アイビー一触即発。リアスは大変焦っていた。目の前には大きな琥珀色が、今にもくっついてしまいそうな距離に迫っている。眼鏡のチェーンが頬にかかってひんやりとした感触を彼に与えた。リアスを押し倒し両手を縫い止めた彼、アイク・イーヴランドは、小首を傾げ薄ら笑いを浮かべた。
「もう1回言ってみな?」
「あ、」
「もういっかい、言ってみな」
背中に嫌な汗をかきながら、リアスの脳は「後悔」の二文字で埋まっていた。
□
事は小一時間に遡る。
「『藍は青より出でて藍より青し』って知ってる?」
「アイハアオヨリアイ、」
「ごめんごめん、ちょっと難しかったね」
すらりと細くて長い指が、カフェオレのような柔い髪にくしゃりと触れる。アイクはリアスの頭をふにゃふにゃと撫でた。なんだか猫のように扱われているなとリアスは思った。思ったが、特に不快にはならなかった。すっかり慣れてしまったのである。温もりが当たり前に感じられることに。
アイクは網目に包まれた手を自分の膝に置いた。
「おいで」
リアスはよっこらせと立ち上がって、素直に彼の膝の上に収まった。
「震えてない」
「ん」
「前は震えてたし、その後もスキンシップの度に表情カチコチになってたのに」
「慣れるもんだな」
「僕が慣らしたんだよ?」
アイクは口の端をきゅうと上げて笑った。その声はイタズラ好きの子供のようでもあり、支配欲に塗れた男のようでもあった。そんな二面性を垣間見ても尚、リアスは彼に体を預けることをやめなかった。彼の首元に頬擦りをする。すぐ横で幸せそうな笑い声がした。頭にふわふわと撫でられる感触がして、リアスも少し笑った。
アイクの緩やかな甘やかしに絆され、あれから二人は正式に恋人となり、同居が同棲となってから半年が経過していた。アイクは、自他ともに信用できず、自分の殻に閉じこもっていた彼の緊張を時間をかけて解いていった。最初は強引に始めてしまったスキンシップもその程度やタイミングに強弱をつけながら少しずつ回数を重ねていき、先のような彼となったのである。もうすっかり彼はアイクの手中だった。アイクは心の中でにんまりと笑う。達成感や充実感に近い何かが彼を満たしていた。
『幸せを幸せと思うだけが、君の、人の価値じゃないから』
あの言葉が彼を繋ぎ止めたのだとアイクは思っている。完全に持論ではあるが、しかし彼の芯にある思いであることに違いはない。
小説家を志し、夢を叶えて執筆を続けていく中で沢山の人を見た。多くの賞を総なめにしたにも関わらず、肯定を上手く消化できず引退してしまった者。書店にたった一冊並べられた自分の本を手に取る人を偶然見かけ、涙が止まらなくなる程喜び「自分は幸せ者だ」と電話で報告してくれた者。価値観なんて、自分ですら把握しきれない程に不確定で流動的だ。それが伝えられたなら、その言葉が彼に寄り添うものとなれたなら、文字を書くことを生業としている者としてこんなに嬉しいことは無い。
「で、どういう意味なん?その、」
「ああ、『藍は青より出てて藍より青し』?」
「ん」
「教えられた人が教えた人を上回ること」
「……??」
「弟子が師匠を越えちゃうこと」
「あ〜、」
「僕の弟子って言うか後輩が、こないだ賞取ったんだよね。僕は取れなかったんだ」
「そーゆうことか」
「うん。リアスこういうの知らなさそうだなと思って」
「知らね〜。てか知らねえだろうなって分かってて聞いたんかよ」
「うん」
「………」
「ま、でも僕はそんな落ち込んでないかな。リアスがいるし。十分幸せだし」
満足気に笑う文豪は大層可愛らしかった。内面がサディストであることなんて、初対面じゃあ誰も気づかないだろう。恐ろしい人である。
「リアスは?」
「んぇ、なにが」
「幸せ?」
「え、」
リアスの耳の裏に触れるだけのキスをして、アイクは問うた。リアスは少し考えてから、首を動かして頬にお返しのキスをする。
「幸せだよ」
一瞬、琥珀色が見開かれて、じんわりとした色のそれは忽ち弧を描いた。
「そっか。それなら良かった」
配信でよく言うそれよりもっと満たされていて、もっと甘く溶けるような声だった。穏やかだった。とても。とても。今までで、一番と言っていいくらい。
が、その後の一言がいけなかった。
「このまま死んでもいいわ」
□
先の一言の後数秒の記憶がぶっ飛ぶ程、アイクの行動は素早かった。気づいた時にはリアスに自由は無く、代わりに命の危険すら感じるような冷たく鋭い視線が突き刺さっていた。パルクールをやっていたとか空手がなんとか帯だったとか言っていた気がするが、配信者となっても一切鈍っていない彼の身体能力に目を回す。
かち合う視線にひゅう、と喉を鳴らして、リアスは堪らず目を逸らした。天窓にはなんにも知らない青空が呑気に広がっていた。ぽわぽわと流れる雲を今回ばかりは恨めしく思った。途端、ガクンと視界が揺れて再び琥珀色が降り注ぐ。アイクが彼の顎を掴んで視線を戻させたのである。がっちり固定されてしまってリアスは端正な顔を盛大に引き攣らせた。
「一回落ち着け、って」
「聴こえなかった?もういっかい」
「え、と」
「言えるでしょ」
「い、今がいちばん幸せだからさ、こんまま死んでもいいかな、って、」
「……………………………………………………………へぇ?」
彼の瞳がすうっと細まって、固定する手の力が強まる。細っちろい手のどこからそんな力が、とリアスは思った。改めて見た彼の表情は、怒りと悲しみがぐるぐると綯い交ぜになっているように見えた。重力に従ってずれた眼鏡がカチャリと音を立てる。気だるげにそれを取って肘掛けに放ってから、アイクはリアスの唇に噛みつくように口付けをした。突然のことにリアスは目を見開いた。何か言おうと開きかけた口に舌を割入れ口内を蹂躙する。ザラザラとしたそれがリアスの上顎を掠めると、彼は細身の体をビクリとしならせた。零れそうなほど大きなオレンジブルーにうっすらと涙の膜が張る。アイクは彼に呼吸する余裕を与えず、それにともなって薄くなっていく酸素にリアスの頭が回っていく。隙間から懸命に息を吸おうとする彼が可愛らしくって、アイクはキスをしながらふふっと笑った。汗ばんだ肌に張り付いた柔らかな髪を撫でてやると、涙に滲んだオレンジブルーがこちらをキッと睨みつける。満面の笑みで応えてやった。自由の効かない両腕に代わって、長い足が抵抗しようとジタバタ動く。飲まれることを忘れてつうと流れる唾液にちゅっと唇を落として、アイクは漸く彼を解放した。リアスは大きく息を吸い込んで、右腕を目にやって涙を拭いた。
「しぬかとおもった」
「死にたいって言ったのはそっちだよ?」
「『死にたい』とは言ってねえよ」
「同じだよ」
手のひらと手首の中間あたりで口を拭ってから、アイクはまた先程の冷たい目をした。
「許さないからね。僕を置いて、」
「…………わかってるよ」
「君が言うと冗談に聞こえないんだもの。困ったもんだ」
押し倒されたままだったリアスをよいしょ、抱き上げて、そのままキュッと抱きしめる。まだ少し落ち着かない呼吸と火照った体が愛おしくて、アイクは彼の首元に顔を埋め、そこに小さな花を咲かせた。痛かったのだろうか、抱きしめ返された腕の力が少し強まって、アイクは数時間ぶりに声をあげて笑った。
「かわいいねぇリアス」
「……………」
「君は可愛いよ」
可愛い君は、僕のもの。その美しい瞳も、柔く小さな唇も、時折ほんのりと赤く染まる真っ白な肌も、手入れされたラテカラーの髪でさえ、ぜーんぶ僕のもの。
爪の先まで。
瞳の奥まで。
その心だって。
死んでも離さない。