melancholy typhoon 長時間集中し、出来上がったデータを確認して。志保は深く息をついた。
「ようやく一息? 宮野さん、集中しすぎよ」
向かいのデスクから呆れを含んだ心配の声をかけられ。その同僚の女性に志保は小さく笑みを浮かべる。
「厳しい取引先からの依頼だから。気が張っちゃって」
志保の言葉に、そんな仕事内容あったかしら?という風に首を傾げている同僚にさらに苦笑して、ゆっくりと懲りこたまった腰を上げる。
手にしたのはデータを移したUSBメモリと、デスクチェアに描けていた薄手のカーディガン。季節の変わり目の今は、服装での体温調節が難しい。今日の薄曇りの気候では、このオフィス内と一歩出たビル内と、どちらが冷えているのかも分からなかった。
すぐ依頼主が来るの、と言い残して部屋から出る。志保の業務に、急な解析やデータ処理の依頼が来るのは、よくあることだった。その出元は警察機関。志保の今までの経歴や半生から来た関わりだが、それを拒否する気は、もちろん毛頭ない。ただ、今日だけは訳が違った。
(……なんであの人が来るのよ)
本来なら、こんなわざわざデータを受け取りに来るような立場の人ではない。普段はもう割りと顔見知りにもなって、気負わなくていい警察官に渡すだけで済んでいるのに。
はぁーっ…、とさらに大きな息をついて、志保は待ち合わせの場所である、このオフィスビルの人気のない一角へと向かっていた。
その足取りはふらついている。志保はあまり自覚していなかったが、重い頭を手で支えて考えた。この憂鬱の原因は何だろう。張り詰めて進めた解析作業。あの人と会うプレッシャー。あ、今、冷えてきた空気……
その時。くらり、と視界が揺れた。暗転しそうな気配にひやりとして、咄嗟に壁に半身を預ける。それでも崩折れそうだったが、急に熱くて力強いものに支えられた。
「な、何やってるんだ、君は」
間近で聞こえる聞き覚えのある声。でも、こんな焦ったような響きは初めてな気がする。
一瞬の間の後、さっ、と血の気が引き、力の入らない足に必死に意識を向け、態勢を整えつつその近くの熱をはね除けようとする。それで却ってバランスが崩れ、力を失う志保をさらに男が全身で支えた。
ち、近いっ…!
志保の細い体躯は大きな両腕で抱き込まれ、壁にも預けるようにしているが、それで余計支える相手が身を乗り上げるようにしている。足に力が入らないからか。志保の両足の隙間に筋肉質な相手の膝が挟み込まれていて、その熱を直に感じる。
「どっ、ど、どいてよっ……!」
助けてもらっている、というのは分かるが急激に走る鼓動と顔に昇る熱に、必死に志保は声を上げた。そんな声を出すことに体力使うな、とやれやれと言う風に、ぞんざいに、でも壊れ物を扱うように優しく、志保を支える熱の持ち主は姿勢を正していく。
でも、熱は離れてはいかなかった。未だ重心がふらつく志保をその身に預け、腰を支えるように抱き込み、さらに丁寧にカーディガンを手に取ると志保の肩に掛ける。その優しい手つきに、コントロールが出来ない身体と同様に、気持ちまでコントロールできなくなってしまう。
赤く染まっているであろう顔を、志保は上げれなかった。この状況に戸惑っているし反抗したいのに、その気力が出てこないのは、体調だけのせいではない気がした。だって今こんなに近くに彼がいて身を寄せられていて。感じるのは嫌悪感や拒絶反応ではない。こんなの、ただの恥じらいと……痛いほどのときめきだ。
降谷零。公安警察官であり、志保の生い立ちから今に至るまでの処遇に、確かに立ち会ってくれた人。
でも、彼はどこか高圧的な態度を崩さなかったし。志保との距離感もきちんと揺らがず取っていたから。志保は苦手意識を払拭することが出来なかった。近づかない方がいいし、近づくべきではないと、思っていた。
なのに。どうしてこの大きく温かい腕に。こんなに安心しているんだろう。
志保の定まらない視界が滲む。気づいたらいけないことに。気づきそうな、予感がする。
降谷はカーディガンと共に優しく志保の肩を包んだまま。口を開いた。
「…何しているんですか。そんな無理をしてまで、作業をするものじゃありません。連絡もらえば、融通も利くのに」
その声が呆れ嘲りを含んだように聞こえて。カッ、と志保は虚勢を張った。
「天気のせいよ。もうすぐ雨になるでしょう。低気圧に、やられているだけ」
それに降谷は意表をつかれたようだった。でも次の瞬間、ククッ、と笑い出す。
「……こんな状況で強気に出れるなんて。ほんと参りますね」
「な、何よ、バカにして」
さらに羞恥心で顔を赤く染めながら、それでも志保は言い放つ。確かに、身体を預けて言うセリフではない気がするが。自分だって好きこのんでこの態勢じゃ、ないのだ。
彼はしばらく心地よさそうに笑っていた。こんな身近でしかも親しげな雰囲気のこの人を見るのは初めてで。志保は戸惑いつつも、思わず見惚れていた。
ふと、笑い声が止む。そして今度は、深々と大きなため息が聞こえた。
え、何……と間近で感じる気持ちの移ろいに戸惑っていると。降谷が真っすぐな瞳を向けてきた。
志保は息を呑む。今まで見せられたことのない。貫くような、瞳。
「こんなに不用意に。付け入る隙だらけだったら。嵐に巻き込まれ兼ねなくなる。用心は決して怠らないように」
……これは。説教されているのだろうか。確かに。指導される案件だとは思うけど。
潤み赤い顔のまま今度は唇を噛み締めた志保に。目を伏せながら、苦しそうに男は呻いた。
「…こんな一番嵐を起こし兼ねない男に近づかないことだ。…低気圧にそんなに、弱いなら」
──その絞り出すような声がどんな意味を含んでいるのか。
支えられたまま聞くには、アンバランス過ぎて、志保には何も分からなかった。