その日はお笑い芸人がネタを披露する番組が放送されていた。奇妙な動きや大きな声で笑いを誘おうとする芸人の姿はムゲンにとっては物珍しく、理解できないものも多い。
    ネタを披露する芸人の発言の意味がわからずアメヒコに問えば、アメヒコは驚いたようにムゲンを見た。
    「観客が笑っているということは、何か意味があるのだと思うのですが……私にはわからず……」
    考えれば考えるほどわからない。
    頭を悩ませるムゲンにアメヒコは苦笑する。
    「ムゲン、今のはそんなに複雑な話じゃないさ」
    「そうなのですか?」
    「……ネタを解説するってのは、なんとも言えない気持ちになるな」
    アメヒコは少し複雑そうな顔をしながら、その芸人の十八番だというネタを解説してくれた。
    「なるほど、何度も同じ内容を繰り返すことで笑いを誘う……テンドンというのですか……よく考えられたネタですね……」
    「まあ確かに、考えられてはいると思うが……ムゲン、そう難しく考えなさんな。こういうのはなんとなく見ているだけでも面白いもんさ。ほら、次のネタが始まるぜ」
    再びテレビを見始めたアメヒコは、時折耐えきれずクク、と笑い声を漏らす。
    その楽しげな様子は、普段はあまり見ることがないものだった。
    「アメヒコはお笑いが好きなのですか?」
    「ああ、そうだな。つらいことがあっても、こうして笑えば少しだけ気が楽になる」
    「……アメヒコにも、何かつらいことがあるのですか?」
    小さな好奇心が、思わず口をついて出た。
    ムゲンの問いに、アメヒコは何か言い淀む様子を見せる。
    「……まあ、生きていればつらいことの一つや二つくらいあるさ」
    そう言ってアメヒコは曖昧に笑い、それ以上語ることはなかった。
    思えば、ムゲンがアメヒコについて知っていることは少ない。
    カードショップの店長で、カードの声が聞こえて、料理上手。何か秘密を抱えていそうな、優しくて暖かい人。
    アメヒコのこれまでを、語らずに胸の内に秘めている何かを知りたい、という気持ちが、少しずつムゲンの中に芽生え始めていた。



    食事を終え、食器を片付けていると、アメヒコは思い出したようにムゲンを呼び止めた。
    「そうだ、お前さん、ずっと家の中じゃ暇じゃないか?」
    「え、まあ、そうですね……」
    少し動けるようになったムゲンがこの家の中でできることは、簡単な家事を手伝うことだけだ。
    一度、昼下がりの料理番組を見て、仕事で忙しいアメヒコの代わりに夕飯を作ってみようとキッチンに立ってみたことはある。
    これまで料理をする習慣がなかったムゲンは、慣れない調理に悪戦苦闘して指に新たな傷を拵え、結局アメヒコに料理を禁止されてしまったわけだが。
    「もう少し、アメヒコを手伝うことができれば良いのですが……」
    「まだ本調子じゃないんだ、今は気にせず休むといい。それでだ」
    アメヒコは仕事用に使用している部屋から、ノートパソコンを持ってくる。
    「パソコンですか」
    「ああ、仕事用に買ったんだが、俺は使いこなせてなくてな。ソラ……バイトにはそろそろ覚えろと言われているんだが」
    アメヒコは何でもスマートにこなしそうに見えるが、電子機器の操作には疎いようだ。思い返すと、スマートフォンの操作に詳しくないかと問われ、教えたこともあった。
    「というわけで、仕事中はバイトが使うが、夜は特に使う予定もない。調べたいものでもあれば、自由に使ってくれ」
    「そのパソコン、仕事の情報が入っているのではないですか?」
    「ああ、だが小さなカードショップの情報だ。見られて困るようなものはないさ。気になるなら見てもいい」
    長く外の情報から遮断されていたムゲンにとって、情報を得る手段が増えるのは喜ばしいことだ。ネットにしか上がらないニュースや情報を収集するにはちょうど良いかもしれない。
    「では、お言葉に甘えてお借りします」
    アメヒコからパソコンを借り受けたムゲンは、残りの食器を片付けに戻った。



    片付けを終えて部屋に戻ったムゲンは、早速パソコンを立ち上げた。ブラウザを開こうとしたムゲンは、ふとデスクトップに置かれたファイルに目を留める。
    「カード買取表?」
    カードショップのものだろうか、と興味を惹かれたムゲンはアメヒコの許可があったことを思い出してファイルを開く。ファイルの中には、来週発売予定の新弾に収録されるカードの買取価格や、既存カードの最新買取価格が一覧になっていた。
    長く閉じ込められていたこともあり、最近のカード情報を知らなかったムゲンは、新弾のカードを調べながら買取表を眺める。
    「なるほど……確かにこのカードは優秀ですね」
    閃極でのことがあって、ビークロに触れることにはもっと躊躇いが生まれると思っていた。だが、実際に新たな情報に触れてみると、興味の方が勝ってしまう。
    このカードを使うとしたら、と思考を巡らせ始めると、考えるのが止まらなくなってしまった。
    買取表の中でも特にムゲンにとって興味深かったのが、買取強化カードのリストだ。買取強化カードのリストには、新弾に収録される新規カードと相性の良い既存カードがピックアップされていた。
    これまでは注目されていなかった既存カードも、新しいカードと組み合わせることで化けることがある。新たなコンボの可能性に、ムゲンは胸が高鳴る。
    一つ気になるのは、元々リストアップされていたらしい一覧に、かなりの追記や修正が加えられた痕跡があることだった。
    「……ソラ?」
    追記部分の横に置かれたコメント欄には見知らぬ名前が入っている。
    「アメヒコが話していたアルバイト、でしたか」
    ソラのコメントは的確だ。
    ソラがリストに追記したカードは、どれも新弾のカードと上手く組み合わせれば化けそうなカードばかり。ここまで数多くのカードの相性を判断するには、幅広いカードの知識が必要になるだろう。
    「面白いですね……」
    ムゲンはソラに触発されるように、自分だったらどんなカードをリストに加えるだろうかと思考する。ムゲンの知識から導き出せるカードを一通りリストに付け足してみたところで、久しぶりに頭を働かせた疲れもあってか、ムゲンは眠りに落ちていった。



    「……あれ」
    来週から出す買取表の最終チェックをしようとパソコンを開いたソラは、買取表が自動保存状態になっているのに気づき、復元ボタンを押した。
    修正した際に保存せずに閉じてしまっただろうか、と首を傾げながら復元された内容を見れば、身に覚えのないカードが付け加えられている。
    「アメヒコ店長、買取表修正しましたー?」
    「買取表?いや、触ってないが……」
    「更新されたの、昨日の夜みたいなんですけど、買取強化カードが増えててー」
    昨日の夜、と聞いて少し考える素振りを見せたアメヒコは、何かに思い至ったのか一瞬動きを止める。
    「……ああ、そういや寝る前に少し触ったんだったな」
    「店長が後から修正入れるの珍しいかもー。それに、こんなカードよく思いつきましたねー」
    ソラは昔からビークロのカードに詳しい。その知識が手伝って、新たなカードとのコンボで需要が増えそうな既存カードや、その価格を予想することに長けていた。
    本来のカードショップであれば逆になるのだろうが、この店ではアメヒコが作った買取表にソラが追記や修正を行うという流れが定番だ。基本的にはソラがチェックして終わりの買取表に、これまでアメヒコがさらに追記を行ったことはない。
    珍しいこともあるものだ、と改めてリストを眺めると、なるほどと唸るようなカードばかりが追記されている。
    「ここまで思いつくなら僕のチェックいらなくないですかー?」
    「今回はたまたま良い情報を仕入れただけさ。リストは引き続き頼む」
    「まあいいですけど、これってバイトに任せていいやつなんですかねー」
    他のカードショップで働いたことのないソラには、他のショップがどうしているのかはわからない。だが一介のバイトに店の売上にも関わるリストを任せているショップはそうないだろう。
    口では文句を言ったりもするが、アメヒコから任されている、頼られているというのは悪い気がしない。
    ソラは改めて買取表の最終チェックに入った。

    本当にこれをアメヒコが追記したのだろうか、というソラの疑問は、思っていた以上にあっさりと解決することになる。



    それから数日して、新弾の発売日を迎えたアメヒコのカードショップは予約客で大賑わいだった。箱数の多い予約客も多いため、発売日だけは少しばかり肉体労働が増える。
    午後からシフトだったソラも、閉店時間にはすっかりくたくたになっていた。
    「ソラ、お疲れさん」
    「お疲れ様ですー。今日はさすがに疲れたよー」
    「そうだ、お前さんの兄貴からも予約を受けていてな。なかなか取りに来られないだろうから、代わりに持っていってやってくれ」
    「わかりましたー」
    ソラの兄はビークロのプロ選手だ。大会やイベントで全国を駆け回る兄は忙しく、家を空けることも多い。
    ソラの兄は昔からこのショップの常連だった。先代店長から店を引き継いだアメヒコともすぐに打ち解けて、たまに連絡を取り合う仲になったらしい。
    ソラがこの店でバイトすることになったのも、兄からの紹介がきっかけだった。
    「今日は一人かい?」
    「そうですー。兄さんは泊まりの仕事があるみたいで」
    「それなら晩飯を持っていくといい。今持ってくる」
    「ありがたくいただきますー」
    兄と二人暮らしをしているソラは、兄がいない日は家事全般を一人でこなす。もちろん最低限の料理はできるが、既に用意された料理にありつけるのはありがたい。
    さらに言えば、アメヒコの料理はどこで身に着けたのか、とても美味しいのだ。
    二階の住居スペースに料理を取りに行ったアメヒコを待ちながら、ソラは店の残り作業を片付ける。
    ドタン、と何かが倒れるような大きな物音が上の階から響いたのは、それから五分ほどが経った後だった。
    「えっ、何?」
    アメヒコに何かあったのだろうか?
    物音がした後の店内はしんと静まり返っており、それが余計に不安を煽る。
    さすがに様子を確認した方が良いだろうと判断したソラは、普段はあまり踏み込むことのない、住居スペースへ続く階段を駆け上がった。



    時間は少し遡り、アメヒコはソラに夕飯を持たせるため、二階の住居スペースに戻っていた。
    「アメヒコ、おかえりなさい」
    物音がしたのを聞きつけ、ムゲンが部屋から顔を出す。
    「ああ、ただいま。晩飯はもう少し待っていてくれ」
    「ありがとうございます。できれば、私が食事を用意できれば良いのですが……」
    キッチンに向かいながら言えば、ムゲンは申し訳なさそうに少し眉尻を下げた。
    「お前さんは火も包丁も厳禁だ。なに、俺が好きでやってるんだ。気にせず任せてくれればいいさ」
    「何か手伝えることはありますか?」
    「そうだな……倉庫部屋から新弾のボックスを七箱持ってきてもらってもいいかい?バイトに持たせる分なんだ」
    「わかりました」
    頷いたムゲンはアメヒコがショップの倉庫代わりに使用している部屋へ向かった。
    ムゲンが戻ってくる間に冷蔵庫から作り置きのおかずを取り出して半分ほど別のタッパーに移し、紙袋に入れる。
    「アメヒコ、これで合っていますか?」
    声がして振り返るとムゲンが手元にボックスを積み上げた状態で戻ってきていた。
    ムゲンが歩く度にボックスの山が不安定に揺れる。
    「……お前さん、それ一気に運べるかい?」
    「問題、ありません」
    そう言い張るムゲンはボックスで足元がよく見えていないのか、病み上がりのためか、歩みも少し覚束ない。受け取ってあげた方が良いだろうと判断したアメヒコはムゲンに近づく。
    だが、アメヒコがムゲンの元に辿り着くよりも早く、一番上に乗っていたボックスが箱の山から転げ落ちた。
    ムゲンは落ちかけのボックスをなんとか保とうとして、不自然な体勢をとり、そしてバランスを崩す。
    「ムゲン!」
    病み上がりのムゲンに無理をさせてしまったかもしれない、という後悔は先に立たない。アメヒコは慌ててムゲンに手を伸ばし、ムゲンを腕の中に庇いながら受け身をとった。
    バタバタとボックスが床に落ちる音がした後、二人は派手な音を立てて床に倒れ込む。
    しばしの沈黙。
    先に我に返ったのはムゲンだった。
    「……ア、アメヒコ!大丈夫ですか⁉?」
    アメヒコに庇われ、上に乗り上げるような形で転倒したムゲンが、少し身を起こして慌てたようにアメヒコに呼びかけてくる。
    ムゲンが動き出したことで、さら、とムゲンの長く艶のある髪がアメヒコの頬を擽った。
    自分を心配そうに覗き込むムゲンを見上げると、ぼんやりと綺麗だ、という感情が過ぎる。
    出会った頃は顔も身体もボロボロで目も当てられない状態だったが、傷が癒え、徐々に元気を取り戻していくムゲンの美しさに、最近のアメヒコはつい目を奪われるようになっていた。
    「アメヒコ……?」
    何も言わないアメヒコにいよいよムゲンが不安そうな顔をし始めたところで、アメヒコはハッと我に返った。
    「ああ、俺はなんともない。ムゲンこそ怪我はないか?」
    「貴方が庇ってくれたので……巻き込んでしまいすみません……」
    落ち込んだような顔をするムゲンを安心させるため、アメヒコは柔らかく笑ってみせる。
    「謝ることはないさ。せっかく回復したところに、新しい怪我を作らなくて良かっ……」
    アメヒコは最後まで言いかけて、視界に映る人影にはたと動きを止めた。
    視線の先、住居スペースの入口には、驚いた顔で固まっているソラがいた。
    「大きい音がしたから来てみたら……店長……何して……」
    かろうじてそれだけ呟いたソラがあまりにも動揺しているのを見て、アメヒコは自らの状態を確認する。アメヒコは完全にムゲンの下敷きになっており、アメヒコの上に乗り上げる形で転倒したムゲンは、その後中途半端に体を起こしたせいか、アメヒコに覆いかぶさっているかのような状態だ。
    「……あ」
    少しの間があった後、これはソラから見るとアメヒコが知らない人間に押し倒されているように見えるのではないか、という発想にたどり着いたアメヒコは一気に慌て始める。
    「ソラ!これは、事故でだな」
    「アメヒコ?何を慌てているのですか……?」
    ムゲンはアメヒコの視線を追って背後にいるソラの存在を見つけるが、アメヒコが慌てている理由がわからず小首を傾げる。
    慌てるアメヒコの様子と呆然としているソラ、そして自分たちの状態を見返すこと二往復、ムゲンはようやく自分たちの体勢に思考が至ったのか、サッと顔を赤くした。
    「す、すみませんアメヒコ!」
    これまでに見たことがない素早さで、ムゲンはアメヒコの上から飛び降りる。
    「えっと……何この状況ー?」
    気まずそうにあらぬ方向を向く二人を見て、冷静さを取り戻したソラは至極真っ当な疑問を口にした。



    「つまり、アメヒコさんが拾ったって言ってたネコが、実はこの人だったってことー?」
    転倒事件の後、ソラに事情を説明するために、三人はアメヒコの家で夕飯を囲んでいた。
    アメヒコから、ムゲンが店の裏で行き倒れていたこと、行く宛がないため居候していることを説明され、ソラはようやく最近のアメヒコの言動に合点がいったような顔をした。
    「ネコ……?」
    ソラが納得しきった顔で肉じゃがを頬張る横で、自分がネコと説明されていたとは知らないムゲンは、説明を求めるようにアメヒコの方を見る。
    「ムゲン、そこは気にしないでくれ」
    「アメヒコさん、二週間くらい前からネコを拾ったってそれはもうウキウキしていてー」
    「ソラ!」
    店での様子を暴露され、アメヒコは慌てたようにソラを止める。
    「いいじゃないですか、本当のことなんですからー」
    「そういう問題じゃない……この話はもうおしまいだ」
    アメヒコは照れたように話を切り上げ、ご飯に手を伸ばした。
    気心の知れた二人の様子を、ムゲンは興味深そうに眺める。
    「随分仲が良いのですね……」
    「ソラの兄貴と俺が昔からの知り合いでな、ソラのことも昔から知っているし、バイト歴も長い」
    「なるほど」
    「そういえば、ソラのことをまだちゃんと紹介してなかったな」
    アメヒコがソラに目線で促すと、ソラは食器を置いてムゲンに向き直る。
    「自己紹介がまだでした。僕はアメヒコさんの店でアルバイトをしている北村ソラですー。よろしくお願いしますねー」
    「私は深見ムゲンです。よろしくお願いします」
    ムゲンも改めてソラにフルネームを名乗ると、それを聞いたアメヒコがぎょっとした。
    「ムゲン、いいのか?」
    「アメヒコが信頼しているようですから」
    深見ムゲンがここにいることは、人に知られれば知られるほど閃極に見つかるリスクが高まる。今のムゲンの姿だけで、深見ムゲンだと気づく人間はそういないだろうが、ビークロの世界では深見ムゲンの名前は広く知られている。今のムゲンが人に名前を知られることは、最も避けるべきことだろう。
    だが、アメヒコが信頼している人間であれば大丈夫だろうとムゲンは考えていた。そう思えるくらい、ムゲンはアメヒコのことを信頼するようになっていたのだ。
    「深見、ムゲンって……」
    ムゲンの名前を聞いたソラは、何か思い当たることがあるというように考え込む。
    「ソラ、ムゲンのことは絶対に他言無用だ。もちろん、お前さんの兄貴にもだ。守れるか?」
    「え?はい、それは大丈夫ですけどー」
    アメヒコの真剣な様子を見て、只事ではなさそうだ、とソラは察する。
    ソラがしっかりと頷いたのを見て、アメヒコはムゲンに続きを促した。
    「そうですね、閃極の深見ムゲン、と言ったら伝わるでしょうか」
    「閃極……じゃあ、あの、深見ムゲン……?」
    閃極、と言われて目の前のムゲンと記憶の中の名前が一致する。
    ソラは兄の影響もあって、ビークロの選手には詳しいが、業界の人間にそこまで精通しているわけではない。
    そんなソラでも深見ムゲンの名には聞き覚えがあった。
    「はい、事情があって閃極から逃げたところを、アメヒコに助けられたのです」
    「そうなんだー。閃極の人、ムゲンさんのこと探してるのー?」
    「……おそらく、は」
    ソラの問いにムゲンの表情が一気に曇る。
    ムゲンの様子を見て、アメヒコはソラとの会話を引き継いだ。
    「閃極にムゲンを見つけさせるわけにはいかない。ここに深見ムゲンがいることは知られちゃいけないってわけだ」
    「なるほど、それで他言無用ってわけだねー。わかりましたー」
    これ以上閃極の話が続くのはムゲンにとって良くないだろうと判断したアメヒコは、ソラが頷いたのを確認してから話題を変える。
    「ところで、この間の買取表だが、あれを追加したのはムゲンだ」
    「あ、やっぱりー。アメヒコさんが思いつくカードじゃないと思ってたんですよー」
    「お前な……」
    ソラはアメヒコが空気を変えようとしているのを察して、話題に乗っかってきた。
    ムゲンも買取表のことは気になっていたようで、少し表情に明るさが戻る。
    「では、やはりあの修正を行っていたソラというのは……」
    「僕ですよー。ムゲンさんの追加してくれたカード、僕には思いつかなかったし、面白かったですー」
    「貴方のカード知識も素晴らしかったです。特に草エレメントを利用したコンボの発想は思いつきませんでした」
    ソラとムゲンは新弾のカードを利用したコンボの話で盛り上がり始める。
    カードの話をするムゲンの表情は、いつになく明るい。
    それは閃極でのことがあっても、ビークロのことはまだ好きだという気持ちの現れだった。
    「お前さんは、そういう顔の方がいいな」
    楽しげに話すムゲンを見守りながらアメヒコは小さく呟く。
    「アメヒコさん、何か言いましたー?」
    「いや、何でもない。デザートにアイスでも食うかい?」
    アメヒコは盛り上がる二人を残し、キッチンへ向かった。
    二人の会話を遠く聞きながら、アメヒコは小さくため息をつく。
    「……まいったな」
    ムゲンのあの表情が、ビークロではなく自分に向けられたなら。
    そう考える自分がいることに、アメヒコは気づいてしまった。
    それはただの興味本位でも、情けの感情でもない。
    空虚だった自分の中に新たに芽生えた感情にアメヒコは一人戸惑っていた。



    【四 二人で眠る夜】

    夢を見ている。
    それは真っ暗な闇の中、何かに追われ続ける夢だった。
    逃げても逃げても追いかけてくる何かに、捕まってはならないという一心で、果てのない暗闇を走り続ける。
    自分がどこに向かえばいいのかもわからないまま。



    ハッとムゲンが目を覚ますと、時間はまだ深夜だった。
    悪夢を見ていたせいか、ひどく汗をかいていて、喉もカラカラに乾いている。
    夢見が悪くなってきていることに気づいたのは数日前。一面の暗闇から始まった夢は徐々に具体性を帯び始めて、日が経つにつれて、眠りがどんどん浅くなってきている。
    この家に来たばかりの頃のムゲンは傷だらけで、夢を見る余裕もないほど昏々と、深い眠りについていた。こうして夢を見るようになったのは、それだけ身体が回復してきたということだろう。

    悪夢を見るようになってからは夜を迎えるのが憂鬱だった。
    そこにあるのは、先の見えない不安と、未だに閃極に追われているであろうという恐怖。
    ムゲンはまだ、本当の意味で閃極から逃れられたわけではないのだ。
    「……だれか」
    この手が縋る先はない。
    ムゲンはずっと誰かを蹴落とし、自分の力で生きてきて、ついには全てをなくしてしまった。
    それでも、ほんとうは。
    ムゲンの小さな呟きは、誰にも届くことなく夜の暗闇の中に溶けて消えていった。



    水を飲もうと静かに部屋を出ると、常夜灯の明かりで仄かに明るいリビングから、微かな音が漏れていた。
    「消し忘れ、ですか……?」
    ついたままになっているテレビを見つけ向かうと、テレビの前のソファから長い足がはみ出しているのが視界に入り、ムゲンは少しだけ驚く。
    「アメヒコ?」
    ソファを覗き込むと、アメヒコが身体を少し丸めた状態でぐっすりと眠っていた。
    思えば、ムゲンはアメヒコが普段どこで眠っているのかを知らない。
    今ムゲンが借り受けている部屋は、アメヒコが元々寝室として使用していた部屋だと言っていた。
    居住スペースである二階には、ムゲンが使用している部屋以外に二部屋あるが、片方はショップの倉庫として使用している部屋で、もう片方はアメヒコの仕事部屋だ。掃除をするために仕事部屋に入ったことはあるが、デスクや本棚が置かれ、寝具を広げられるようなスペースはなかったと記憶している。
    居候を始めたばかりの頃はそこまで思考が及んでいなかったが、アメヒコはずっとソファで眠っていたのだろうか。
    家主を追いやってしまった申し訳なさと、何も言わずムゲンを休ませることを優先してくれたありがたさがない混ぜになる。
    「……ありがとうございます、アメヒコ」
    ムゲンはぽつりと呟く。
    アメヒコは優しい。
    見ず知らずのムゲンに、充分すぎるくらいのものを与えてくれる。
    それは生きるために必要な衣食住だけではない。
    知らなかった暖かさも、忘れていた楽しさも、ムゲンはここでたくさん得た。
    ムゲンが思わず、勘違いをしてしまいそうになるくらいに。

    思考を振り切るように、ムゲンは小さく首を振る。
    そのまま踵を返し、当初の目的だったキッチンへと向かった。



    キッチンから水を持ってきたムゲンは、ソファの足元に腰を下ろした。深夜番組の微かな音声を聞きながら、ソファで眠るアメヒコを間近に眺める。
    アメヒコの表情は穏やかで、その眠りは深い。
    眠っているアメヒコの表情が、いつもより幼く見えるのが可愛くて、ムゲンは少し笑みを浮かべる。
    「そういえば、アメヒコの眠った顔を見るのは初めてですね……」
    アメヒコはいつも、ムゲンよりも後に眠り、ムゲンよりも早く目を覚ましていた。何度かアメヒコに眠らないのか、と問いかけたことはあるが、まだ仕事が残っていると言われ、結局ムゲンが部屋に戻る方が早かったのだ。
    それが本当だったのか、ソファで眠る姿をムゲンに見せまいとしていたのかはわからない。
    「貴方は、どうしてそこまでしてくれるのですか……?」
    眠るアメヒコを間近で眺めていると、先程まで悪夢に囚われていた心が、少しずつ軽くなっていくような気がした。
    心が落ち着いてくると、自然と心地の良い眠気がやってくる。
    ソファに顔を伏せ、アメヒコの存在を間近に感じながら、ムゲンは静かに目を閉じた。



    翌朝、いつも通りの時間に目を覚ましたアメヒコは、腹の辺りにいつもとは違う感覚があることに気づいた。
    目線を送れば、ソファにうつ伏せでもたれかかるようにムゲンが眠っている。
    「……いつの間に」
    すうすうと小さく寝息をたてて眠るムゲンの表情は安らかだ。
    最近、寝起きのムゲンはどこか浮かない表情をしていることが多い。朝、部屋を出てきたムゲンが、アメヒコの姿を目に留めてやっと少し安心したような表情をすることに、アメヒコは気づいていた。
    そうして一日が過ぎて夜になると、ムゲンは少し口数が減る。
    そんなムゲンが気がかりで、アメヒコが時折夜中に部屋の様子を見に行くと、ムゲンはいつも険しい表情で眠りについていた。
    寝場所は悪いが、今日はよく眠れているのだろうか。
    アメヒコはさらりとムゲンの顔にかかる髪を避ける。
    いつの間にか寄り付いている様子は、やっぱりどこか猫のようにも思えた。
    「ムゲン、こんなところで寝ていると風邪ひくぜ?」
    声をかけてもムゲンが目を覚ます様子はない。
    仕方がない、とアメヒコは静かに起き上がり、眠るムゲンを起こさないよう優しく抱え上げた。
    部屋へ連れていき、布団に寝かせ直しても、ムゲンが目を覚ます気配はない。
    このまま眠るムゲンを見守っていたい気持ちはあるが、そろそろ朝食を用意しなければいけない時間だ。
    「ゆっくり眠りな」
    そっとムゲンの頭を撫でると、アメヒコは部屋を後にしてキッチンへと向かった。



    目を覚ましたムゲンと朝食を囲むいつも通りの朝。
    半分ほど食べ進めたところで、ムゲンは意を決したようにアメヒコを見た。
    「アメヒコ、今日からは私がソファで寝ますから、アメヒコが布団を使ってください」
    きっとムゲンはそう言い出すだろうと、アメヒコは予想していた。

    この家に布団は一組しかない。
    アメヒコは元々この家に誰かを泊めることになるなんて想定していなかったし、実際そんなタイミングが来ることもなかったのだ。
    ムゲンが居候になってから、もう一組購入することも考えはしたが、敷く場所や手間、もしこの先ムゲンがいなくなったとしたら、まで考えてやめた。
    ムゲンがここを去る、という仮定自体、考えたくなくなっている自分に、思わず苦笑してしまったのも記憶に新しい。
    以前からテレビを見ながらソファで眠ってしまうことはあったし、若干の窮屈さはあるが、眠れないほどではない。
    そうしてアメヒコはソファで眠る生活を続けていたのだ。
    「気にすることはない。そのまま布団で休んでくれ」
    味噌汁を啜りながら、アメヒコはムゲンの提案を却下する。
    ムゲンには、なるべくゆっくりできる環境で身体を休めてもらいたかった。
    だが、ムゲンもそのままおとなしく引き下がる男ではない。
    「家主を差し置いて、いつまでも私が布団を占有するわけにはいきません。身体もかなり回復しましたし、問題ありません」
    「完全回復ってわけでもないだろ?遠慮せずに今はしっかり休むといい」
    「アメヒコを追いやってしまっていることを知っては、そうはいきません……!」
    ムゲンを布団で休ませたいアメヒコと、アメヒコに布団を使わせたいムゲンの攻防が続く。
    アメヒコはそうこだわりの強い方でもない。普段であればとっくに折れていただろうが、ムゲンのことを考えると、今回は譲りたくないという思いが勝つ。
    「……アメヒコは意外と頑固なのですね」
    「それを言うならお前さんもだぜ?」
    アメヒコがもっとすんなり折れてくれると踏んでいたらしいムゲンは少し口を尖らせる。
    どうしたものかと考えを巡らせているムゲンを見て苦笑していると、ムゲンは何かに思い至ったかのように顔を上げた。
    「ならばカードで!……は、戦えないのでした」
    何事もビークロで決着をつける。それはウェイカーであれば当然の判断だったが、肝心のデッキがないことに気がついて、ムゲンは少し肩を落とす。
    ムゲンのデッキは閃極に囚われた際に奪われてしまったのだという。
    落胆するムゲンの様子を見て、ショップからムゲンが新たなデッキを組むためのカードを拝借してくるのも悪くない、とアメヒコは頭の片隅で考えた。
    正直に言えば、ショップにある構築済みのデッキを使えばバトルはできる。
    だが、相手はあの深見ムゲンだ。
    今回ばかりは確実に勝利を収めたいアメヒコは、それを伏せたままムゲンの次の一手を待った。
    ビークロで白黒つけるという切り札を失ったムゲンは、何とかアメヒコを頷かせるべく頭を捻っているが、交渉の場に出せるカードが少ないせいか難航しているようだ。
    膠着状態の中、朝食だけはすっかり空の状態になっていた。
    状況が変わったのは、アメヒコにのらりくらりとかわされ続け、徐々に思考が絡まり始めたムゲンの一言からだった。
    「ならば!アメヒコが布団で寝ないというのであれば、私も布団では寝ません。アメヒコが布団で寝るのなら、私もおとなしく布団で寝ます」
    半ばやけを起こしたようなムゲンの発言に、アメヒコは驚いたように目を見開く。
    「……お前さん、それ意味がわかってて言ってるかい?」
    アメヒコが布団を使うならムゲンも布団で眠る、ということは、一組しかない布団を二人で共有して眠ることになる。
    ムゲンはアメヒコが問いに数度瞬きをした後、自分の発言が意味するところに気づいたようだった。
    「……もちろんわかっています。アメヒコ、どちらにするか選んでください」
    言ったからには後には引けない、というように、覚悟を決めた表情でアメヒコを見てくるムゲンに、アメヒコはどうしたものかと思案する。
    背が高い分広々と使えるようにと購入した布団ではあるものの、成人男性二人で使用するには少しばかり窮屈だろう。
    アメヒコには、ムゲンと同じ布団で眠ることへの抵抗感はないし、ムゲンの隣で眠ることで、眠っているムゲンの様子の変化に気づきやすくなることはメリットではある。
    だが、アメヒコはムゲンに対する感情を自覚し始めたばかりだ。
    この状態で二人枕を並べるというのは、少しばかり己を試しすぎではないだろうか。
    考え抜いた末に、一度試してみれば、ムゲンが「男二人で窮屈に眠るのはやめよう」と言い出してくれるかもしれない、とアメヒコは結論付けた。
    「……わかった。お前さんが布団で寝るというなら、俺も布団で眠ろう」



    どうしてこんなことになってしまったのだろう。
    ムゲンは内心頭を抱えていた。
    ムゲンが借り受けているいつもの部屋。いつも通りの夜の静けさの中で、いつも以上に目が冴えてしまっているのは、いつもと違って、隣にアメヒコがいるからだ。
    「ムゲン、眠れないのかい?」
    「い、いえ、アメヒコこそ、眠らないのですか」
    売り言葉に買い言葉のような形で、アメヒコと二人同じ布団で眠りにつくことになってしまった。
    長身用だというセミダブルの布団は、足まですっぽりと収まる長さだが、成人男性が二人並ぶにはやや手狭な幅だ。
    身体が触れるほどの距離にアメヒコがいることに、ムゲンの心臓が早鐘を打っている。
    もし、友人同士で枕を並べたとしても、こんなに緊張するものなのだろうか。
    こうして誰かと並んで眠ったことのないムゲンにはわからない。
    この距離では心音がアメヒコにも聞こえてしまいそうで、ムゲンはなんとか落ち着こうとするが、なかなかうまく行かなかった。
    「俺ももう眠るさ」
    「アメヒコ、私が眠った後にソファに戻るのは駄目ですよ」
    「……お前さんには敵わないな」
    アメヒコは苦笑して、諦めたように目を閉じる。
    ムゲンもそれに倣ってぎゅっと目を引き結ぶが、暴れ続ける心音をよりはっきりと認識できるだけで、眠りには程遠い。

    少し経つと、小さな寝息が聞こえてきて、アメヒコが眠ってしまったことがわかった。
    目を開き、眠るアメヒコの様子をこっそり眺めながら、ムゲンはいつもより早い己の心音を聞く。
    こんな風に胸が高鳴るのは、ビークロに触れている時だけのはずだった。ビークロに触れている時間と同じように、アメヒコと共に過ごす時間も、楽しくて、鼓動が早くなる。
    アメヒコと過ごす時間には、時折少しだけ胸が締め付けられるような、切ないような感覚もあるけれど。
    「これも、すき、なのでしょうか」
    布団の中はアメヒコの体温があることでいつもよりも暖かい。
    もうすっかり慣れてしまった布団の香りは、アメヒコの匂いを纏っていたのだと、アメヒコと並んで眠ることで初めて気がつく。
    この匂いがあるところには、恐ろしいことも痛いことも起こらない。
    ここが今のムゲンにとって唯一の、安心できる場所だった。

    ムゲンは少しだけ、眠るアメヒコに身を寄せる。
    次第に心音が落ち着いてくると、代わりに眠気がやってきて、ムゲンは自然と眠りに落ちていく。
    その晩は、ムゲンが悪夢に魘されることはなかった。



    外から聞こえる小鳥の囀りで目を覚ますと、目の前にぐっすりと眠るムゲンがいた。
    アメヒコにぴたりとくっついて眠っているムゲンは、寝起きのアメヒコには少々刺激が強い。朝から酷使されてしまっている己の心臓を思えば、早めに布団から抜け出したいところだ。
    だが、アメヒコが慌ただしく動き出すことで、せっかく安らかな表情で眠れているムゲンを起こしてしまうのは忍びない。
    まだ時間には余裕がある。
    アメヒコは起き上がるのやめ、自由が利く右手で、眠るムゲンの頭をそっと撫でた。

    ムゲンがアメヒコのことを信頼してくれていることは、ムゲンの様子を見ていればわかる。
    アメヒコだってムゲンのことを助けてやりたいし、ムゲンを苦しめる存在から守りたいと思う。
    美味しそうに料理を食べる姿も、意外と素直に変わる表情も、このまま側で見ていたい、できればそれを自分が与えたい。
    自分に、それが許されるのかどうかは別として。
    だが、アメヒコの中に芽生えつつあるのは、慈しむ感情だけではない。ムゲンに触れたいという感情を、こうして眠るムゲンを撫でることで、昇華しようとしているくらいだ。
    アメヒコの中のこの感情が、いつかムゲンに牙を剥いて、閃極で傷ついたムゲンをさらに傷つけてしまうかもしれない。
    そうはなりたくないものだが、もしそうなってしまったら、アメヒコと閃極の何が違うと言えるだろう。
    それなのにムゲンはアメヒコを信頼し、こうして身を寄せて眠るのだ。
    「……お前さん、そんなに無防備じゃ、いつか俺にとって食われちまうかもしれないぜ?」
    それでもアメヒコはもう、ムゲンを手放したくないと考えてしまっているのだが。



    それから少し経って、ムゲンはゆっくりと目を覚ました。
    「ぅん……アメヒコ……?」
    「ムゲン、おはようさん」
    ぼんやりと目を開いたムゲンがアメヒコを目に留める。
    「おはよう、ございます……」
    まだ眠たげなムゲンは半覚醒の状態でぽつりと呟くように返した。
    生活を共にしてわかったことだが、ムゲンはどうやら朝にあまり強くないらしい。この様子では、自分がアメヒコに密着した状態であることにも気づいていないだろう。
    「まだ眠るかい?」
    「いえ……私も、起きます……」
    小さな欠伸を一つ。何度か目を瞬かせたムゲンは、もう一度アメヒコを見て、驚きの表情を浮かべた。
    「え、あ、アメヒコ?どうして⁉」
    「どうしてって、昨日お前さんが言ったんだぜ?」
    「あ、そ、そうでした、が……」
    動揺するムゲンの顔が赤いのを見て、アメヒコは小さく笑う。
    こんな風に迎える朝も悪くない。
    だが、それでもアメヒコはムゲンに聞かなければならないことがあった。
    「それで、どうだった?男二人で窮屈に寝るのはやっぱり気分の良いものじゃなかっただろう?」
    ムゲンがこのまま肯定してくれれば、これまで通りアメヒコはソファに戻ることができる。
    少し残念に思う自分と、少し安堵する自分が半分ずつ。
    だがそんなアメヒコの思惑をよそに、ムゲンはそんなことは考えてもいなかった、というような顔をする。
    「……いえ、久しぶりによく眠れました。アメヒコが側にいてくれたからでしょうか」
    「……俺がかい?」
    思ってもみなかったムゲンの発言に、アメヒコは目を丸くした。
    「はい。アメヒコの側で眠ると、安心するんです。夢を見ることもなくて」
    「夢?」
    「……ずっと、暗闇で何かに追われている夢を、見るんです」
    ムゲンの表情が曇る。
    何かとはおそらく、閃極なのだろう。
    閃極の恐怖から抜け出せずにいるムゲンを、どうしたら安心させることができるだろうかとアメヒコは思案する。
    アメヒコの胸元に添えられていたムゲンの手が、アメヒコの服をきゅっと掴んだ。 
    「あの、もし、アメヒコが嫌でなければ……このままでは、駄目でしょうか」
    最後の方はほとんど聞こえないくらい小さな声だった。
    服を掴む手が、微かに震えている。
    これまでムゲンがアメヒコに何かをしてほしいと望むことはほとんどなかった。そんなムゲンが口に出した願いが「一緒に眠ってほしい」であることを、アメヒコは嬉しいと感じる。
    もちろん、アメヒコの答えは決まっていた。
    「お前さんが望むなら、そうしよう」
    「いいの、ですか」
    「ああ、それでお前さんが眠れるなら、お安い御用だ」
    ムゲンの願いを叶えるためなら、自分の中の感情くらい飼い慣らしてみせよう。
    ムゲンの表情を自分が曇らせてしまうような真似はしたくないのだから。
    アメヒコは己の感情を静かに押し隠し、ムゲンに笑いかけた。
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    「あ、あめひこ♡ もっと、触ってください♡♡」
     ホテルのベッドに背を預けながら告げられる、早々に恥じらいよりも欲がまさった素直なおねだりは、重ねてきた情事で躾けた仕草を思わせてどこか優越感をくすぐる。
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     アイドルとしてのレジェンダーズに求められているのは、年長ふたりのミステリアスな大人の余裕、年少のメンバーの小生意気な言動。
     ファンには熱を込めたライブパフォーマンスや、口を開けばもれなく海のこと、という「意外な」気さくさが伝わっているのかとは思うが、おそらく今回のグラビアでもこの男に冠される言葉は『気品ある美貌』『元助教の知性を帯びた笑み』『ここではない水平線を挑発的に見る目』だとか、なんとか。
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