メロウに沈んで。 (マサ音)「……っ、」
眉間に皺を寄せながら小さな呻きが口から溢れる。
飲み干した茶を淹れ直そうと徐ろに立ち上がった際に、ずきりと鈍い痛みが脳天へ駆け上がるように走った。気圧の所為だろうか、それとも日頃の疲れが溜まっていたのだろうか。今日は朝起きた時からずっと頭が重い。
「マサ、大丈夫?」
軽くこめかみに指を添えつつ頭に負荷が掛からぬようにゆっくりと立ち上がれば、向かいに座り雑誌を眺めていた一十木が心配そうな面持ちで声を掛けてくれる。その声に「問題ない」と努めて平静に返して微笑んでみたものの、うまく笑えていたかはわからない。湯呑みを手にふらりと歩み出すと、いつの間にか立ち上がっていた彼に身体を支えられていた。
「頭、痛いんでしょ?」
「……いや、大丈夫だ」
「全然大丈夫に見えないよ。今だって、ほら……眉間にシワがよってる」
そう言って顔を寄せてくる一十木の眉根にも、心配そうに下がった眉が小さな皺を作っている。お揃いだな、と頭の片隅で呑気なことを思い浮かべるとツキン、ツキンと小さな痛みが絶え間なく主張してきた。
「今日はもう休もう?」
少し躊躇いがちに告げる彼の言葉に、微かに首を横に振る。
今日は漸くオフが二人とも重なっていたため、共に過ごそうと約束していた日だ。外出する訳ではなかったが、たかだか頭痛程度でその予定を潰したくはない。
「薬を飲めば平気だ」
「だーめ。マサ、気づいてないの? ここ最近ずっと疲れた顔してたんだよ」
だから今日はもうお布団で寝んね!と手に持っていた湯呑みを取り上げられ、それを静かにテーブルに置くと一十木に誘導されるがまま寝室へと押し込められた。
「えーっと、薬を飲むには何か食べて、飲み物と……あ、熱冷ましシートあった。はい、これ貼っとこうね。マサ」
「うむ」
強制的にベッドに寝かされ、棚を漁る彼を布団に横たわりながら眺める。額には今し方一十木が発掘してきた熱冷まし用の冷却シートが貼られており、熱がある訳でもないのにどことなく心地良い。
「お粥とかならすぐ食べられそう?」
「ああ。では作るとするか」
「あ、起きちゃダメだよ。俺が作るから、マサはちゃんといい子で待ってて」
身体を起こそうとした俺を制し、一つ頭を優しく撫でてから彼は寝室を出ていった。まあ、カレーならば如何様な種類でも一人で作れる男だ。お粥程度ならば任せても問題あるまい。
そう思い直して暫し寝入ろうとしたその矢先、「わぁぁっ」という一十木の悲鳴とともに物が落ちる音がする。きっと何かを雪崩れさせたのだろう。しかし今布団から出て様子を見に行けばまた強制的に戻されるのが目に見えている。そう思い、起き上がりそうになった身体の動きを止めて布団に篭ってはいるものの……時折様々な音がする辺り、どうやら先程の張り切りが空回りし始めているらしい。怪我などしなければ良いのだが。
『ぅわっ』
『あれ、これどうすんの?』
『あっつ!』
「………………っ、」
駄目だ、ちょいちょいと聞こえる小さな悲鳴が気になって仕方がない。頭に響かないように極めてゆっくりと身体を起こし、気休め程度にブランケットを肩に羽織ってから台所へと向かう。
こっそりと覗き見ると特に荒れた様子はなさそうだが、最後の声はきっと火傷か何かをしているに違いない。そう思うと居ても立っても居られなくて、思わず声を掛けていた。
「一十木」
「っ⁉︎ ま、マサ……?」
寝室で横たわっているはずの俺が居たことに心底驚いたようで、大きく肩を竦めながら振り返る一十木の姿に少し申し訳なさが込み上げる。
「ごめん、もしかして俺うるさかった?」
「いや、そのようなことはないが……少々、心配でな」
何かを煮ている彼の隣に立ち、そっと片手ずつ彼の手を取ってはギターのコードを押さえ弾くのに硬くなった指先を己の親指の腹でなぞるように撫でる。特にこれといった外傷は見当たらないことにほっと胸を撫で下ろしつつ、なんとなくきゅっと握ってみたり指を絡ませて弄んでいると隣からそわそわとした気配を感じた。
「えっと、マサ?」
名を呼ばれ、ゆっくりと彼へと視線を移せば、空いている手の指で軽く頬を掻きながら頬を淡く染めている。その姿にハッと我にかえり、いつの間にか寄せていた身を引きながら弄んでいた手をそっと離し、代わりに纏っていたブランケットをきゅっと引き寄せた。
「あ、ああ、すまん。火傷をしているのではと思って」
「やけど? あ、もしかしてさっきの?」
「うむ」
「あれはお鍋の蓋が思ったより熱くてびっくりしちゃってさ。驚かせちゃってごめん」
心配してくれてありがとう、という言葉と共にふと赤い影が揺らめき、頬に触れた柔い感触に一十木の唇が触れたのだと気付くと、途端にこちらも頬に熱が集まるのを感じる。それを見て一十木はしてやったりと言わんばかりの笑みを浮かべ「もうすぐできるから座って待ってて」と再び俺の頬へ唇を落とし囁くものだから、不意に高鳴る鼓動を悟られぬように短く返事をして足早にリビングへと避難した。普段は元気で愛らしいというのに、ふと先程のような仕草や表情をするものだから、こういうところがアイドルたる所以というか、ファンが魅了される部分なのだろうと思う。
そのようなことを考えつつ、いつも二人で食事をする際に使用しているダイニングテーブルの席に着席してから数分。目を閉じ、俯いて羽織っているブランケットに包まりながら手持ち無沙汰で待っていると、仄かにあたたかな食卓の香りが鼻を掠める。それにつられるように瞼を開けて台所の方へと視線を向ければ、小さな手鍋と椀を持った一十木がこちらへと近付いてくるのが見えた。
「お味噌汁があったからおじや風にしてみたんだ。熱いから気をつけてね」
「ああ、ありがとう」
テーブルに鍋敷きを置き、その上に手鍋を乗せて蓋を開けると、ほわん、と緩やかに湯気がのぼり周囲に味噌の良い香りが漂い始める。昨晩はなめこと豆腐の味噌汁にしたこともあり、湯気の合間に見えるおじやはとろみを帯びながら光を反射していた。
お椀へとよそわれ、ほくほくと艶めくおじやをレンゲで掬い、息を吹き掛けて程良い温度まで冷ましてから口に含む。柔らかなお米の風味と共に味噌汁よりも少し濃い味噌の味が口内に広がり、思わず頬が弛んだ。
「……美味い」
「へへっ、よかった! あ、お薬と白湯はこれね」
嬉しそうに微笑みながら手際よく用意してくれる姿に、痛みも忘れてつい顔が綻んでしまうのが自分でも分かる。
一十木は普段、活発で大胆な部分ばかりが印象に強く残る所為もあってか大雑把に見られがちだが、所々で周囲を見ては細やかに気遣ってくれる。今だってこうして俺の足りぬ部分を補って動いてくれている。本当、頼りになる男だ。
「ありがとう。……今日は一十木に頼ってばかりだな」
「いつもは俺がマサに甘えてばっかだもんね。たまにはいいでしょ?」
へへっ、と得意げに微笑む笑顔が眩しくて、思わず瞳を細める。そんな俺を他所に「あ、そうだ!」と何か閃いたらしく意気揚々と満面の笑みを浮かべながら片手を差し出して、一言。
「マサ、レンゲ貸して~食べさせてあげる!」
「⁉︎ い、いや、大丈夫だ」
「えーいいじゃん。こういう時じゃなきゃマサのこと甘やかせないもん、たまには俺を頼って? ね?」
お、ね、が、い、と甘えた声音と上目遣いに思わずレンゲを明け渡してしまいそうになったが、既でのところで思い留まりレンゲを死守する。それに対して一十木から不満の声が上がったが、折角愛しい人が自分のために作ってくれたのだから味わってゆっくりと食べたい旨を伝えれば、納得してくれたようで途端に顔を赤らめながら頷いていた。
「ねぇ、マサ。何か欲しいものとか、して欲しいこととかある?」
一通り食べ終わり薬を白湯と共にゆっくりと服用している傍ら、流しで洗い物をしている一十木が声を掛けてくれる。その内容に小さく首を捻り、考え込んで数分。
「一つ、我儘を言っても良いだろうか」
「うん、なあに?」
「その、隣に……横になった時に隣で抱き締めてはくれないか。寝付くまででいい、から……お前の心音を聴いていたい」
思い付いた内容に我ながら気恥ずかしさが募り、視線を僅かに逸らしつつもぽつりと溢す。すると一十木は一瞬きょとんとした顔をするも、花のような笑みを浮かべ二つ返事に「いいよ!」と元気な返答が返してくれた。その答えに安堵して残りの白湯を飲み干して湯呑みを流しに置くために立ち上がれば、いつの間にか洗い物を終えた一十木が隣に立っていて、湯呑みはそのまま一十木の手に渡り、流しへと置かれた。それから彼に支えられ誘導されるがまま再びベッドに横たわり、隣に寝転んだ一十木が伸ばしてきた腕の中へ大人しく収まれば、彼の爽やかな香りが鼻腔を擽る。
「ちょ、マサ! くすぐったいよ~、もぉ~」
優しく髪を梳き撫でられる度に緩々とした眠気の波が押し寄せ、うつらうつらと瞼が重くなっていく。それを払うように胸元へ額を擦り付ければ一十木はクスクスと小さな笑い声を溢しながら俺の頭部に顔を埋め、変わらずゆったりと頭を撫で続けていた。
脳天に彼の吐息を感じつつも先程の摩擦で剥がれかけになった冷却シートを剥がし、手探りで布団の端に置けば一十木が屑籠に上手に投げ捨てる音がする。空気にさらされたことで少しひんやりとする額を一十木の胸元に再び押し付け、直に伝わる彼の体温に目を閉じれば、己の耳に響くどくどくと脈打つ圧迫感とは別に、あたたかな温もりと共に「とくん、とくん」と優しいリズムの鼓動が全身を包んでいく。
『 ──、──────── 』
嗚呼、一十木が何かを言っている。
しかし、眠気で薄れていく意識に彼がなんと言っているのかわからない。ただただ穏やかな音が遠くに響いて、不意に額へ舞い降りた柔い感触を最後に、俺は意識を手放した。
◇ ◇ ◇
腕の中から小さな寝息が聞こえる。
「ワガママ」と称しての頼まれごととして彼の頭を自身の胸元に優しく抱きかかえていたが、薬もほどよく効いてきたみたいだ。ずっと眉間に刻まれていたシワは形もなく、穏やかな表情がそこにはあった。
「(よかった……)」
最近はレギュラーのテレビやラジオの番組に加え、舞台稽古、その舞台に関する取材とマサは休む間もなく日を追うごとに忙しなく動き回っていた。舞台が始まればマサに会える時間がほぼなくなってしまうから寂しくないというと嘘になってしまうけど、それでも今こうしてゆっくり身体を休める時間ができて本当によかったと思う。
「ねぇマサ、いつだってこうして甘えてくれていいんだからね」
まだまだ駆け出しの俺たちだから、無理をしていかなければならないシーンが多いのは分かってるけど。そっと額に唇を落とし、ぽつねんとした空気の中呟いた言葉は燻る煙のように静かに消えて。
洗った食器の片付けしなきゃな〜と思いつつ、あたたかな温もりと微かに聞こえる彼の呼吸に耳を澄ませながら俺もゆったりと眠りに落ちた。