彼者誰刻のドラセナ「おはよう。今日も早いな」
深緑の香りが混ざる、透明な朝の光りを受けて、窓際のカーテンが揺れる。
己の声に嬉しそうに振り向いて、ふわりと胸に飛び込んで来たミスタを、ヴォックスは軽々と抱き止めた。
「良い天気だし、買い物にでもいこうか」
食が細いミスタの為に、朝はスープを作る事が日課になった。小さく刻んでトロトロになった野菜なら、文句を言わずにキチンと平らげて、低血圧の頬に血の気を廻らせうーんと伸びをする。
幸い本日は日曜日で、あちこちでマーケットが開催されている。芽吹きの季節を迎えて青々とした食料品を買い込み、ふとミスタを追って振り返ると、アンティークのアクセサリーを広げている一角で、何やら思案しているのが見えた。
『揃いで買うなら安くしておくよ』鍍金の剥げた真鍮製の、擦り切れた刻印が味があると、右手の薬指に嵌めて無邪気に笑う。
両手を併せると、既に左手を占有した白金のリングが呼応してキィンと鳴った。
少し人疲れしてきたミスタは空腹よりも家路を急ぐから、昼食は屋台で適当に買い込みながら、途中のイングリッシュガーデンで食べようと提案すると、本日の空のような瞳が春陽を受けてキラキラと輝いた。
結局、オレンジを溶かしたような太陽が黒い影を延ばして、冷気と共に夜を連れて来る頃、家に辿り着いた。
がちゃり。と開けた景色は、外よりも濃く、窓から侵入したオレンジと影のコントラストで静かに構成された空間に、茉莉花を濃密に煮詰めた甘ったるい薫りが満たされていた。
夜を纏って産まれた美丈夫は、初めて目覚めた様に金色の月を固めた瞳を見開いて、すぅ。と静かに落涙した。
夢幻の時は瞬きの内に過ぎた。
幸せだった。己の運命を忘れる程の。
あの子はもう居ないのだと、頬に拳を奮ってくれたマフィアも、己を殺す為に汎ゆる文献を基に力を使ってくれた呪術師も。皆が生きた記憶の記録を遺してくれた文豪も。もう還らない。
数十年に一度、夜に咲くこの華の薫りは鬼であるこの身を狂わせる。
人として生きる事を選んだ、愛して、哀した存在が。柔かく耳元で跳ねる薄柿色の髪、血の色が透ける白い肌、戯けた笑い声、真摯に届ける言の葉、太陽と海を抱いた瞳。甘い肌、温もり。
花が朽ちる迄の僅か7日程、鮮やかに肉を持ち、ヴォックスに寄り添う幻影。
「日本で『幸福の木』って言うんだって!数十年毎にしか花を付けないなんて、ヴォックスと同じで長生きだろ?」
「花言葉は『幸福・永遠の愛・隠し切れない幸せ』って言うんだよ」
照れながら、煌めく黄金の昼下りに、ミスタが微笑う。
静かに流れ続ける涙は、滴る蜜と混じってローズウッドに滲みを遺す。荒れ狂う激情も、心臓を擦り潰す絶望も、喉を裂く絶叫も、今は持たず。
静かに狂った鬼は、また数十年後の逢瀬を待ちながら、日常に溶け込むのだ。
「あぁ、ミスタ、この華にはもう一つ、花言葉があったよ」
《名も無い寂寥》