ダイ君とお兄ちゃん(微ポプダイ) 湯浴み用の桶に沸かしたお湯が次々に注がれていくのを、ポップは内心で溜息を吐きながら見つめていた。 小さな小屋には当然だが風呂場などない。部屋の片隅に湯桶を置き、張った紐にシーツをかけて仕切りを作り部屋を区切っただけの簡易な浴場がそこにはある。
お湯に指先を浸けて温度を確かめていたらしいメルルが、大丈夫ですと小さく頷く。いいお湯加減ですよ、と笑う先にはレオナとダイが並んで佇んでいる。
それを合図にして、レオナが自身に引っ付いて離れようとしないダイに湯浴みするように促し始めた。 そっとダイの背を押した先にいるのは、仏頂面で手招きしているポップだ。
琥珀色の大きな瞳からぽろぽろと涙を零しながら、振り返ったダイは戸惑ってレオナを見上げている。
きっかけは降りしきる雨の中、ぬかるんだ地面へと突き飛ばされ、ポップにより強制的に剣を突きつけられた一件だった。全身冷たい雨に打たれ、泥水を被って汚れたダイが小さなくしゃみをしたことから、一行はダイの身を清めて温めるために湯浴みの準備を始めたのだ。
「ダイ君 湯浴み………お風呂の入り方はわかるかしら?」
「おふ……ろ?」
「体の汚れを落として、お湯に浸かって温まるの。ひとりでできる?」
「汚れを落として温まる……て」
念のために尋ねたレオナだったが、 ダイからの返答は覚束ないものだった。
砕かれた騎士の鎧の残ったパーツを脱がせた時は随分とおとなしくされるがままになっていたが、手渡した服は迷いなく身につけていた。防具などの非日常的なものの着脱の仕方はわからなくとも、日常生活に関わることまでは記憶障害を起こしていないと判断していたのだが。
「ポップ君、ダイ君をお願いね。ダイ君、ポップ君に教えてもらってちょうだい」
少しばかりの躊躇のあと、ダイが小さく頷く。怯えの混じる視線を向けられて、ポップの胸が小さく軋んだ。
「ポップ君も随分濡れちゃったわね。いっそのことふたり一緒に入る?」
背中から尻を中心に背面を泥水に浸かってしまったダイに比べれば多少はマシとは言えど、ポップもまた衣服を泥で汚して雨に打たれている。
「ダイ君、構わないかしら?」
「……えっ………お兄ちゃんと一緒、に…………?」
レオナの言葉に小柄な身体が震え上がった。僅かに青褪めた顔を歪めて大粒の涙を溢れさせ始めたダイの様子に、ポップは小さく歯噛みすると首を横に振った。
「いや、いい。先にダイの湯浴みを済ませる。その後ひとりでさっと入るよ」
ダイの記憶が健在であったのなら、きっとふたりで一緒に入っただろう。小さな湯桶の中で身体がぶつかる度に互いに文句を言い合いながら、指遊びをしたり湯をかけ合ったりして、賑やかにはしゃいでその時間を過ごしただろう。きっとレオナたちから煩いと呆れられ、湯浴みを済ませた後には、湯桶の周囲に溢れた水をきちんと拭くようにと叱られたに違いない。
ほんの数時間前までならば、当たり前に過ごせたはずのその時間は失われてしまったのだ。ポップはダイの父親を名乗った男への憤りと、隣にいつもあった温もりを失った空虚さを、今更ながら同時に抱えていることに気づいた。
半ば項垂れて、眉尻を下げたダイが、のろのろとした足取りでポップの方へとやって来た。ようやく顔を上げたダイの頬を溢れた涙が伝い落ちていく。
よほど怖がらせてしまったのだと、少しばかり冷静さを失ってしまった己を反省して、ポップは小さく息を吐いた。ダイは望んで記憶を失ったわけではないのだ。何もわからなくなって、おそらく幼児退行すら引き起こしている小さな親友を、ただただ責めたところで何も始まらない。
「ほら、こっち来いよ。さっきは……悪かった。もう、しない」
「……本当?」
「ああ」
「もう剣なんて怖いものぼくに持たせようとしたりしない?」
「………ああ。おまえが望んで手にしようとするまでは、な」
「ぼくは剣なんて持ちたいとは思わないよ」
「……わかってる」
側までやって来たダイの手を取り、ポップは即席の脱衣場へと導いた。濡れて肌に貼りついた衣服を脱がし、湯で濡らして絞った布で土汚れを拭いていく。
布が肌を擦る度に幼い子どものように怯えて震えるその身体は、無駄なく引き締まり、程よく筋肉を纏っていた。それでいて腕や腿の内側、そして腹部は柔らかく、その肌は子ども特有の滑らかさを併せ持っている。
小さな勇者とは言い得て妙なのだとポップは痛感した。年相応の子供らしい身体つきと、戦いに身を置く者の引き締まった肉体と。まさに奇跡のバランスで成り立っているのだ、目の前のこの小さな肢体は。
こんなことすら、今の今まで気づかなかった。ダイが本当はまだ十二歳の子どもであることを、深く意識したことなどなかった。こうやって小さな勇者の荷を強制的に降ろされ、寄る辺のない子どもになってしまった姿を見るまでは。
汚れを落とし、ポップはダイに湯桶に入るよう促した。言われるがままに湯に浸かったダイの肩や背中に、丹念に湯を掛けてやる。髪にまで跳ね上がって固まっていた泥も丁寧に解しているとダイが小さく身動いだ。
「……気持ちいいや」
ふたりきりになって初めて、ダイがほっとしたように息を吐いて微笑んだ。湯を手で掬っては指の間から溢すという意味のない作業を繰り返している。
その琥珀色の瞳が少しずつ色を失っていっていることにポップは気づいた。どこか茫洋とした瞳で水面を見つめて薄っすらと笑う姿は、あどけなさや子どもらしさを感じられず、得体の知れない見知らぬ生き物のようにポップには思えた。ぞくりと自分でも気づかぬまま血の気を引かせて身を震わせる。
そうだ、とポップは息を呑んだ。こんな顔をしたダイは今までに見たことがない。記憶を失くしただけでなく、ダイではない別の何かに作り直されたような感じすら受けた。
「ダイっ!!」
「……っ! …な、なぁに、おにい……ちゃん?」
思わず名を呼んで大声をあげてしまったポップに、びくりとダイが大きく身体を震わせた。おどおどと窺うようにポップを上目遣いに見やる。
その琥珀色の瞳には恐怖の色が滲んでいたが、ポップにとっては先程までの見知らぬ生き物のようなダイの姿よりはましなものだった。心は痛めども、不穏さに精神を掻き乱されることはない。
「すまねぇ、なんでもない。ほら、そろそろ湯から上がれよ。身体も温まってきただろう?」
「……うん」
ポップに促されてダイはのろのろとした動作で立ち上がった。
そんなダイの肌の上を水滴が滑り落ちていくのを横目に、ポップは台に置いてある大きめのタオルを手に取る。
両手で広げ持ち、いつも通りにダイを受け止めるため、ポップはタオルを持った手を伸ばして促した。勢いよく駆け寄って飛び込んでくるダイの衝撃に耐えるために、僅かに腰を落として踏ん張るのも忘れない。
「何してんだ? ほら、来いよ」
「え……っと………?」
目を丸くしてぼんやりと佇むダイの姿にポップは小首を傾げた。ダイが困ったように眉尻を下げながらゆっくりと近づいてきて、ようやくポップは己のとってしまった無意識の行動に愕然として息を呑んだ。
「あ……」
風呂を上がって、ポップが広げたバスタオルに満面笑顔で飛び込んでくるダイはいない。受け止めきれずに尻餅をつくことも、飛び込んでくるな、ちゃんと受け止めろよ、そんな軽口を叩き合うこともないのだ。
当たり前を失った悔しさと遣る瀬無さにポップは再び項垂れる。タオルを広げた両手が力なく下がっていくのを、ポップは止められなかった。
そんなポップをダイは不思議そうに見上げた。怒ったと思ったら、急に落ち込んでいたりする。ダイにとってポップは機嫌が分かりにくい人の代表者だった。
「………お兄ちゃん………?」
「な、なんでもねぇ。……ん〜、髪の毛もちゃんと拭かないとな」
「う、うん………」
何かを誤魔化すように少しばかり乱暴に掴まれて引き寄せられ、先ほどの屋外でのやりとりを思い出してダイは恐怖に引き攣った息を漏らした。
けれど、髪を拭いてくれるポップの手つきも、体を包んでくるタオルの動きも、穏やかで優しいものだった。そのことに安堵してダイはそっと両目を閉じてされるがままになる。
「よっし、終わったぞ。湯冷めする前に服を着ろ。今日は夕飯食ったらさっさと寝ちまえよ……色んなことあって………おまえも疲れちまったろ?」
ポップの言葉にダイは素直に頷く。
自分よりもこのお兄ちゃんの方が疲れた顔をしているのにな、と思いながら。
周囲の人間たちの気遣うような視線と、それに反してピリピリと漂う空気感がダイは苦手だった。怒られるわけではない、けれど心が休まるわけでもない。
何かをすれば視線が自分へと向けられ、何かを言えば誰もが耳をそばだてている。何故自分の一挙一動がこんなにも注目を集めるのか、ダイには理解できなかった。
「ダイ君、美味しい?」
ハムとチーズの挟まれたバゲットのサンドイッチをひと口齧ったところで問われて、ダイはこくりと小さく頷いた。
浴びせられる幾つもの視線のせいで緊張していて、本当を言えば味はよくわからなかった。ダイは自分を取り巻く周囲の尖った雰囲気に疲れを感じており、声を発するだけの気力が湧かなかったのだ。
「そう。よかった。メルルのお手製なのよ。あたしじゃこうはいかないわ」
「そんな……レオナ姫。パンに具材を挟んだだけのものですわ」
「ふふふ、あたしあまりお料理ってしたことなくて。ねぇ、ダイ君?」
「えっ………なぁに、お姉ちゃん………」
「……ごめんなさい、何でもないの。いっぱい食べてね」
言葉に反して、寂しそうに微笑まれる。その顔を見たくなくて、ダイはそっと視線を伏せた。
この女の人はレオナという名前らしい。レオナ、レオナ。心の中で何度か繰り返す。
まだ誰にも話してはいないが、ダイはここにいる人間たちの名前を覚え続けていることができなかった。何度も聞いているのに、確かに名前を覚えた思ったのに、頭が痛くなった途端に、気がつくと忘れてしまっているのだ。
だからダイは彼らを「お兄ちゃん」「お姉ちゃん」と呼ぶ。悲しげな顔をされるけれど仕方がないのだ。名前を、覚えていられないのだから。
そもそも、ダイ、と呼ばれることにも慣れていない。それが本当に自分の名前なのかも判別がつかない。
ダイにはもうひとつ誰にも話していないことがあった。
誰かが自分を呼ぶ声がするのだ。どこからかはわからない。もちろん誰の声かもわからない。頭の片隅で響くその声が呼ぶ名前は、ダイ、ではないのだ。
しかしその声が呼ぶ名前も確かに耳で捉えているはずなのに、記憶には残らなかった。指の間をすり抜ける砂や水のように、ダイ自身には何も引っかからないのだ。
「ダイ……ダイ…………どうした?」
気づけばダイは心配そうな顔をしたポップに両肩を掴まれて横から覗き込まれていた。手にしていたサンドイッチはいつの間にか床に落ちて無惨な姿を晒している。
「……えっ…………な、なぁに、お兄ちゃん……」
「何って……急にぼうっとしちまっと思ったら、持ってたもんを落としても微動だにしねぇでよ。どこか痛かったり気分が悪かったりするのか?」
ポップの問いかけにダイは小さく首を横に振った。
「そっか。食べかけ……落としちまったな。ほら、これ食えよ」
差し出されたのはポップの皿の上に乗っていたバゲットだった。それを手に取ろうとして、入手したバゲットは人数分に切り分けられていることに、状況把握の覚束ない今のダイでも気づいた。これを食べてしまうと、ポップが食べるものがなくなるのだ。
「どうして……」
「ん? 何か言ったか?」
床に落ちたサンドイッチの欠片を拾い集めてナプキンに包んでいるポップをダイはぼんやりと見つめる。
どうして、このポップという人はこんなにも自分を気にかけてくれるのだろうか。
最初は怖い人だと思った。虐めてくる人だと思った。けれど、髪を拭く手つきは優しくて、食糧を譲ろうとしてくれて、今もこうして細々と世話を焼いてくれている。
ダイはポップという人物がよくわからなくなった。
「ううん……ぼく疲れちゃったから先に寝てきてもいい?」
「おう、構わねぇぜ。寝台、使わせてやって構わないかな、メルル、ばあさん?」
「もちろんです」
家主ふたりの了解を得る。
ダイに席を立つように促しながらポップは周囲を見渡し、他の誰からも異論がないことを確認したうえで自分も立ち上がった。
「こっちだ、ダイ」
「……さっき寝てたところ? 窓の側の」
「ああ」
「お月様綺麗だったのに隠れちゃった。雨……まだ降ってるかな」
「今夜は夜通し降るだろうな。ちゃんと窓閉めないと」
ダイの背に手をあてがって歩きだしたポップの耳に、遠くで微かに響く雷鳴の音が届いた。
今後はどうしていくのか。
そんな話し合いは夜半遅くまで続いた。
幾つかの案は出されたが、最終的にレオナの提案したテラン王の元を訪ねて情報を集めることになった。竜の神を崇め、竜の騎士の伝説に詳しいかの王であれば、竜の騎士の力でもって引き起こされたダイの記憶喪失を治す方法を知っているかもしれない。何か手掛かりを得られるかもしれない。それが大きな理由だった。
ダイを連れて逃げることも考えたが、おそらくダイとバランは竜の紋章で繋がっている。たとえルーラを使って逃げ続けたとしても、それが地の果てであろうと追いかけてくるだろう。あの男の我が子を取り戻そうとする親としての執念は、とても侮れるものではないように思えた。ほんの少しでも策に綻びを見せれば、たちまちダイを奪い去られてしまうに違いない。
やがて誰からも声が上がらなくなり、鳴り響く雷鳴だけが暗い部屋に満ちるようになった頃、話し合いは終わることとなった。バランを具体的にどう迎え撃つのか。その答えを得ることができないままに。
ポップはメルルに毛布を一枚借りると、それを手にしてダイが眠る部屋へと向かった。小屋には二部屋しかなく、自然と男女で分かれることになったからだ。普段から野外で眠っているというクロコダインは、雨が降っているにも関わらず当然のように小屋の外へと出ていった。見張りも兼ねるつもりのようだった。
「あいつ……もう寝ちまったかな?」
ダイを部屋に案内し、寝台に就くのを見届けたのも、もう数時間前のことだった。ダイは寝つきのいい子どもだったが、精神的に不安定な今もそうとは限らない。
部屋の扉の前で、ポップは念のために扉の向こうの気配を窺った。物音がしないか耳をそばだてたが、雷鳴に掻き消されてしまってわからなかった。
「ダイ、入るぞ……?」
小声で断り、そっと扉を開く。
暗い部屋の奥に置かれた寝台に目を向けて、ポップは思わず息を止めて目を見開いた。驚愕のあまり指一本動かせなくなる。
寝台はもぬけの殻だった。数時間前にはここに横たわらせて、肩まで毛布をかけてやり、不安げに揺れる瞳が閉ざされるのを確かに確認したというのに。
「ダ、ダイっ?!」
ようやく衝撃をやり過ごして、ポップは部屋へと踏み入った。一目散に寝台へと足を向け、敷布の上に手を置いてみる。温もりは一切感じられなかった。ダイは随分と前に寝台を離れたことになる。
ふとポップは毛布が見当たらないことに気づいた。寝台の反対側にも落ちている様子はない。ダイが自身の意志で毛布を手に寝台を抜け出したのか、それとも――――最悪の事態を想定してポップは息を呑んだ。バランの手の者によって連れ出されたか、あるいは現状を鑑みた魔王軍の誰かに攫われた可能性に思い当たったのだ。
慌てて踵を返したポップの背後にあった窓の隙間から、轟いた雷鳴に数秒遅れて雷光が差し込んだ。一瞬部屋の中の影を浮かび上がらせる。簡素な作りの部屋には、寝台とサイドテーブルと幾つかの棚があるばかりだったが、雷光はそれ以外のものも浮かび上がらせた。部屋の隅に盛り上がって雷鳴に合わせて震える丸い影を。
「ダ…ダイ、か?」
ポップが声をかけると、丸まった影が少しばかり身を起こした。毛布と床の隙間から、琥珀色の瞳が現れる。丸まった影は頭の上から毛布を被って震えているダイだったのだ。
「……お、お兄ちゃん?」
「おまえ……いったい何やって…………」
ポップが緊張を解いた瞬間、ひときわ眩しく部屋の中が雷光に満ち、間もおかずに大きく雷鳴が轟いた。雷雲が間近にまで迫っているのだろう。
ダイは悲鳴をあげると、毛布を放り出してポップの元へと駆け寄っていく。
懐に飛び込んできた小柄な身体を、ポップは万感の想いで抱きとめた。青褪めて震える身体を抱き締め、宥めるように背中を撫で下ろしてやる。
「もう大丈夫だ。ほら、落ち着けよダイ」
何度も耳元で大丈夫だと囁き、雷が鳴るたびにびくんと大きく震える身体に温もりを分け与えるように抱きしめ続けた。ダイの嗚咽が収まりだすと、少しばかり身を離し、目尻に浮かんだ涙を親指で拭ってやる。
「なんだ……雷が怖いのか?」
ポップの問いかけにダイはこくんと頷く。
その瞬間に雷鳴が轟いた。小屋の近くに落ちたらしく、地を抉るような勢いの地鳴りと、空気をぴりぴりと震わせる振動が床や壁を通して響き渡った。
腕の中のダイが声にならない悲鳴をあげてぎゅうぎゅうと抱きついてくる。琥珀色の大きな瞳に湛えた涙をぽろぽろと零しながら。
恐怖に震える小さな身体を抱きしめながら、ポップは何度もダイの背中や後頭部からうなじにかけての癖の強い硬い髪を撫でてやった。
「大丈夫だって。雷はおまえの味方だからさ」
「……味方?」
「ああ。おまえが本気で望めば、おまえの思い描くままに操れる。おまえを助けてくれる。強い味方なんだぜ?」
「ぼくが望めば……? なんで…………?」
それはおまえが勇者だからさ。
そんな言葉をポップは胸の内に飲み込む。今のダイには届かないことをポップはもう十分なほどわかりすぎていた。
「おまえはいい子だからな。雷だっておまえに悪さなんかしねぇよ」
ポップの誤魔化しの言葉を耳にして、ダイは頭ひとつ分高いところで苦笑いを浮かべている顔を見つめながら、きょとんとした顔をして目を瞬かせた。あまりに子どもだましの理由だったせいか、さすがに今のダイでも雷に怯える自分の気持ちを宥めるための気遣いだと捉えたようだった。
「ありがとう、お兄ちゃん。お兄ちゃんと一緒なら、ぼく……少しだけ雷が怖くなくなったよ」
「そっか。なら、よかった」
ポップはダイの手を取ると、そっと立つように促した。
「もう夜遅い。おまえもおれも寝る時間だ」
「お兄ちゃんも?」
「ああ」
震えの収まった小さな手を引いて寝台へと導きながらポップは頷く。
途中で放り出された毛布を拾い、機嫌よく笑うようになったダイを寝台に上がらせたポップは、自分もまた部屋に入った瞬間に毛布を放り出していたことに気が付いた。よほど我を失っていたらしい。ダイのこととなると、ポップは冷静な視点を失ってしまう。自覚してはいるが、なかなか治せそうにない。
「いい子で寝てろよ」
肩まで毛布をかけてやったダイにそう言い置いて踵を返したポップは、背後から衣服を掴まれて足を止めた。
「待って! …………行かないでよ」
上半身を起こしたダイが、必死な様子で腕を伸ばしている。雷鳴が部屋いっぱいに轟き、ダイの短い悲鳴と混ざりあった。
その目尻に涙が浮かんでいることを認めて、ポップは再び懸命に嗚咽に耐えている寝台の上のダイと向き合う。
「悪かった。もうひとりにはしねぇ」
「……ほんと?」
「ああ」
ポップが頷くと、ようやくダイは泣き止んだ。固めた拳でぐいぐいと目を擦るので、ポップは慌ててその手を掴んで止めた。目に傷がついては一大事だ。いずれ記憶を取り戻したその時に目を悪くしていてはダイが困ることになる。
突然手を掴まれて、ダイは目を丸くして驚いたようにポップを見上げた。その純粋に驚いただけといわんばかりの無垢な表情に、ポップは自分の胸中に差した打算に内心で反吐を吐いた。先のことばかり考えてしまって、胸に刺す暗い影が大きくなるばかりだ。
そんな自分を振り払うように頭を振ると、ポップはダイを再度寝台に寝かせた。寝台の側に両の膝を着き、手を握ってやりながら。こうして『怖いお兄ちゃん』を頼ってくれているのだ。今日はダイの気が済むまでずっと側にいてようとポップは心に決める。
ダイはしばらく目も閉じず、じっとポップを見つめていたが、やがておずおずと寝台の端へと自分の身を寄せていった。ポップが横たわれるだけのスペースを作り出すと、繋いでいた手をそっと引く。
「お兄ちゃんも」
「……?」
「お兄ちゃんも一緒に……」
出来上がったスペースを見下ろしながら、ポップは自身を指さしながら目を瞬かせた。まさか同衾の誘いを受けるとは予想外だったのだ。
「だめ……かな? 雷が…どこかへ行くまでの…間だけ……でも」
上目遣いにダイに請われて、ポップは苦笑した。ダイはほとんど我侭を口にしない子どもだった。育った特殊な環境のせいか物欲も乏しく、何かを人にねだることもなかった。
そんなダイも時折こうしてポップやマァムの手を引いて自分の欲求を告げることがあった。それは大通りで芸を披露する旅芸人を見たいときや、ダイには読めない文字で書かれた看板や掲示板を見つけて何が書かれているのかと尋ねるときなどの、そういうささやかでたわいのないことでだった。
記憶を失くして何もわからずに不安で仕方ないだろうに、こうしてダイが初めて口にした我侭もまたささやかなものだった。変わってしまったように思えていたダイだが、根っこの部分はやはりダイはダイのままなのだとポップは安堵する。
「……いや、駄目じゃねぇよ。どうせなら朝まで一緒させてもらうぜ」
「うん!」
嬉しそうに微笑むダイの頭を少々手荒に撫でると、ポップはそっとダイの隣に身を滑り込ませた。向かい合わせになって顔を合わせ、毛布をダイの肩までかけてやる。ぽんぽんと背中を叩いてやると、ダイは擽ったそうに身を捩り、ポップの胸に顔を埋めた。
「あったかいや……」
「そ、そっか……?」
「お兄ちゃん優しい人だったんだね。ぼくずっと怖い人かと思ってた」
「……あの時は悪かったよ」
「ううん…………」
ポップは身を寄せてきたダイを腕の中に半ば閉じ込めた。すっぽりと腕の中に収まる小さな身体は、今日一日でどれほど負荷に耐えようとしてくれたのだろう。耐えきれずに弾き飛ばされてしまった『ダイ』は、今この小さな身体のどこにいるのだろうか。
ダイはうとうとと舟を漕ぎ出し始めている。琥珀色の瞳はとろんと熱を帯びて半分目蓋が落ちてきていた。
「…………あの声の人も……お兄ちゃんみたいに……優しいと…………いい…な」
「あの声の人?」
「うん……ぼくを……呼んでいるんだ……こっちにおいで……って……ぼくの頭の中で…ずっと…………」
ダイの言葉にポップは血の気を引かせた。どくんと心臓が脈打ち、背筋を悪寒が駆け上がる。ダイを呼ぶ声の主とは、まさか。
「その声、おまえの知ってるやつか?!」
ポップの問いかけは、軽く首を傾げながら重たそうに瞬かれた目蓋の向こうに吸い込まれて消えてしまった。くうくうと小さく穏やかな寝息をたて始めたダイを起こすわけにもいかず、ポップはぐっと歯を噛み締める。
記憶を失って以降、ダイはこの小屋にいる者以外の人間とは接触していない。今のダイが知らない、ダイを呼ぶ声の主。
これもまた紋章の共鳴の一種なのだろうとポップは推測した。バランは常に紋章を通してダイに呼びかけているのだ。脳裏の奥で、深層心理の片隅で、呼び続ける声はどれほどダイに影響を与えているのだろうか。
「ちくしょう……あの野郎………………!」
ポップはダイの頭を抱え込み、癖の強い、けれど柔らかな髪に顔を埋めた。息を詰めたように小さくダイが呻いたが、構わずにポップは強くダイを抱きしめ続ける。
「渡さねぇ……あいつには、あいつにだけはぜってぇ渡さねぇ……っ!」
窓の隙間から雷光が一瞬差し込み、耳をつんざく雷鳴が轟く。先程まではダイの味方だと思えていた雷が、バランの化身となって腕の中の親友へと伸ばされる手のように思えて、ポップは小さく身を震わせた。
ダイが目を覚ますと、隣に寝ていたはずのポップの姿は既になくなっていた。そっと敷布に手を置くと、手のひらに僅かな温もりを感じた。ポップが寝台を出てからそんなに時間は経っていないようだった。
そろそろと足を床に下ろす。窓の隙間からは明るい陽射しが差し込んでいて、昨晩にダイを恐怖に陥れた雷雲は去ってしまったのだとわかった。
窓辺に寄るとダイはきいきいと音の鳴る鍵を下ろして、木製の窓をそっと開けた。途端に眩しいほどの光が溢れて、窓の形に視界が焼きつき、ダイは思わず腕で影を作って目を庇った。
「お天気! もう外に出ても怖くないかな……」
陽射しにある程度慣れてくると、ダイは窓枠に手をかけてガラスのはめられていない窓部分から外へと顔を出した。雨上がり特有の水と土の混ざった臭いと、森の清々しいしんと澄んだ空気が折り重なって、少しばかり湿った臭いが鼻腔をくすぐる。何故だか懐かしく思えて、ダイは胸いっぱいにその空気を吸い込んだ。
「……わっ……?!」
身を乗り出して更に臭いを嗅ごうとしたダイは、突然手を掴まれて驚くことになった。窓の向こう、生い茂る木々の重なった葉の隙間から、急に蔓のようなものが伸びてきて右の手首に絡んだのだ。
「……なに、これ………?」
解こうとして慌てて伸ばした左の手首にも、どこからともなく伸びてきた蔓が巻きついてきた。ダイがそう認識して間もおかずに、何本もの蔓が小柄な身体を拘束するために伸びてくる。あるものは首を締め上げ、あるものは胴に巻きつき、あるものは両膝に纏めて絡みついた。
「や、やだ……怖いよぉ………お兄ちゃ………んぅっ!!」
新たに伸びてきた蔓がくるりとダイの後頭部を回った。正面に戻ってきたその先端をダイの口腔へと潜り込ませる。
「んーー! ぅう……んんッ!!」
身柄を拘束されたうえ、声を上げられなくなり、恐怖とパニックに陥ってダイは大粒の涙を零しながら身動いだ。
ふわりと足が床から浮く。窓から外へと無理矢理に連れ出されてダイは声にならない悲鳴をあげた。
「おーい、ダイ。顔を洗う水を貰ってきたぞ」
のんびりとしたポップの声がして、部屋の扉が開いた。ダイはくぐもった声をあげてポップに助けを求める。
水の張った桶を手にして部屋に入ったポップの視界に入ったのは、謎の蔓に吊し上げられて窓から外へと連れ出されていくダイの姿だった。
手にしていた桶を放り出し、全力でポップは窓辺へと駆け寄った。窓から顔を出して周囲に目をやると、森の中へと引き込まれて小さくなっていくダイの背中を確認する。窓枠に足をかけ、そのままトベルーラで部屋を飛び出てダイの後を追った。
ポップにはダイを拘束していた蔓には見覚えがあった。ロモスの王城でクロコダインと戦った時に、マァムを拘束していた悪魔の目玉だ。確か妖魔師団に属していて、妖魔司教ザボエラの手下だったはずだ。
妖魔師団長が何故ダイを連れ去るのか。眼前に迫る木々の間を縫うように飛翔しながらポップは現状を把握しようと思考を回転させる。
ダイから記憶を奪ったあと、バランが何処へ去ったのかはわからない。だがポップはバランが魔王軍の本拠地に戻ったとは考えられなかった。戻ればハドラーや、あるいは大魔王バーンから、何某かの指図や横やりを入れられる可能性がある。あの男が息子のことで他者からのそれらを受け入れるとは思えないからだ。
おそらくバランは魔王軍にダイが息子であることをまだ報告してはいないだろう。魔王軍、もしくはザボエラは独自にその情報を手に入れ、そして動いているに違いない。
ダイを攫ったということは、ザボエラは手に入れたダイをハドラーか、あるいはバランに渡すつもりなのだ。それが功名心からか、あるいは保身、近況を見据えての取り入る相手を変える算段からなのか、そこまではポップにも判断はつかない。わかっているのは、連れ去られる先が誰のもとであろうと、ダイを魔王軍に渡すことを認められないという自分の想いだけだ。
「ダイーーーー!!!!」
悪魔の目玉は触手にも似たあの蔓を巧みに使って、木々の枝を伝い渡って移動していく。その速さは目を見張るほどだった。ポップは歯噛みしながら飛翔を続ける。
不意に視界いっぱいに青白い閃光が広がり、悪魔の目玉が動きを止めた。徐々にポップと悪魔の目玉の距離が縮まっていく。何事かが起こったのか、突然逃げ去るのを止めた悪魔の目玉を警戒して、ポップは腰のベルトに刺していた輝きの杖を手に取った。何かあってもすぐに応戦できるように魔法力を研ぎ澄ませて高めておく。
「……ダイっ!!」
「……………おにい……ちゃ…ん」
悪魔の目玉まであと数メートルという位置まで追いついたところで立ち止まり、ポップは茫然としながら、木々の枝に蔓を絡みつかせ、時折痙攣を起こしている悪魔の目玉を見上げる。
その体はズタズタに引き裂かれており、僅かばかりが枝に引っ掛かっているといった有り様だった。千切れた箇所からは青黒い体液がこぼれ落ち、地面を不気味な色に染めていく。
光を失った琥珀色の瞳に無垢と無辜を湛えたダイが、薄っすらと微笑みすら浮かべて振り返った。その小さな身体は自らの力で引き千切ったと思われる悪魔の目玉の体液を頭から被っている。青黒い粘液がこめかみを伝い、飛び散った肉や蔓の欠片を肌や衣服に付着させるさまは、凄惨と口にするのも躊躇うような状態だった。
ダイの額には竜の紋章が青白い光を放ちながら浮かび上がっている。その光はゆっくりとダイの額に吸い込まれるようにして消えていった。
「お兄ちゃ………」
くらりと小柄な身体が揺れた。
ポップは慌てて駆け寄ると、その身体が地面に叩きつけられる前に抱き止めた。徐々に光を取り戻していく瞳の色に安堵しながら、ダイの身体に絡みついたままの悪魔の目玉の一部を掴んでは外して捨てていく。
ダイの肌に赤紫色の痕を残した悪魔の目玉がポップは気に入らなかった。何度も何度も色の変わってしまった肌の上に執拗に指先を這わせ、小屋に戻り次第レオナにベホマをかけてもらって跡形もなく消してしまおうと考える。自分の力で今すぐにダイを治してやれないことに、何故だか無性に腹がたった。
「大丈夫か? 怪我はないか、ダイ?」
「そっか……お兄ちゃんが助けてくれたんだね?」
無邪気に微笑んで問いかけるダイの姿を目にして、ポップの胸の奥でつきりと痛みが走る。違う、という否定の言葉を、ポップはすんでのところで飲み込んだ。
おまえがやったのだとダイに告げるは容易い。しかしダイはおそらくそれを否定するだろう。
魔王軍に歯向かう勇者は無力化した。何も知らないただの子どもとなったその子を返せ。バランの言葉にしない声が聞こえてくる気がして、それがポップには辛かった。
「……お兄ちゃん?」
「何でもねぇ。ほら、歩けそうか?」
ポップの促しに小さく頷いたダイが腕の中からそっと身を離していく。自分から遠ざかっていく温もりが惜しいとばかりに伸ばした腕を、ポップは自分が何故そう感じるのかもわからないまま茫然と見つめた。
用意された湯桶へと、予めあらかたの汚れを落としたダイを導く。ほっと息を吐くダイの肩や背に湯をかけてやりながら、ポップは拘束痕以外の外傷の有無を確認した。幸いなことにダイの身体にはもう目立った痕はないようだった。
あの後ポップに連れられて小屋に戻ったダイを目にして、誰もが絶句することになった。レオナの号令で湯浴みの準備が行われ、昨夜に引き続きポップがダイの面倒を見ることとなった。
「ふふ、気持ちいいよ。お兄ちゃんは一緒に入らないの?」
「……朝っぱらから風呂なんて要らねぇよ。おまえはげとげとのどろどろになってるから入ってんだぞ」
無邪気なダイの問いかけにポップはため息を吐きつつも内心安堵した。昨夜は一緒に風呂などとんでもないとばかりの怯えようだったことを思えば、少しはダイもポップに懐いて心を開いてくれていると思える態度だったからだ。
「ふぅん……。ねぇ、あのうねうねしてたやつ何だったの?」
「さぁな。腹でも空かせてたんじゃねぇか?」
真実を伏せてポップは答える。ダイに嘘をつきたくはないが、悪魔の目玉によって連れ去られる先が、父親であるバランのもとであった可能性をポップはダイには知られたくはなかった。それでなくとも、ダイは竜の紋章を通してバランの呼びかけを受けているのだ。真実を知られれば、生まれかけたこの小さな信頼感が瓦解してしまうのではないかと恐れたのだ。
「ぼくを……食べようとしてたの、あいつ……?」
「かもしれねぇ。おめぇ胸とか腹とか柔らかそうだからな。食い甲斐があると思われたんじゃねぇか?」
ポップはわざとらしくダイの腹を指先で突っつく。子ども特有の滑らかな肌ともっちりとした感触が指先に伝わった。
もっとも胸部や腹部だけでなく、ダイの腕や太腿の内側の肌や、まろやかな尻も存外柔らかいことをポップは知っている。意図的に触れたことはないが、何度も一緒に風呂に入った身だ。それに寝落ちてしまったダイを寝床に運んだ回数は両手の指の数より多いだろう。ダイとポップは何をするにも今までずっと一緒だったのだ。互いの肌に触れる機会など珍しいものではなかった。
再度突っつくと、擽ったいのかダイは身を捩って笑いだした。その笑顔は見慣れたいつものダイの笑顔にポップには思えた。純粋で透明な混じり気のない澄んだ笑み。記憶を失ったとしても、ダイの根幹が変わったわけではない確かな証左のひとつだ。
「………ぜってぇ………わたさねぇ……………」
「………お兄ちゃん、なんだか怖い顔してる………」
「あン? わりぃ、ちょっと考え事してたみたいだ」
戸惑いはしても逃げようとはせず、上目遣いに見上げてくるダイを軽く抱き締めると、ポップは目の前の旋毛をひと撫でして立ち上がった。棚に置いてあった大きめのタオルを手に取って広げる。
「あっ…!」
小さくダイの声が部屋に響く。
振り返ったポップはタオル目掛けて飛び込んできた小さな塊の衝撃を受けて僅かに体勢を崩した。腰を落として両足で踏ん張り、なんとか無様を晒さずにすませる。
広げられたタオルの中にはダイがいた。かつてのように当たり前のようにポップが広げるタオルに包まったダイは、おとなしくポップの次の行動を待っている。自分の身体を、髪を、拭いてくれるポップの手を。
「ダイ………」
ぽろりと溢れた涙を、次から次へと続くそれを、ポップは止めることが出来なかった。
皆の、そしてポップの『ダイ』はやはりここにいる。今は紗に阻まれて見えにくくなっているだけで、まだどこにも行ってはいないのだ。
だからこそ、どこにも行かせないし、誰にも渡さない。例え何と引き換えにしようともだ。ポップは心の奥で繰り返しその事実を噛み締め、そして覚悟を決める。
「お兄ちゃんどうしたの? なんで泣くの?」
「おまえが……ここにいるからさ」
「……?」
よく理解できないとばかりに小首を傾げるダイの額へ秘めやかに唇を落とすと、ポップはその場所を隠すようにバンダナを巻きつけた。