想・喪・葬・相 13部屋の空気が悪い。
応接間はバニラとムスクの甘ったるい香りが残り、呼吸する度にその香りが鼻の中に留まるようで酷く気分が悪い。仕事の話をさせてほしいとさっきまで応接間にいた男の香水のせいだ。
どこから聞きつけたのか、療養先にまで押しかけてくるなんてと呆れたが、仕事の話で少しでも気を紛らわせようと部屋に通したのだ。
(結果は失敗だった)
自分に都合の良いことばかりを並べる見通しの甘さ、利点ばかりを強調し都合の悪い情報は指摘するまで隠そうとする狡さ、従業員や請負先の負担を考えない浅はかさ。
上手く取り繕っているつもりかもしれないが、彼の人間性は話し方や仕事の考え方の随所に顕れていた。
(後で忘機にも連絡しておこう。あの男とは今後関わらないほうがいい)
溜息を吐き、寝室のソファに腰かけた。
「そろそろ復帰したい」
叔父に仕事を取り上げられ、代りに藍グループが経営するホテルでの滞在を言い渡され一週間が過ぎた。
「しばらくそこで頭を冷やしてこい!」と怒りを込めて追い出された。が、わざわざ静かなリゾート地の部屋を用意したところをみると、本当に弟の言うように休養をさせたかったのだろう。
(近しい者だからこそ、いざという時に伝えたい肝心な言葉が出てこないのかもしれない)
しかし、せっかく用意してもらった休養も、たいして意味がなかった。むしろ、かえって気分を暗くさせた。
何もすることがなければ、常に江澄のことが頭を駆け巡ってしまうからだ。
(いっそこのまま狂って、仕事も何もかも捨てて隠遁生活をするのもいいかもしれない)
狂ってしまえば幻覚となった阿澄に逢えるかもしれない、そんな馬鹿げた考えが浮かんだ。
ふと外に視線を向けると、そろそろ日が落ちる時間になっていた。
大きな窓の外に広がる一面の森。木々の上を濃いオレンジ色が覆い、さらにその上には夜の濃紺と小さな星の輝きが迫っていた。
(どうしてか今日はとても眠い。あんな男と話したから少し疲れたのかもしれない)
生気が漏れ出でるようにぐったりと身体をソファにあずけ、瞳を閉じて意識を暗闇に沈めていった。
この三年間、どんなに望んでも江澄が夢に出てきたことはなかった。
「もう曦臣に逢いたくないんだ」と江澄に言われているようで、起きる度に溜息が零れる毎日だった。おかげで睡眠も随分浅くなってしまった。
暗かったはずの視界がぼんやりと明るくなる。白い靄の向こうに誰かが立っていた。
『曦臣』
毎日繰り返し思い出していた声。これは小さい時の江澄の声だ。
『曦臣、よかったな』
これは中学生くらいの時だろうか。弟のように思ってきた江澄はいつの間にか少し歳が離れた友人になっていた。初めて彼女が出来て、それを一番に江澄に打ち明けたのだった。
『曦臣、また別れたのか。仕方ない奴だな』
仕事の話でも、見合いの話でも、何でも悩みは共有していると思っていた。あの寂しげな微笑みの本当の意味に気づいてあげることもせずに。
『曦臣…曦臣…っ』
もっと自分が江澄を大切にしていれば、己の欲望を押し付けてこんなに泣かせることはなかった。
謝りたくても何故かこの夢の中では声が出なかった。
せめて涙だけでも拭ってやりたくて手を伸ばすが、霞に包まれた江澄はどんどん離れていく。
背を向けて歩き出す江澄に追いつこうとしても、後一歩のところで手が届かない。
『阿澄!』
やっと声が出た。
すると霞が晴れ、江澄がこちらを振り向いた。潤んだ目から涙が零れ落ち、そのまま小さく微笑んだ。
久しく見ていない、そして二度と見られない江澄の笑顔。
夢の中でも心臓が高鳴るのだと初めて知った。
『曦臣、ありがとう』
手を伸ばし、やっと江澄を捕まえたと思ったその瞬間、奈落に堕とされたような感覚とザブンッとした水音と共に目が覚めた。
「阿澄!!…夢…か」
荒い呼吸音が寝室に響いている。冷や汗でシャツが湿り気持ちが悪い。
窓の外はすっかり真っ暗闇になっていた。
すぐに眠ればもう一度江澄に逢えるだろうか、と期待し目を閉じるが、眠気は遥か彼方に飛んで行ってしまったようだ。
水でも飲もうと寝室を出たが、どうにもバニラとムスクの香りが漂っている気がして思考の障りになる。換気のスイッチを最大に切り替え、しばらく夜風にあたるためホテルを出た。
クリスマスシーズンはまだだが、若いカップルの姿がよく目に入った。キャンドルランタンを持ち、夜の庭を散策するイベントが開かれているらしい。といっても今夜は風が強く、月も出ていない暗闇なので人は少ない方だ。
いつも通り渓流沿いを歩いていると、夜の静寂に似つかわしくない人々の声が聞こえ、車の赤い灯が目に入った。
何かあったのだろうかとそちらに行ってみると、若い男女が救助隊から話しかけられており、遠巻きに人だかりが出来ていた。
「何があったのかしら」
「誰か川に落ちたみたいだぞ」
「えっ、散策コースなのにちゃんと整備されてなかったの?」
「いや、そうじゃなくてどうも入水自殺らしい」
「そうなの!?」
「さっき、あそこの泣いている女の子がそんなこと言ってたから。川にゆっくり人が入ってくのを見つけて一緒にいた彼氏が通報したんだと」
「せっかくデートに来たのにそんなもの見せられたらショックだよなぁ」
「その人、死んじゃったのかな」
「どうかな。でもこんな寒い川に入ったらもう難しいんじゃないか」
確かにこの凍てつくような川では溺れなくても、浸かっただけで命取りだろう。
そんなことを呑気に考えられたのは、運ばれていくストレッチャー上の人が視界に入り込むまでだった。
「あ…阿澄?」
あまりの衝撃に自分はまだ夢の続きを見ているのかとさえ思った。
真白な顔色で黒髪は濡れて顔に張り付き目を閉じていたけれど、その顔は間違いなく江澄だった。
まるで死人のような姿に、それから自分が何を言って何をしたのかよく思い出せなかった。搬送先の病院で一通りの処置が終わり医師から命に別状はない旨を説明されるまで、何を考えていたのさえもよく覚えていない。
病室のベッドで眠る江澄の横に座り、脈打つ手を握ってもまだこれが現実だと頭が追い付かなかった。
(どうして…、どうして阿澄があんな所にいた?何故自殺なんて…)
目を閉じ力なく横たわっている姿は、別れた日よりやつれていた。以前は体調管理にも隙がなく程よく筋肉がついた引き締まった身体をしていたが、今の江澄は一回り小さくなった印象を受ける。
(この三年、何があったの)
幸せでいるだろうか、誰かと笑って過ごしているだろうかと、そればかりを想い願ってきたというのに。
今目の前にいる江澄の姿は、彼にとっての三年が幸せに満ちたものではなかったことの何よりの証明だった。
「阿澄………置いていかないで…お願いだからっ…」
このまま眠るように息を引き取ってしまうかもしれない恐怖に、胸が潰れそうだった。
(どうか早く目覚めて。そうでなければ、私は上手く息をすることも出来ない)
震える手で縋るように江澄の手を握り続けた。