Recent Search
    Sign in to register your favorite tags
    Sign Up, Sign In

    hbnho210

    @hbnho210

    BMB!

    ☆quiet follow Send AirSkeb request Yell with Emoji 💖 👍 🎉 😍
    POIPOI 43

    hbnho210

    ☆quiet follow

    『キミとじゃなければ』参加作品◆タチアナがサティアと出逢い、本編、ヴィン愛へ至るまでを回顧しながら現在へと辿りつく物語。ネタばれあり。捏造設定あり。チェズレイも友情出演しています。◆事前参加のチェズレイとサティアの話と世界観がリンクしています。

    #チェズレイ
    chesley.
    #サティア

    『地獄の一丁目で逢いましょう』 大嫌い
     はじめて目があったその瞬間、ひとめで彼女を大嫌いになった。午后の陽光のなかで菫色の双眸が瞬きをするたびに、その瞳からは夜が生まれた。頬はヴィンウェイに降る初雪のように白く、微笑むと春を待ちこがれて山野に咲く名もなき花のように色づくけれど、すぐに蒼褪めて雪よりも白くなり、ふれなばわれてしまう薄氷のように透きとおった。月の光でそめたような髪は青い額をヴェールのようにおおい隠し頬を流れて肩に堕ち、腰までとどくほどに長い髪のそのひと房は呼吸をするたびに胸の上でゆれた。唇は、噛みしめると朱が刺すけれどその朱はすぐに散ってしまう花弁のように儚く、白い肉色の唇はまるで血の通っていない人形のよう。胸元には宝石もなく、あつらえられた上等な絹のドレスを着ている肉体は憂い、まるで此処ではない何処か遠くに在るような、彼女は、蜃気楼だった。

     彼女に会ったのは偶然ではなかった。しかし彼女にとっては私との邂逅は偶然であった。もうすぐヴィンウェイには冬が訪れる。そのまえにバラノフが所有する森へ遠乗りに出掛けようと部下を数人連れて私は青鹿毛の愛馬で森へ向かった。目的は、遠乗りではない。その森の奥深くの古い屋敷に最近棲みついたドブ鼠を視る為だった。今度の鼠の毛色は何色だろうか。ブルネット、それとも灼けた赤銅色、玉蜀黍のような黄色か。高価な宝石と、豪奢なドレスで飾りたてられ、あたえられた屋敷の壁に標本のように磔にされる女たち。彼女たちはただのコレクションにすぎなかった。今度の新しいコレクションは、冬が来れば雪に閉ざされ人の行き来もままならない森の奥深くの屋敷に囚われていた。かつては王の寵姫が住んでいた屋敷であったが今は古いだけの半壊しかけた屋敷だ。我が夫の新しい愛人はいったいどれほどみすぼらしい女なのだろうと興味をかきたてられ、冬将軍の行軍前にその顔を拝んでやろうと思ったのだ。忘れられた屋敷への道を部下に案内させ、白樺の小径を行くと、よく晴れた晩秋の午后の陽光のなかに、屋敷があらわれた。
     私は目を見張った。そこにある屋敷は私の記憶にある屋敷ではなかった。古く、朽ちていたはずの屋敷は古の栄華を追憶するが如くの趣きはそのままに、門も、屋根も、壁も、すべてが修繕されていた。そこには、王の寵愛を独占し贅の限りをつくしたかつての寵姫の館がふたたびその栄華を誇らんと甦っていた。
     そのとき、私は理解した。女は、森の奥深くに追いやられたのではない、隠されたのだ。誰の目にも触れないように、誰にもその存在を知られることのないように、幾重にも重ねた絹の衣に包むようにして、護られていたのだ。この女を、誰にも奪われない為に。
     我が夫がそこまでする女。いったいどんな女なのだろうと思いながら、しかしこれもまた夫の気まぐれな余興であることは解っていた。焚火のように一瞬、燃えあがってもやがて消炭になる、そんないつもの戯れ。そう思ってはいても、その女の事が気になった。門へ近づき、屋敷を見上げる。人の気配はなく、その華やかな様子とはうらはらに、屋敷は水底に沈んだように、しん、と静まり返っていた。不意に、馬が一声嘶いた。手綱を緩め、首を撫でてやると馬は満足そうに鼻を鳴らした。そのとき、頭上に気配を感じ、顔を上げた。先程までぴたりと閉じられていた屋敷の窓が開いて、白いカーテンが翻るその向こうにひとりの女が在た。女は、凝、とこちらを見て、そして、私に微笑んだ。
     その瞬間、私の血は逆流してマグマのように煮滾り心臓は爆発して肉体は一千億度の炎につつまれた。私は身体を灼かれながら瞬きすることもできずにその女を視ていた。女は、窓から身を乗りだして私のことを不思議そうにみつめている。
     何と、何と愚かな女なのだろう。人も訪れることのないこんな森の奥で、見知らぬ人間を生まれたばかりの兎のような目で見ながらまるで警戒する様子もない。屋敷に侵入しようと思えば今すぐにでもその門扉を蹴破り階段を駆け上がっておまえの処まで駆けてゆくことが出来るというのに。だのに、警戒よりも好奇心の勝る子供のような瞳で、この女は私に微笑みかけた。
     嗚呼、そうか、その微笑みで我が夫を篭絡したのか。
     菫色の瞳をかがやかせ、林檎のように頬をそめて、その小さな唇で嫣然と微笑んだのか。そして我が夫の手はその月魄の髪を撫で、物言わぬ唇に口吻けをして、宵闇にとけて失えてしまいそうにはかないその肉体を抱いたのか。夫の腕に抱かれながら、私に向けた微笑みと同じその微笑みを、夫へも向けたのか。
     殺そう
     この女を殺そう
     他の誰かの手にかかる前に、私がこの女の息の根を止めてもう二度と誰にもその微笑みを向けることができないように、私が、この手で殺す




    「……何をしに来たのかしら、ぼうや」
    「あなたがようやく捕まったと聞いて、その惨めな姿を嘲笑いにきてあげたのですよ」
    「粋な皮肉のひとつも言えないなんて、無粋なことね、ぼうや」
    「もうあなた相手には必要ないかと。もう、あなたには何も。私があなたと会うのもこれが最後です。もうあなたは私の世界から完全にいなくなるのですから」
     石の壁は百年の憎悪と恨みがこびりついて黒ずみ、よく掃除はされているがその穢れは決して拭い去ることができないとばかりに床には見えない積年の澱が幾重にも重なっていた。飾り気のない電灯がやけに明るくぎらついて女を照らしている。昼よりもなお明るい光のなかですべてを暴かれて、女は鉄と合皮の椅子に人形のように座っていた。強化硝子の向こうで、雑踏の中すれ違う見知らぬ人を見るように、目のまえに在る物体をただその瞳の玻璃に映しているだけのチェズレイにむかって、女は微笑う。
    「……いいわ、せっかくこんな地獄の果てまできたのだから、最後に想いで話をひとつしてあげましょう。……そう、貴方の母親の話を」
     此処には、大地を埋めつくす雪もなく、凍てついた風が吹くこともない。けれど、冬が過ぎ、春が来ても、此処に花は咲かない。あの、ヴィンウェイの野をあざやかに彩る花が咲くことは、永遠に、ない。



     永き冬の終わりを告げるように待雪草が咲くと、ヴィンウェイには春が訪れる。私は雪解けを待って夫を遠乗りへと誘った。馬は冬のあいだ走ることができなかったため、野に放たれると待ちきれないとばかりに春の大地へと駆けだした。私は愛馬の気の向くまま走りながら、あの森へと導くように手綱をとった。夫は、道を変えようと言ったが、私はそのまま走りつづけた。木洩れ陽が降りそそぐ白樺の小径をぬけると、其処には永き冬の眠りから目覚め春の陽光をいっぱいに浴びる白亜の屋敷が現れた。屋敷は、初めてみたあの日よりもずっと神々しく、まるでこの森の主が住む屋敷のように堂々としていた。夫はようやく私の魂胆に気付き深いため息をついたが、私は構わず馬を屋敷の門扉まで走らせると、愛馬は私に応えて大きく嘶いた。そして、あの日と同じように、瀟洒な細工で縁取られた窓が、開く。私の心臓は胸を突き破りボールのように地面を跳ねて転がって行きそうなほど強く跳ねた。ヴィンウェイの雪よりも白い頬を、黄昏色の双眸を、月光のようにかがやく長い髪を、そして、あの日、私に向けられた微笑みが、もう一度自分に向けられるその瞬間を、待った。
     愚かにもあの日、微笑みかけた見知らぬ女が自分をかこっている男の正妻だと知ったとき、あの微笑みがどんなふうに歪むのか、それを想うだけで全身がいいようもない快楽にふるえた。
     おまえを抱いた男は私のことも抱いたのだ。おまえの髪を撫でた手で私の髪を撫で、おまえの唇を吸った唇で私に口吻けをする。私は夫に抱かれるたびに、おまえの顔が嫉妬と苦痛に醜く歪んで身悶えるさまを想いながら全身でおまえの憎悪を感じていた。
     嗚呼、この日をどんなに待ち焦がれた事か!
     風が、芽吹いたばかりの緑もみずみずしい樹々の枝葉を薙いで吹くと、白金の長い髪が一本一本、光の道すじを描くように青空に流れた。白い指が髪をかきあげ、春風に誘われて花が目覚めるように菫色の双眸がゆっくりと、ひらく。そして、馬の鳴声のする眼下に視線を遣ると、陽の光を浴びて燃え立つ青鹿毛の見事な鬣に目を見張り、微笑んだ。しかし、その視線が青鹿毛の馬のうしろに在る、芦毛の馬に騎乗した人物を見た瞬間、白い額は蒼褪め、その顔から微笑みが失えた。
     待望んだ瞬間の訪れに気絶しそうなほどの歓びで肉体はふるえ、昂鳴る心臓を掴みながら瞬きすら惜しんでいた私は、その時、夫がどんな顔をしていたかは知らない。女が視線を反らし、窓を閉めようとしたその時、私を見て、とても哀しい、涙の海に溺れた瞳で、慈しむように、憐れむように、労わるように、微笑んだ。その場に夫と共に在た私が、自分をかこっている男の正妻だということにあの女は気付いたことだろう。それなのに、あの女は微笑った。私の顔を見て、慈悲深き聖母が迷い子を憐れむように、微笑ったのだ。

     あの日以来、私があの屋敷へ行くことはなかった。夫は、私に森への侵入を禁じた。夫は自分の愛人同士や、私が愛人たちと接触することを許さなかった。たとえ無力な女たちであっても結束すれば厄介な存在になることを理解していたのだろう。夫に恨みを持つ者は数多いる。夫に捨てられた愛人たちや酷い仕打ちを受けた女たちも然りだ。
    夫は、恨みがましく執拗い蛇のような女を忌んだ。愛玩するための人形にはその役目がある。夫は役目を見失い分をわきまえない人間を何よりも嫌った。無論、私にも妻という役目があり、私はその役目を忠実に果たしていた。

     暫くして、あのとき既にあの女の胎のなかには夫の子供が在たことを私は知った。他にも夫の子供はいたが、夫にとって夫の子供は自分だけの子供であり、そしてその子供はファミリーのための手駒でしかなく、子供の母親はその手駒をつくるためのよく耕された畑のようなものとしか考えていなかったのだろう。衰えて用済みになった畑の末路は、いつも惨めなものであった。しかし、あの女……サティア・ニコルズ。あの女だけは違った。夫は懐妊したサティアの屋敷へ足繫く通い、朝まで帰らぬ日もあった。身重の女がどんな無体な目にあっているかなど知る由もなかったが、夫がサティアの屋敷から帰って来ると、私は夫の寝所へしのび込み、夫に抱かれた。サティアを抱いたあとの夫は、殊更、私を優しく抱いた。私はサティアがどんなふうに夫の嗜虐心を満たすほど酷く蹂躙されたのかを、夫の指に、舌に、匂いに想像しながら、あの微笑みがこの男の身体の下で醜く歪むさまを、夢想した。

     人々は、笑顔のむこうで下世話な噂を楽しんでいたようだけれど、サティアが夫の子供を身籠ったことに私は何も感じなかった。手駒と土塊に、私が何を思うというのだろう。
     ただ、あの時の微笑みを、私は忘れることができなかった。サティアが私にむかって微笑んだあの微笑みを、私はあの日からずっと、くりかえし想いだしていた。追憶のなかで、サティアは私に微笑みかける。つめたい土のなかで雪解けを待つ、野に咲く花のように。

     月が満ちて、サティアが子供を産んだという話が私の耳にもくだらないゴシップのように届いた。子供が産まれても、サティアへの夫の執着は失えることはなく、夫はあの森の屋敷へと足を運んでいた。やがて、奇妙な噂がながれはじめる。夫は、愛人であるサティア以上にサティアの産んだ子供へ異様なまでの執着を向けているという、相も変わらずゴシップめいた話だ。その話から皆が考えることは、当然、バラノフの後継者に関する問題だ。夫の、自分の利になる者を嗅ぎ分ける嗅覚は鋭い。自分にとって有益な者は重用し、無益な者は切捨てる。それは、部下や身内、愛人や妻でさえ同様で、もちろん自分の子供であろうと夫は容赦しない。その夫が、執着している者。様々な憶測が飛び交い、人々は口々に噂する。
     ようやく子供への愛情が芽生えたのではないか。寵愛する女の子供は特別か。よほど優秀な子供のなのだろう。まだ年端もいかぬ子供の何が解るというのか。いったい、どんな子供なのだろうか。その、
     チェズレイという子供は。
     皆の関心が、サティアの産んだバラノフの息子へと押し寄せる。あの忘れられた森の奥深くで、いったい「何」が産まれたのか。怪物か、神の子か……、その存在は、災厄となるか、それとも福音となるのか。

     私のかしこい愛馬はあの屋敷への道を憶えていた。屋敷を警護する夫の部下たちをいくつかの宝石で買収し、私は馬に、白樺の木陰で待つように言いきかせて屋敷へとつづく小径を歩いた。空には雲もなく、どこまでも果てなくひろがる青が、この国に夏が訪れたことを教えてくれる。やわらかな草を踏みながら、木漏れ陽の降る道を歩く。やがて、白い風見鶏が見えてきた。生茂る樹々の砦に護られた屋敷はなおいっそうと神々しく、まるで「王」が住んでいる宮殿のように威光を放っていた。
     門扉の前に立ち二階を仰ぎ見たが、窓は閉ざされたまま、人の気配はない。門の扉に手をかけたその時、声がした。笑い声だ。誰の。いや、誰と、誰の。話し声は聴こえるが、何を言っているかは解らない。扉に鍵は掛かっていなかった。そのまま扉を押して庭へと足を踏入れる。屋敷の入口へと案内するように続く石畳の道から逸れて声のする方へ歩いてゆくと、薔薇の茂みに行く手を阻まれたが、その棘はまだやわらかく、上着の裾や髪にそっと戯れてくるだけで容易に手で退けることが出来た。次第に笑い声は鮮明になり、足音や、衣摺れの音が聴こえてくる。園丁が意匠を凝らし数種類の薔薇たちで造上げた薔薇の垣根の隙間に、顔を近づけた。
    「待って、チェズレイ、ああ、何て足がはやいの。その足には翼がついているのかしら、私の小さなヘルメス」
     あなたは、夏の日のかげろう。白くやわらかな蹠が萌える若草を踏む度にほそい足首から青い匂いがたちのぼり、絹衣が乱れるのもかわまずに投げだされた脚は駿馬の如く大地を駆けて、あらわになったふくらはぎはまだ春さえ知らぬ産まれたばかりの赤子のようにさっぱりと白く、ほどけたリボンがはりつく汗ばんだ胸もとは夏の陽光をあつめて太陽の欠片をちりばめたようにかがやいた。伸ばされた腕の、その手首、手のひら、指先は、果てへ々とどこまでものびてゆき、その果てをみつめる瞳は夜明けを待つ空の色、口の端に行儀よくならんだ白い歯がのぞくと、屋敷の庭に微笑い声が咲き乱れた。
     縦横無尽に、地へ、空へと貪欲にのびゆく蔓薔薇の、暴力的なまでの六月の生命力さえ、今のあなたには敵わないだろう。太陽をまるごと呑込んだようにかがやきに満ち々た肉体も、夜を超えて暁を翔けるその瞳も。
     この薔薇の垣根を飛び越えて、あなたに向かって手を伸ばせば、あなたはきっと私のまえから失えていなくなってしまうだろう。すべてが、其処に在るのに、遠くに在る、白昼の夢。
    「チェズレイ、つかまえた。悪戯な子、帽子を投げてしまうなんて。さあ、おかあさんのつくった帽子をかぶってちょうだい。今日はとても太陽が強いの。私の大切なあなたがバタークッキーのようにこんがりとおいしそうになってしまったら大変だわ」
     その命と、肉体のすべてを写したような、小さな小さな、もうひとりの“サティア”。瞳も頬も唇も、髪の一本さえも違うところなどひとつもない、奇怪で、おぞましい、グロテスクな生きもの。あれは何。サティアの胸に抱かれて、サティアの微笑みを一身に受けている、手足の生えた、肉塊。
     あれが子供か。子供とは、かくもあのように怪物じみたモノであっただろうか。手も、足も、少し力を入れただけで折れてしまうくらいに細く、片手でつかめそうなほど小さな頭は簡単に握りつぶすことができるだろう。それなのに、何故、あんなにも何も恐れるものなどないとばかりに傲慢で、世界のすべてを手に入れたように無敵なのか。我こそはこの世界の「王」と言わんばかりに。
     それが、サティア、おまえの子なのか。おまえの世界の王なのか。
     嗚呼、そうか、そうだったのか。その微笑みは我が夫でもなく、私でもなく、その子供のものだったのだ。おまえは、夫の腕に抱かれながら、私に微笑みかけながら、いつもあの子供にむかって微笑んでいたのだ。おまえが微笑んでいたのは、あの子供にだけであったのか。
    「チェズレイ、私のチェズレイ、おまえは私だけの子供。愛しい愛しい、私の可愛いチェズレイ」
     その微笑みを、私は知らない。最初に出逢ったときに私に向けられた微笑みでもなく、私のなかでくりかえし想いだしていた微笑みでもない、私の、知らない微笑み。
     そして、その微笑みが私へ向けられることはないだろう。もう二度と、サティアは私に微笑まない。
     私は、思いだした。初めて出逢ったあの日、生まれた殺意を。
     この女を殺したい
     憎い
     憎い
     憎い
     憎くて憎くて、憎くてたまらない
     もう二度と、誰にも微笑みかけることができないよう
     誰もおまえの微笑みを目にすることができないよう
     夫がその微笑みを求めることも
     息子が母の微笑みに抱かれることも
     もう二度とないよう
     私が、その微笑みを奪ってやろう
     夫はこの幼子のなかにその才を見出した。そして成長したこの子を今よりもっと愛するだろう。だが、サティア、おまえは夫に捨てられる。夫から疎まれ、腐った果実を処分するように捨てられたおまえは息子にさえ微笑むことができなくなるほどに苦しんで苦しんで苦しみ抜くがいい。おまえは子供を奪われ、この孤城にただ独りとなるのだ。




    「……そこからは、おまえにも教えてあげたわね。私がどうやってサティアと夫の仲を引裂いてサティアを死へと誘ったか、それはおまえも知っている通りよ」
     永い時を遡り、過去を掘り起こして積みあげた汚泥の山の醜悪な匂いは壁に、床に、吐息でくもる強化硝子にこびりついていつまでも悪臭を放っていた。
    「しぶとく何通も送られてきた夫宛の手紙には一文字々、丁寧な字で、あさましく醜い女の欲望が綴られていたわ。封を開いた手紙からはいつもあの庭の薔薇の匂いがした」
    「……その手紙は、どうしたのですか」
    「焼いて灰にして午后のお茶に入れて呑んだわ。この上なく甘美なお茶だった」
    「あなたは…………、……いえ、あなたの夫には他にも愛人がいたでしょうに、何故、……サティア、私の母にそこまで執着したのですか」
    「私に、微笑んだのよ」
     ヴィンウェイの森が冬を迎えて静かに眠りにつこうとするそのとき、彼女が微笑むと森は目醒め、緑は匂い花は咲きみだれて、森も世界も狂っていった。
    「その微笑みは邪悪で禁忌、あの女は恐ろしい魔女。私から夫を奪い、やがて私の世界をも奪ってゆくだろう。だから、私はあの女から夫の愛も、世界も、すべてを奪い返した。そして、何もかもを失ったあの女は死んだ。嗚呼、でも本当は、この手で、私のこの手で殺したかった。サティアの頭蓋骨をこの手で砕いて、白い小鳥のような首を両手で絞めて、その心臓に私の恨みのすべてを込めた杭を打ち込みたかった、永遠にこの地獄へ磔にするために」
    「……あなたはまだ、母のことが忘れられないのですね」
    「あの女は私に呪いをかけたのよ、死んでまでも忌々しい女……!」
     そう、それはまぎれもなく呪い。あなたが自分で自分自身へかけた呪い。あなたを蝕むその呪いを何というか、あなたは知っているのだろうか。それは、名前のない感情。……そして、その名も無き感情は、私のなかにも存在している。けれど、その感情を何と言えばいいのか、私たちは知らない。その感情を、あなたは、あなたもまた、抱いていたのだ。私の母、サティアに。
    「……あなたはここを地獄の果てとおっしゃいましたが、此処は地獄の果てなどではありませんよ。ここは、地獄の一丁目。そう、あなたの地獄はまだ、はじまったばかりなのですから」
    「サティアもこの地獄に在るのね」
    「母は、其処にはいないでしょう」
    「何千年、何億年かかろうと、必ず、絶対にみつけだしてやる」
    「……ご勝手に。地獄での時間には、果てがない。其処にあるのは終わりのない永遠です」
     救われることのない感情は死んでも死にきれず、名もなき墓標の下で苦しみ悶え、血をながしながら足掻きつづける。
    「嗚呼、そろそろ時間ですね。……それでは、タチアナ・バラノフ。哀れで惨めな、咎人よ。もう二度と、会うことはありません。さようなら、そして、地獄へどうぞ、いってらっしゃいませ。これにて……私たちの物語は、終焉りです」

     光が、死ぬ音がした。
     面会室の扉が閉じて、蛍光灯の灯りが失える。そこに在るのは闇い、どこまでも闇い、阿僧祇の虚空。“無”すらも存在しないそのなかで、やがて手も、足も、骨も、記憶も、精神も、すべてとけて失えてゆく。

     例え、この身が朽ちても魂が失えても世界が滅んでも、みつけだす。わたしはあなたを何処までも、永久に、求めつづける。




     ああ、見つけた、そこにいたのね、サティア
     会いたかった、会いたくて会いたくて何憶の眠れない夜が過ぎたことか
     何千億年ものあいだ何度肉体を灼かれても、今度こそあなたをこの手で殺すことができるのかと思うと、灼かれながら私は歓びにうちふるえた
     気が狂いそうだった
     あなたを、殺したくて
     この手であなたの心臓を抉って、この呪いと共に奈落へ突き堕としたくて
     嫌い
     嫌い
     大嫌い
     憎くて
     憎くて
     嗚呼、この身がよじれて砕けてしまいそうなくらい憎くてたまらない
     サティア
     わたしのサティア
     さあ、今こそ私の手で死になさい
     私と共に、永遠の地獄へ!!
      
      
     
     
     劇終
    Tap to full screen .Repost is prohibited
    👏👏👏👏👏❤❤❤❤❤❤👏👏👏👏🙏🙏🙏🙏🙏🙏🙏👏🌌🌙🎆🎇❄☘☃⭐💜🌲💜💜💜🍌🌠🌠🌠🌠🙏🙏😭💜👏👏👏👏💘👏👏👏👏👏👏👏👏👏
    Let's send reactions!
    Replies from the creator

    hbnho210

    SPUR MEルクアロ版ワンドロワンライさまよりお題:「バカップル」「たばこ」お借りしました!闇バもでてくる。ルクアロだけどBOND諸君がみんなで仲良く?しています。
    お題:「バカップル」「たばこ」7/16「キスしたときにたばこの味がすると、オトナのキスだな、て感じがするってむかし同級生の女の子が言っていたんだけど」
    「……女とそういう話するのか、意外だな」
    「ハイスクールのときだよ。隣の席の子が付き合いはじめたばかりの年上の彼氏の話をはじめると止まらなくて……それでさ、アーロンはどんな味がした」
    「何」
    「僕とキスをしたとき」
     午后の気怠さのなか、どうでもいい話をしながら、なんとなく唇がふれあって、舌先でつつくように唇を舐めたり、歯で唇をかるく喰んだり、唇と唇をすり合わせて、まるで小鳥が花の蜜を吸うように戯れていた二人は、だんだんとじれったくなってどちらからともなくそのまま深く口吻けをした。そうして白昼堂々、リビングのソファで長い々キスをして、ようやく唇を離したが、離れがたいとばかりに追いかける唇と、舌をのばしてその唇をむかえようとする唇は、いつ果てるともわからぬ情動のまま口吻けをくりかえした。このままではキスだけではすまなくなると思った二人はようやく唇を解いて呼吸を整えた。身体の疼きがおさまってきたそのとき、ルークが意味不明な問答を仕掛けてきた。アーロンは、まだ冷めやらぬ肉体の熱を無理矢理に抑込みながら寝起きでも元気に庭を走りまわる犬のような顔をしたルークの顔をまじまじと見た。
    2714

    related works

    hbnho210

    DONE『キミとじゃなければ』参加作品◆タチアナがサティアと出逢い、本編、ヴィン愛へ至るまでを回顧しながら現在へと辿りつく物語。ネタばれあり。捏造設定あり。チェズレイも友情出演しています。◆事前参加のチェズレイとサティアの話と世界観がリンクしています。
    『地獄の一丁目で逢いましょう』 大嫌い
     はじめて目があったその瞬間、ひとめで彼女を大嫌いになった。午后の陽光のなかで菫色の双眸が瞬きをするたびに、その瞳からは夜が生まれた。頬はヴィンウェイに降る初雪のように白く、微笑むと春を待ちこがれて山野に咲く名もなき花のように色づくけれど、すぐに蒼褪めて雪よりも白くなり、ふれなばわれてしまう薄氷のように透きとおった。月の光でそめたような髪は青い額をヴェールのようにおおい隠し頬を流れて肩に堕ち、腰までとどくほどに長い髪のそのひと房は呼吸をするたびに胸の上でゆれた。唇は、噛みしめると朱が刺すけれどその朱はすぐに散ってしまう花弁のように儚く、白い肉色の唇はまるで血の通っていない人形のよう。胸元には宝石もなく、あつらえられた上等な絹のドレスを着ている肉体は憂い、まるで此処ではない何処か遠くに在るような、彼女は、蜃気楼だった。
    8906

    recommended works