ビターチョコだなんて嘘だ 静まり返る真夜中。おそらくほとんどの人が眠っているであろう時間帯に歩くのは割と好きだ。澄んだ空気に革靴がコツコツと鳴り響くのは形容し難い心地良さを感じる。しかも、恋人の自宅に向かうとなれば尚更。
店を出る前にメッセージを送ったところ『執筆中なのでうるさくしないのであれば来ても良いですよ』という可愛げのない返事がきたことを思い出してくすりと笑う。
まあ、それでも「来るな」とは言わないのだから愛されているなぁ〜とか思ったりして。なんて自惚れかな。本人に聞いたら間違いなく「自惚れですね」と言われてしまいそうだ。
通い慣れた玄関の引き戸をカラカラと開け、一歩足を踏み入れると暖かい空気に混じって彼の使用する石けんの香りまで漂ってきたので不覚にも胸がときめく。
洗面所に向かう前に台所を覗くと、シンクに作り置き用のタッパーが空っぽの状態で横たわっていたため「よしよし、飯はちゃんと食ったな」と頭の中で独り言を呟いた。
しっかりと手洗いうがいを済ませた後はそっと書斎へと向かう。引き戸の向こうから漏れる光と文字を綴る音がほっと安心感を与えてくれる。
控えめに戸を開けたつもりだが、建て付けが悪いのが存外にも大きな音が響いてしまい、彼もそれを耳にして筆を止めたが一瞬だけだったようですぐに執筆を再開させた。
幻太郎のスケジュールは把握済みであり、締め切りまでまだ三週間もある。今日は筆が進むから書けるところまで書いてしまおう、といったところだろうか。つまり一二三に構う余裕もなくはないという状態だろう。その証拠に彼の小さな背中に抱きついても特に何も言われない。これが切羽詰まっている状況だとしたら問答無用で跳ね除けられているところだろう。
「幻太郎、ただいま」
「……ここは貴方の自宅ではありませんが」
「もう半分、家みたいなもんっしょ」
「駄犬を拾ったつもりはないんですがねぇ〜」
「駄犬ってひっでぇ〜!せめて野良犬にしてよ〜!」
幻太郎がふふ、と笑った後に小さな声で「おかえり、一二三」と言葉を紡いだ。
ずるいよなぁ。そういうところが俺を夢中にさせてるって分かってんのかな。彼の身体からは微かな汗の匂いしかしないため風呂はまだ入っていないのだろう。後で一緒に入っても良いな、と煩悩にまみれていると、不意にシャボンとは違う甘い匂いが漂ってきた。
ポリポリポリ、と可愛らしい咀嚼音が響く。甘い匂いの正体はこれか。
「なーに食べてんの?」
「コンビニで見かけて美味しそうと思って買ったんですよ。冬季限定のビターチョコのポッキーだそうです」
「へ〜、おいし?」
「ええ。普段こういった菓子を買うことはないので余計、美味に感じますね。貴方も食べたいならどうぞ」
普段買わないお菓子をねぇ。カレンダーをちらりと見て、はっはーんとひらめく。
日付けが変わって本日は11月11日である。世間ではポッキーの日と呼ばれており、それにかこつけて恋人同士はポッキーゲームなるものを行なうのが定番となっているそうだ。
つまり、だ。幻太郎は俺とポッキーゲームがしたくてポッキーを買ったのだろうと推測する。普段からスキンシップをとるのは一二三の方からで恥ずかしがり屋の幻太郎の方から仕掛けてくることはほぼない。だから、この日に乗っかる形で一二三とキスをしたいという合図なのだろう。素直に「キスがしたい」とは言えないからポッキーに罪を着せて。
しかも「美味しそうだから買った」だなんて見え透いた嘘までついて。
ホント、いじらしい奴。
幻太郎は少しだけ体を捻るとこちらを振り返って「食べないんですか?」と問いかけてくる。そして妖艶に笑うと濡れた口唇でポッキーを咥え込む。
そこまで煽られてしまっては乗らない方が失礼だろう、なんて心の中で言い訳をしてポッキーの端を咥えた。
俺だって我慢強い方ではないのだ。あっという間に彼の顔に近付くと、すぐさま唇を奪い取る。ちゅうと音を鳴らして紅唇を吸えば緩い悦楽が広がった。
これがビターチョコだなんて嘘だ。だってこんなにも甘い。
歯止めが効かなくなる前にとりあえず、と唇を離す。ラブラブイチャイチャはお風呂の中で。
幻太郎に向かい合い柔らかく微笑む……が、当の本人は何故か呆気に取られたような表情を浮かべていた。
「え〜!その表情、何〜?」
「……何、はこちらの台詞なんですけど……小生は何で今、口付けされたんですか?しかもポッキー食べながら」
「へっ?幻太郎がポッキーゲームしたがったんでしょ?今日、ポッキーの日だから」
「はい?ポッキーゲーム?ポッキーの日?何の話ですか?」
「え、違うん!?」
「そんなこと毛頭も考えてないです」
「はーー!?だってあんなに俺っちのこと誘ってたじゃん!表情で『一二三、チューして〜♡』って!」
「は、はあ?そんな表情してないですし、誘ってもないですけど!」
「じゃあ、あれは天然のエロい表情だったん!?」
「て、天然のって!……どうやら互いに行き違いがあったみたいですね」
「えぇ〜!行き違い〜……」
幻太郎の首筋に顔を埋めて「ホントにホントにこれっぽっちも考えてなかったん?俺っちとチューしたいなぁとかポッキーゲームして遊びたいなぁとか〜」と問いかけてみる。わざとぐすんぐすんと泣き真似も付け加えてやる。
てっきり「考えるはずないじゃないですか!」とズバッと切り捨てられるかと思いきや、存外にも彼は焦燥感に駆られた様子で「す、すみません」と呟いた。
わ〜!面白いからそのまま泣き真似してよっと。
しばらく、ぐすんぐすんと鼻を鳴らしていると幻太郎が再び口を開いて「あ、そうだ!小生、まだお風呂に入ってないんですよ!一二三と一緒に入りたいな〜って思ってて!」と見え透いた嘘をついてきた。普段なら幻太郎の方から一緒に風呂に入りたいだなんて言わないのに。俺を励ますためにそう言ってくれたのだろう。
あまりの可愛さに思わず首筋に顔を埋めたまま笑ってしまった。彼は気付いていないようだけど。
やっぱり俺は愛されているなぁとか思ったりして。自惚れかな?自惚れじゃないと良いな。
心の中の声が聞こえるはずがないのにそれに答えるようにして優しく頭を撫でられたものだから、たまにはこうやって健気な姿を見せるのも良いな、と再び笑った。