harvest moon どのような事にも。僅かなりとも動揺したり、我を忘れて動転するようなことは。
毛頭ない、あり得ないと。降谷は自負している。
極限の状態に晒され、叩きつけ、覚え込ませた、我が身の精神。
生死の狭間を潜り抜けやり遂げたトリプルフェイスの仮面は。伊達じゃない。
真っ暗闇に包まれている阿笠邸に。降谷は眉を寄せる。
この時間しか来れなかったことは、申し訳ないが。来ることは伝えているし、そもそもこの家にいる保護対象者の、定期面談が要件だ。留守にしているとは、思えないし、あってはならないことでもあるが。
門柱の灯りも付いておらず、いつもはサーチライトで明るくなる玄関前の灯りも、そのスイッチが切ってある。
この家の主の愛車であるビートルも見当たらないことを確認しながら。降谷は取りあえず、ドアホンを鳴らす。
『……どうぞ、入って』
至って普通通りの、当の面談の相手、保護観察者である少女、宮野志保の声がした。
不測の事態が起こっているのではないかという懸念は、どうやら消えた。
解錠の音と共に、扉を開きながら、降谷はため息と同時に苦言を呈す。
「宮野さん。暗闇で何をしているんですか。慣れているところでも、危ない…」
ただ。部屋の中が思ったよりも白む明かりに包まれていて、降谷は目を見張った。
広い窓から入る。さやかな月明かり。濃紺に染まったような夜空に輝く。まっ白な、月。
窓辺に立ち。志保はその月を見上げた。
「暗くした方がよく見えるんだもの。今日は中秋の名月よ、仕事ばかりのおまわりさん」
月の光を受け、その面影の境が分からないくらい薄闇に溶け、柔らかい声音で問いかける少女を、その姿を確かめるように視界に捉える。
「ああ…そうでしたね」
確かに足元の危なさも感じないほど照らされた中を、降谷も窓辺へと近づく。
夜空に満月が輝いていたのは、知っていた。今日の暦上の出来事も。でも確かに、こうして心を注いでそれを愛でる、その余裕は抜け落ちていた。
このまだ存在が定かではないような不安定な少女が。赴きがある季節の催しに気持ちを寄せているのが不思議な気もしたが。まあ間違いなく、ここの主の影響だろう。
「…阿笠さんは?」
まず、そのことを聞く。月明かりに浮かぶかすかな表情をゆるめ、志保は肩を竦めて言った。
「急にお得意先に呼ばれたの。あなたが来るから気にしていたけど。ダメかしら、博士がいないと」
「…ダメでは、ありませんが」
どちらかと言うと暗闇に招き入れるのを気にしてほしい、と思ったが。この少女と、こんなゆっくりとした、景色や空気に溶け込むような時間を過ごせることが。貴重で得がたいもののようにも、思えた。
窓辺には。ススキも飾ってある。
「…これは、阿笠さんが?」
「…そう。結構形から入るのよね。ススキには悪霊退散の威力があるから。供えなきゃ、っていってたわ」
「ああ、魔除けの意味合いが、ありますよね」
「それって、収穫物を守るための願いでしょ。ここに飾って意味、あるのかしら」
呆れたように言うが、阿笠博士が魔除けを飾りたがった意味合いは、本当は志保に伝わっているのだろう。
そんな照れ隠しのような少女の一面を見て、降谷は瞳を和らげた。
なかなか打ち解けてくれない、難しい娘、だけど。本当は優しい気持ちを持っていることを。自分は前から知っていた気がする。
だって。ずっと探し求めていた、少女なのだから。
降谷はつっ…と視線を、窓越しの月に移した。
…いや、良くない。感情的に見てはいけないと。一定の距離を取るよう自分に課しているのに。
……というよりこの子は。こんな2人きりの状態で。自分とこんな近くにいて、大丈夫なのだろうか。
「……綺麗、ですね。月」
差し障りのないことを。口にしてしまう。
それに頷きながら。志保は言った。
「ええ。でも、一番距離が近くて大きく見えるスーパームーンとは、違うんでしょう。なのにどうして今日の月が特別なのかしら」
「ああ、そうですね、確かに今年のスーパームーンは7月でしたが…」
答えながら。降谷は思わず笑ってしまった。
純粋に素直に楽しみ愛でればいいものを。この少女は、何でも分析し理屈や理由をつけないと気がすまないようだ。
彼女の本質にも迫る一面が見られた気がして。隣に視線を移すと、きょとんとした様子の志保と目があった。
降谷はすっ、と表情を落ち着けるが。内心鼓動を乱した。あれ。今、仮面がどこかにいってしまった気がする。
すると思いがけないものが目の前に現れた。彼女が。志保が。ふわりと、微笑んだのだ。
「フフ…あなた、そんな風に笑うのね」
それは……君の方だ。
月明かりに照らされた。やわらかくほどけるような、笑顔。
動きも言葉も奪われた降谷に。志保がさらに一歩、近づいた。
「……月と、同じ色」
透き通るような小さく細い指が。降谷の前髪を、梳く。
えっ………
時間も空間も。切り取られたかのように止まった。
志保は体を窓の方へ戻し。穏やかな瞳で月を見上げている。
…近づきすぎたら、いけない。
遠く、自身に戒めた警告が響く。
どうしてこの子はこんな無防備に近づいてくるんだろう。危うい、定まらない、不安定。
…もっと。放っておけなく、なってしまう。
無言で見つめてくる男に。彼女は再び小さく微笑んだ。今度は。どこか茶目っ気を含めて。
「少しは季節を感じて休めた? あなたいつも難しい顔してるんだもの。いつか倒れるわよ」
…俺の、ために。
不意に血が逆流した。足元が、震えた気がした。
「じゃ、そろそろ面談始める? 月明かりだけじゃ、暗いわよね、いくらなんでも」
身を翻し電気のスイッチへと伸びる指を見ながら。もう一度、その指先に触れてほしい、なんて。
……何考えているんだ。
茫然自失。その言葉がぴったりの男が、そこに立ち尽くしていた。