ダイ君とアルキードのワイン(左右不定コンビ) おれにとって、アルキードという国は、特別に何かを思い起こさせるものじゃなかった。
そんな名前の国があるなんて、旅に出てあの人と出会うまで知らなかったし、それがおれを生んでくれた母さんの生まれ育った国で、そしてあの人がこの世界から消してしまった国なんだってことも、つい最近知ったんだ。
母親、という存在を恋しいと思ったことも、実はあんまりない。そりゃ、うんとうんと小さい頃のことはもう覚えてないけど。おれがおれの記憶を掘り返して思い出せるくらいの歳まで遡る限りでは、母さんがいないことに疑問を覚えることはあっても、寂しいと思ったことはあんまりなかった。
だっておれにはじいちゃんがいてくれたし、島のみんなやゴメちゃんだっていてくれたから。おれはそれで十分に満たされていて、何かを不足していると感じたこともなかった。
母親という存在を改めて考えさせられたきっかけは、ロモスの宿屋の食堂で晩ご飯を食べてた時に周囲の宿泊客が言った『おふくろの味』っていう言葉だった。テーブルを囲んだ旅人風のおじさんたちが、宿の手料理を食べながら懐かしい味だと語り合っていたんだ。
「ポップ、おふくろの味って何? どんな味なのさ」
「へっ? いや、おふくろの味ってぇのは何か特定の味をさしてるんじゃなくてよ……」
「おふくろ、ってお母さんのことだよね? じゃあ人間ってお母さんを食べちゃうのかい?!」
思わず目の前のスープ皿に浮かぶ肉を凝視してしまう。これ何の肉だろう……。
そういう習性をもってるモンスターは島にはいなかったけど、虫とか魚とか、そういうことする種がいるってのは知ってる。まさかおれが知らないだけで人間もそうだっていうのかな?
「ばっか! そんなことするわけねぇだろ!」
呆れたようにポップが顔を顰めた。だよね、いくらなんでも突拍子もない疑問だった。ポップが苦虫を噛み潰したみたいな顔しても当然だよね。
そんなポップを嗜めるようにマァムはひと睨みすると、おれと向き合ってくすりと笑った。
「ふふふ……ダイ、小さい頃から食べている慣れ親しんだ味や料理のことを、おふくろの味って言うのよ」
「小さい頃から……じゃあおれのおふくろの味ってじいちゃんが作ってくれたご飯のことなんだ?」
「そうよ」
「よかったー! おれ、誰かのお母さんを食べちゃったのかと思った」
「どういう思考回路でそうなるんだよ……」
またマァムに睨まれてポップは慌てて誤魔化すようにスープをかき込んだ。スプーンの上に乗った肉もポップの口の中に入っていく。
それを見て、おれも安心してスープの中の肉をスプーンですくった。美味しいけれど、おれにとってのおふくろの味じゃないなって思いながら。
次に『おふくろの味』を食べたのは、おれが使える剣を探してランカークスの村に行った時だった。ちょうどお昼時だったから、ロン・ベルクさんの家に行く前にお昼ご飯をいただいたんだ。
ポップのお母さんであるスティーヌさんの作ってくれた食事はとても美味しかった。ポップなんか久しぶりすぎて、ちょっと目尻に涙を浮かべながら食べてたよ。なるほど、これがポップにとっての『おふくろの味』なんだ。
それでなんとなくおれも『おふくろの味』の本当の意味がわかったような気がした。だから少しだけポップが羨ましいとも思ってしまった。
おれにとっての『おふくろの味』はじいちゃんの作ってくれたご飯だ。どれも素朴な味わいで美味しい。大好きだ。
でもちょっと考えてしまったんだ。記憶に残ってさえいないおれの母さんは、どんな料理を作ったんだろうか。それはいったいどんな味だったんだろうか。
ソアラという女性はもう亡い人だ。おれが母さんの料理を食べてみたいと願っても叶わないことなんだって今更理解して、それをとても————寂しいと思ってしまった。
「いいか、ダイ」
パプニカに戻り、おれのためにとレオナが用意してくれた部屋に入ってふたりっきりになった途端、ポップが声のトーンを落として真剣な表情になった。
おれは驚いてポップを見上げた。戦いに関連する場以外でこんな真面目な顔したポップは滅多に見れないから。
「そのワイン」
ポップに言われて、おれは自分が手にしているワインの瓶に目を落とす。何処にでもあるような見知った形と濃い茶色の瓶は、特に仕掛けでもなければ中にはお酒が入っている。
ベンガーナの街で食事処兼酒場を営んでいたおじいさんを荒くれ者から助けた際、お礼にと貰ったものだ。
えっと、違う。正しくは、ポップがおじいさんに、おれにどうしても飲ませてやりたいんだって懇願して譲って貰ったワインだ。
ポップは何故か泣きそうな顔をしておじいさんにお礼を言って、譲って貰ったワインをおれに手渡してきた。おれにこのワインを飲ませたい理由をポップは最後まであの場では説明してくれなかった。結局どうしていいかわからないまま、おれがワインを持ち帰ってきてしまったんだけど。
王女の一雫。
それがおれが今、手にしているワインの名前だ。
「アルキード産のワインだって言ってたね」
「それだけじゃない。王女が自ら摘んで、その手で潰して作ったワインだ」
「……それは聞いたけど…………」
「そのワインは作られて二十年は経ってない。アルキードがしょうめ……えっと…、そのだ、おまえが生まれて十二年だろ? つまりそのワインを作った王女ってのは、おそらくソアラ姫だよ」
「………え?」
ポップの言葉におれは思わず手にしていたワインを凝視した。このワインを、おれの母さんが?
「ソアラ姫が今のおまえよりもちっちぇえ頃に作ったやつだろうけどな。それでもおまえの母さんのお手製ワインには違いねぇ」
おれの母親がアルキードの王女だったことは、あの時、あの人と対峙した時に、テランにいた人しか知らないらしい。おれ自身も戦いの後にヒュンケルから説明を受けただけで、ほとんど実感はなかった。だからかな? あの時ポップと違っていまいちピンとこなかったんだ。
このことはいずれ機を見て話すべき人には話すってレオナは言ってた。ポップがその場でおれに理由を説明しなかったのは、そのせいだったんだろうな。
「母さんが…作った……ワイン………」
おれよりも小さな頃、まだ子どもだった母さんが、その手で摘んだ葡萄。きっと今のおれよりもずっと小さな手が、一生懸命に潰したんだろう葡萄で作ったワイン。
あれ、どうしたんだろう。なんだか急に視界が歪んできちゃった。鼻の奥がつーんと痛んで、目頭が熱くなってくる。
「おれさ、おまえにどうしても、おまえの母さんが作ったこのワインを飲んで欲しかったんだ。手料理ってのはもう叶わないけどさ、せめて……って」
「ポップ…………」
ぽろりと頬を涙が溢れていった。いつの間にか自分でも知らないうちに、おれは泣いていたらしい。なんでおれ泣いてるんだろう。泣き止まなきゃって思うのに、次から次へと涙は溢れてくる。
ポップの手が伸びてきて、おれの頬を伝う涙を親指の腹で拭ってくれた。荒っぽい動きなのに、おれを見つめるポップの目は本当に優しくて、凪いだ海みたいにおれの心を包み込んでくれる。
「……母さんのワイン………本当にありがとう、ポップ!」
おれはポップの背に空いた腕を回して、受け止めてくれたポップの胸に顔を埋めて声もなく鳴いた。
ぽんぽんとポップが背中をさすって撫でてくれる。そんな些細な行為がとても温かくて、昂っていた感情が徐々に落ち着いてくるのがわかった。
「へへっ……なんだか照れ臭くなってきちゃった」
ゆっくりとおれはポップの胸から顔を上げた。ポップが揶揄うようにわしゃわしゃと髪を掻き回してきたので、慌てて身体を離す。それから軽く手の甲で目尻を拭うと、持っていたワインをテーブルに置いた。
「じゃあ、さっそく母さんのワインを飲んで……」
「スト〜〜〜〜ップ! はい、駄目、おまえ未成年!」
「ええーーーーっ?!」
ワインの栓へと手をかけたおれの手を制して、ポップはひょいとワインを取り上げた。ここまで気持ちを盛り上げておいて、そりゃないんじゃないの、ポップ。
「ワインを譲ってもらう時に約束したからな。おまえが成人するまでとっておきます……ってさ」
確かにそんな事を言ってた気がする。その時おれはこのワインの意味を知らなかったから、飲むつもりなんてちっともなかったんだ。
「ねぇ、ちょっとだけ。駄目?」
「駄目だ。おまえに酒を飲ませたなんて知られたら、おれ姫さんやマァムに殺されちまう」
「殺され……大袈裟だなぁ……」
「いーや! よくて半殺しだね」
「せっかくポップと一緒に飲めると思ったのに」
ランカークスでスティーヌさんが作ってくれたご飯をポップと一緒に食べたみたいに、おれも母さんが作ったワインをポップと一緒に飲みたい。母さんが作ったワインをポップに美味しいと言ってもらいたい。
「飲んでやるよ、一緒に」
「……え?」
「おまえが大きくなって成人したら。一緒に飲もうぜ、おまえの母さんが作ったワインを」
「本当……? 約束してくれるかい?」
この戦いが終わっても、ずっとおれの友達として側にいてくれるって言うのか、ポップ。一緒に生きて、一緒に生き抜いて、大魔王を倒して。もう二度とおれを置いてけぼりにしないって、最後まで隣にいてくれるって。その言葉、本当に信じていいんだな?
「あぁ。おまえこそ忘れて、ひとりで飲んじまうなよ?」
「もちろんだよ!」
ポップが返してくれたワインを手にして、おれは力強く応えた。
母さんのワイン、約束のワイン。
大人になったらポップと一緒に飲もう。
きっとその頃には、心に刺さった棘が生み出す疼く痛みも、ほろ苦いお酒と一緒に飲み込めるようになっているから。