7月新刊進捗ひと月に一度、カレンダーをめくると、きちんと時間が過ぎていっているのを実感する。遅いとか早いとか、あまり気にしたことはなかったが、あるときを境目に時の流れの速さに楽しさを見出すようになった。愛之介様とスノーこと、馳河ランガが、あの満月の夜ともにスケートボードを滑ったときから。
あるとき、愛之介様は「毎日が目まぐるしいよ」と椅子の背もたれに身を預けながら言った。私はちょうど、愛之介様の自室でSにて行うトーナメントについての作業をしていた。いつもであるのなら自室でする業務であったが、愛之介様がここにいろとおっしゃったので、言葉に甘えて愛之介様の自室のソファとテーブルを借りたのだった。
「お休みになられますか?」
「いいや。まだ作業をするんだろう? 付き合うさ」
私は、目まぐるしい、を忙しいと判断した。しかし、愛之介様はこともなげに言い放つと、楽しそうにスマートフォンを掲げながら口元を緩ませた。楽し気に紡がれたメロディが部屋に伸びていく。
「今度のトーナメントでは、なにかもっと面白い催しをしたいな。なにかないか、忠」
「そうですね。コースに手を加えたりするのも良いですが、対戦を投票で決めて行うというのはいかがですか?」
「それは、たとえば観客たちが僕とお前の対戦を望めば、忠は僕とビーフをするということだな」
「ええ、そうです。でも、愛之介様が望まれるのなら、私はいつだってビーフを喜んでお受けいたします」
軽やかなメロディが止まり、私はキーボードを叩いていた手を止め、顔を上げた。
「愛之介様?」
呼びかけると、スマートフォンを下げ、なにか大事なものを見定めるかのように愛之介様は目を細めた。
「……お前は、僕と滑りたくないと思っていた」
驚いたような口ぶりだったが、その言葉に一番驚いたのは私だった。
「ありえません、そんなこと。私は、愛之介様の滑っている姿が好きなのです。一緒に滑るということは、それを間近で堪能できるとても贅沢なことです」
「贅沢ねえ。そのわりには、一緒に滑りたいとは言わないじゃないか」
「私なんかのために、愛之介様の貴重な時間を使っていただくわけにはいきませんから」
「……なるほど」
スマートフォンをデスクに置き、組んでいた足をほどいて愛之介様は立ちあがった。いつでも崩れることのない堂々とした佇まいで歩み寄り、私の正面に立つ。自然と視線は上にあがり赤い瞳と交わると、そこからはもう動かせない。目を離すなと、その瞳が教えてくれているからだ。
「どうかされましたか?」
私の問いかけに答えは返ってこなかった。当然のように伸ばされた腕が私の背後に回り、指先が首筋をなぞった。明確な意思があるような動きではなく、なぞってはときおり指先で薄い皮膚をつまむ。チリッとした痛みはいつも昔のことを思い出させた。
「もうすぐ誕生日なんだ」
「ええ。存じております」
答えると、愛之介様の眉がぴくっと動いた。本当か、疑わしいな。そう言った声は首筋に触れる指先よりも優しく甘かった。
しばらく堪能していると、ゆっくりと言葉が紡がれた。
「ほしいものが、実はあるんだ」
「ほしいもの、ですか?」
「ああ」
めずらしいこと、なのかもしれない。愛之介様はよくいろいろなことを計画し、実行に移す。そのために必要なものや手に入れなくてはならないものはたくさんあり日々それらのために邁進しているが、誕生日になにかを所望されることは愛之介様が高校生のとき以来だった。
首筋から広がっていく気持ちよさでうっとりと揺らぎ始めていた頭を軽く振り、姿勢を正す。必ず、ご希望のものをお渡ししたい。そう思った。
「言っていただければご準備いたします」
愛之介様が目を細めた。薄く開いた口元から白い歯がみえて、ぞわっとした感覚が指先からもたらされたような気がした。ひた隠しするように口を開いた。
「どうぞお任せください」
「もちろん、忠に任せるつもりでいる。なにせ、忠。お前しか僕のほしいものを準備できないからな」
「……それは、どういうことでしょうか。私が持っているものなのですか?」
「そうだな……持っている、とは違うのかもしれないな。ただ、これから持ち合わせてほしいと、僕が思っているだけだ」
ますます意味が分からない。指先が爪をたて、皮膚に押し込まれヒリヒリと痛んだ。数分もしないうちに赤くなるかもしれない。遠い昔のように。
「それを、お渡ししたらいいのですか?」
「ああ。お前にできるのならな」
私はしっかりとその言葉を受け止め、頷いた。
「完璧なものがほしいんだ。中途半端ならむしろいらない」
「完璧……」
それがどういったものであるかを忘れないよう、呟いた。
「愛之介様のほしいものを、教えていただけますか?」
大きな口元が、今にもすべてを食いちぎってしまいそうなほど歪にほほ笑む。けれど、交わる瞳の色はどこか子どものように揺らめいてみえた。顔が近づき、首元を湿った呼吸が撫でていく。
「忠。僕は、お前の望むものが聞きたい」
愛之介様に触れられるたびに、昔のことを思い出す。
それは十年ほど前の話で、私が大学に通いながら愛一郎様の事務所にてアルバイトとして雑務をするようになったころのことだ。愛之介様は高校二年生で、生徒会長をしていた。あまり気乗りはしないんだけど、と笑っていた愛之介様に、私はこう言ったのを覚えている。いつか、あなたの活躍をもっと近くでみていたい、と。
幼いころのように、夜、屋敷のプールでスケートボードに乗ることは少なくなっていたが、そのかわり愛之介様はときおり演説の練習をみてほしいと言っては事務所に顔を出していた。私の主な仕事は事務所にある膨大な資料のファイリングで、愛之介様はそこにやってきては生徒集会や、学園祭や体育祭といった学校行事に関するさまざまな挨拶を聞かせてくれた。
「忠、この文章はどう思う?」
「どこですか」
「ここだよ、ここ。私たちは自主性を重んじ~ってところ。ちょっと硬すぎないか? 先生には受けがいいだろうけど、肝心の生徒たちの気持ちは無視しているみたいに思える」
「そうですね。では、この言葉のあと、具体的に生徒たちの活動について入れてみるのはいかがですか」
「いいな。たしか、実際の活動記録の資料があったはずだから、まとめてみよう」
たまに迷っては考え込み、私に意見をたずねる。私はそのたびに愛之介様と向き合い、二人で声に出して挨拶を言い合いながら、愛之介様のお手伝いをした。愛之介様の作った文章はまじめさと、誠実さ、そして人好きするウィットさにとんでいて人の心をつかむには十分だった。ほとんど手直しするところなんてなかったが、私たちはああでもない、こうでもないとよく言っては顔を突き合わせていた。そして、文章を推古し、読み合わせたあと、完璧だなと笑う。そのたびに、私は愛之介様のお役に立ちたいと思いを強くするのだった。
愛之介様が訪ねてきて、私は驚きながらも迎え入れる。夜に屋敷を抜け出して、友人たちとスケートで街を滑っていることは知っていた。とくに気の合う二人の話を、何度も聞いた。なんともないふりをしていたが、愛之介様にとってとても特別な人なのだとすぐに分かった。それがうれしくもあり、寂しくもあった。
そんな日々がしばらく続いた。
愛之介様は変わらず夜に抜け出し、時間を見つけては会いにきてくださっていた。本来ならば愛之介様の父である、愛一郎様が動向を気にされていると進言しなければならなかった。そしてここに来ることも控えるように、と。言えずにずるずると先延ばしをしてしまったのは、私が愛之介様にお会いしたかったからにほかならず、愛之介様が言うのだから問題があるはずがないと甘えていたのだと思う。