アリウム温かいオルゴールが流れる室内で、リアスはブツブツが並んだ天井を見つめていた。窓の向こうからは部活動生らの賑やかな声が聴こえてくる。開け放されたドアから涼やかな空気が流れてきて、もう秋がやって来ていることを告げていた。
うつら、うつら。
保健室特有の消毒液の匂いと、暑すぎず寒すぎずの心地よい気温はリアスの眠気を誘う。おかしいな、昼間にめちゃくちゃ寝たはずなんだけど。こんなんじゃまた夜寝れねぇわ。
5限の学年集会でぶっ倒れたリアスは、教師らによって保健室に担ぎ込まれ、2時間程夢の中だったのである。リアスは学年集会が嫌いであった。人が密集し、身じろぎすることすら許されないように感じる。元より低血圧持ちの彼は、こういう「みんなとおんなじでなきゃいけない時間」が苦痛なのだ。
今日も、「起立」の号令でシャキッと立ち上がった彼は何の前触れもなくぺしゃっと倒れ、体育館は一時騒然となった。
倒れた時のことをぼんやり思い出しながら、リアスは端正な顔を暗くした。双子の兄と同じ色の瞳に、長い睫毛が影を落とす。
覚えている。後ろにいた声の高い男子は明らかに面白がっている声を出していて、隣の女子は心配しているけれど目立ちたくなくって、声をかけなかった。前で話していた先生は俺なんかより中断した集会と、この後のスケジュールが心配で、駆けつけて来た担任だって「またか」と思っているんだろう。
『倒れた!』
『吐く?吐く?』
『大丈夫かな』
『誰か助けてあげなよ』
耳の奥で声が響く。知っている。彼らに悪気なんざ無いのだ。俺の体質も、体調も、経緯も、性格だってなんにも知らないんだから。
それでも思ってしまった。惨めだと。集団に溶け込めない自分が、自分の身体ですらもコントロール出来ない自分が、リアスは今一等惨めであった。
突然、廊下の方からバタバタと忙しない音が聴こえてきた。複数の人間の賑やかな声も。その中に先程のかん高い声が混ざっていることを認識して、リアスはギシッと固まった。HRも終わり、部活動生以外は皆帰宅しているような時間。ましてや教室棟から離れた、こんな所に人が来ることなんてまず有り得ない。リアスはすっかり油断していたのである。
学年集会でリアスの後ろに立っていた生徒が、耳障りな程高い声で言った。
「てかさぁ、絶対サボりじゃん。なんで俺らが帰るの遅くなんなきゃいけねぇの!」
「それな?どーせ夜更かしでもしてたんだろ」
「もっと上手くやればいーのにな!」
ゲラゲラと笑い声がしたらもうダメだった。
保健室のあるこの棟は、古い木造建築である。そのため、声がよく響く。実際はもっと遠くにいるのだろうが、リアスにはすぐ横で話されているように聴こえてしまった。
もう少しで奴らが保健室の前を通る。通ったら、ドアの目の前にあるこのベッドは丸見えだ。リアスは吸い込まれそうな青色の目をかっぴらいたまま歯を食いしばった。真っ白なシーツを握りしめて身体を縮こめる。覚悟をしたのである。世間一般の、正論に殴られる覚悟を。
「こんにちは。みんな今から帰るの?」
途端、リアスの視界の端にシャッと薄緑色が走った。保健室の入口と、リアスのいるベッドとの間にカーテンが引かれたのである。
カーテンを引いた主、アイク・イーヴランド先生は、カーテンに映るリアスの影が見えないよう前に立ってにっこりと微笑んだ。色白の肌に中和的なオリーブ色の瞳、何よりその柔らかな声から、彼は生徒に人気の養護教諭だ。先程まで悪口を吐いていた生徒らも、毒気を抜かれたように軽快な挨拶をした。それとなく「今は寝ている生徒がいるからなるだけ静かにね」と告げると、複雑そうな顔をしながらも渋々承諾してくれた。二言、三言会話をして彼らを送り出す。アイクは生徒たちの顔と名前を大方覚えていたので、当たり障りのない話題をいくつか引っ張り出して雑談をすることなど容易だったのだ。
お辞儀をしたり手を振ったりする生徒たちを見送って、アイクはふうと息をついた。
さて、あの子は大丈夫かしら。
アイクは薄緑色のカーテンの前に立って、おどけたような声で「コンコン」と言った。扉をノックする真似である。
「リアスくん、入ってもいいですか?」
「………………………どーぞ」
そろそろとカーテンを開けると、リアスは体育座りで小さくなっていた。
「びっくりしたよね。大丈夫だった?あら、泣いてたの」
「泣いてねぇし。大丈夫、」
リアスはちょっとばかし見栄を張った。助けてもらっといて、今更恥ずかしくなってしまったのだ。彼はしっかり思春期の男の子なので。まあ、アイク先生はちゃんと見抜いていたけれども。
「ちょっと待っててね」
程なくして、アイクは真っ白なマグを片手に戻ってきた。目を少し赤くしたリアスに手渡す。
「ホットレモネード。温かくて美味しいよ。蜂蜜も入れてあるから酸っぱすぎないと思う」
「ん、」
リアスの足元の方に浅く腰掛けて、アイクはふうわりと笑った。
「体調はどう?」
「今は、大丈夫です」
「そっか、」
こくり、と飲み込んだレモネードが喉から身体に落とし込まれていく。あったかいな、甘いな。そんなことを思うと、張り詰めていた心がほろほろと解けていくようだった。甘くて温かい息が少し赤みのない唇から漏れる。
「せんせ、」
「うん?」
「………………がっこ、行きたくない」
眉間にギュッと皺を寄せマグカップを握りしめて、絞り出すようにリアスは言った。
「うん」
「…っ、でも」
「でも?」
「いかなぎゃいげないって、わがっ、てる」
「……うん」
「今日、だけでっ、欠課が二つついた、オレっ、ががんばれながった数字ばっか増えて、で、でもやすんだら、…っもっとふえて」
「みすたは、部活と、かがんばってるっ、のにっか、母さんもしごと忙しいの、に…も、やだ…っ」
目尻に溜まった大粒の涙が、ぽとり、ぽとりとベッドのシーツに染みをつくっていく。アイクは座っていた場所からちょっとだけリアスに近づいて、そっと彼の頭を撫でた。撫でながら言った。
「リアスは、周りがよく見えすぎるんだね」
華奢な方がビクッと揺れて、涙で霞んだ瞳がアイクを見た。言葉が彼の脳に染み込むまで3秒、それから彼は更に顔を歪めて泣き出した。ひぐっ、うぇっ、としゃくりあげる声がオルゴールの音色に混じる。
「今日みたいにみんなと違うことになっちゃうのがやになっちゃったんだね」
「ん''」
「でも、わがまま言って迷惑かけるのはもっといや?」
「………っ、う''ん」
「そっかそっか」
アイクは、オリーブ色の瞳を右上、左上の順にやって考えた後、ベッドから降りてリアスのすぐそばにしゃがみ込んだ。
「それならね、リアス。これからは『次の一歩』を考えてやってみて」
「……?」
「僕が好きな本にね、そんなことを言う登場人物がいるんだ。明日、明後日、一年後、三年後。先を考えたら苦しくなってしまうから、次の一歩のことだけ考えて日々を過ごすんだって。朝起きること。ご飯を食べること。授業だって、次のことだけ考えてやってれば、いつの間にか考えてたより前に進んでるの」
リアスは少し難しそうに眉を寄せた後、しかし納得した様子でこくりと頷いた。じゃあ、今日はまず、家に帰ること。それだけ。それだけを考えて、過ごす。
「でもね、」
もう一度、アイクは口を開いた。
「ほんとうは、限界を超えてまでそんなことする必要は無いんだよ。だから」
いつでもおいで。
今自分が持つ最大限の温かさを分け与えるように、アイクはゆっくり笑ってそう言った。
集団に馴染むように。迷惑をかけないように。そうやって抑え込んだ末に自由が怖くなって、意志を見失ってしまった自分みたくリアスがなりませんように。せめてここにいる間だけは、彼が言いたいことを言って、やりたいことをやれますように。
「…………分厚い…難しそう……」
「っはは。そんなに難しくないよ。児童文学だから易しいし。本ってね、夢中になったらあっという間なんだよ」
「ふうん」
自分は彼の特別にはなれない。生徒と養護教諭という立場上、しょうがないことである。だからアイクには願うことしかできない。彼がまたここに来てくれること、来てくれなくっても、無理せず楽な気持ちでいられることを。
オリーブ色の瞳が悲しげに伏せられたことに、リアスは気がつかなかった。