(未完成)俺には想い人がいる。
その人は至極物静かでこの国の人間にしては珍しく堅物な性格をしている。されど清廉な空気を身に纏い、それでいてどこかあたたかな雰囲気も持っていて。一言で表現するなれば玻璃細工のような「美しい人」。
硝子張りの少し古びた小さなバールのカウンター内でただ一人静かに佇み、注文を受ければその背後に設置された旧式と思われる機械を操作して芳醇に甘く香る一杯のあたたかいエスプレッソを淹れてくれる。普通の珈琲とは違い、デミタスと呼ばれる小さなカップにたっぷりの砂糖を入れよくかき混ぜたそれはチョコレートのような風味ととろりとした飲み口が特徴的で、本国ではお目に掛かれない不思議な味だ。だが、イヤな甘さは欠片もなく、彼のあたたかな人格を表したような味わいに「美味しい」と一言告げれば、フッと小さく満足そうに口元が上がるのがどこか愛らしい。
「はぁ〜、今日もおいしかった! エスプレッソはマスターの淹れたやつしかもう飲めないかも」
空のカップをソーサーに戻し底の方に微かに残った砂糖をスプーンで掬い口に含めば、ほろ甘さの余韻が口内に広がる。別段甘い物が好きな訳ではないがこの甘さは特別で、割と癖になっていた。
「オトヤはこの国の人間ではないのに随分と口が達者なのだな」
「本当のこと言っただけだよ。あ、ねぇ。今日もあれ、いいかな?」
勘定をテーブルに置きつつカウンター隣にあるショーケースを指差せば、彼はトングを手に持ちケース後ろの扉を開ける。
「どちらが好みだと言っていたのだ?」
「んー、サクサクした方」
「リッチャだな」
そう言うと貝殻のような形をした、幾重にも層が重なっているパイ生地の焼き菓子を幾つか袋に詰めて、持ち帰り用のエスプレッソ・ルンゴと共に手提げで渡してくれた。
「あれ、一個多い」
「いつも贔屓にしてもらっているからな」
他の者には内緒だぞ、と言うように口元に人差し指を置く彼に「じゃあ、もっと贔屓にしちゃお」と調子良く答えれば、優しい微笑みが小さく返ってくる。その綺麗な表情に思わずドキッと胸が高鳴った。
「……ああ、そうだ。次回来る時は新作の味見をしてもらえないか?」
「新作? 俺なんかが食べていいの?」
「無論。作るのはお前が教えてくれた桃饅頭とやらだ。本場の人間の意見ほど参考になるものはなかろう」
バールに通うようになってから暫く経った頃に本国のお菓子について聞かれたことは何度かあったが、まさか本当に作ってくれる日が来ようとは。マスターのお菓子作りの腕は確かだし、きっと見た目も中身も完璧な品が出てくるんだろうな。
「へへっ。じゃあ、楽しみにしてるから! またね、マスター!」
「うむ。またのお越しをお待ちしております」
カラン、とドアに取り付けられた小さな鐘が鳴る。硝子越しにこちらを見送る彼に手を振ってから、空を見上げて足早に店を後にする。
成らず者ばかりが蔓延るこの町で地に足をつける為、そして名を売る為に少し派手なことをして。それゆえに知れたこの顔の所為で彼に迷惑をかける訳にはいかない。
「次で最後だな……」
あの日と同じ今にも泣き出しそうな空にぽつりと呟いた声は溶け、代わりに胸の奥底で軋む音が響いた気がした。
◇ ◇ ◇
幾つかの通りを抜けて、一つの建物へと足を踏み込む。通路を進むにつれて彼好みの爽やかな甘さを含んだ空気が鼻を擽り、とある部屋の扉を開けばその香りは色濃く周囲に広がった。
「……杜夜。またその香りですか」
さらりとした黒髪をクッションに埋め、長い脚を見せ付けるように組んで「全く、」と呆れた声を上げるのは俺の主人であり兄弟の契りを交わした『赤彪会』の跡取り息子、季夜だ。
「私を放っておいて、いつもの店でまた油を売ってきたのです?」
「いつもの店だけどちゃんと調査の為に行ってるっての。ほら、手土産にお気に入りのスフォリアテッラ買ってきたんだから、そう拗ねるなよ」
いつもの店──あのマスターが経営する店のエスプレッソと、彼が手作りしている茶請けの甘い菓子。スフォリアテッラという郷土菓子で生地の食感で呼び名が違うらしい。今日のはサクサクとしたパイ生地の食感が楽しい、リッチャと呼ばれているものだ。
この間はフロッラと呼ばれる方のしっとりとした食感のスフォリアテッラを買ってきたが、季夜の口にはあまり合わなかったらしく「前のサクサクの方が良い」と駄々を捏ねていたので態々選んできたというのに、この男は。