カブさんにバレンタインチョコを渡しに行くユウリちゃんの話 バレンタイン。それは冬の終わり、大切な人にチョコレートを贈るイベントである。もとはカントーだかどこかで始まった風習らしいが、ここガラルでも徐々に──主に若者達の間で──浸透してきている。私もマリィと一緒にチョコを作って、ホップとビートにプレゼントした。ホップは勉強の合間に食べるぞ! とすごく喜んでくれたし、ビートも彼らしい憎まれ口を叩きながらもちゃんと受け取ってくれた。ジムチャレンジが終わってそれぞれの道に進んだあとも、こうして彼らとの付き合いが続いているのは本当に嬉しい。
ところで私にはもう一人、チョコレートを渡したい相手がいる。エンジンシティのジムリーダー、カブさんだ。
カブさんへの気持ちが恋なのか、と聞かれると、正直よく分からない。そういう関係になるにはあまりにも生きてきた時間の長さが違いすぎるし、想像しようとしてもうまくできないのだ。そもそもこんな子どもに言い寄られて本気にするほど、常識にとらわれていないタイプの人だとも思えない。そういうところも含めて好きなのだ。
それでも──たとえ恋ではないとしても、私は、カブさんにチョコを渡したい。このガラルに万といるであろうファンの一人として遠くから見るだけだった人と向かい合って戦えたこと、初めてカブさんの試合をテレビで見て以来、ずっと心に憧れとして燃え続けていたあの炎の熱を直に感じることができたことは、奇跡のようだと思うから。自分で掴んだこの奇跡を、無駄にしたくはないのだ。
そういうわけで、マリィと別れた私は一人、そらをとぶタクシーでエンジンシティに向かっている。手にはもちろん、カブさんに贈るためのチョコレートをばっちり持っているのだが……実を言うと、そのチョコ選びも困難を極めた。
好きな人に贈るならやっぱり手作り一択だよね、ああでも私とカブさんの関係ってもとを辿ればジムリーダーとファンなわけで、ファンからの差し入れには手作りの菓子なんかご法度なのは常識で、いやそうは言っても今の私はチャンピオンで、この前だってジムで暴れてたダイマックスポケモンを一緒に鎮めた仲だし、リーグカードのレアなやつだって貰ったんだからもうそんな一ファンに留まってるだけの間柄ではなくない? そもそもカブさんって甘いもの好きなのかな、無難にお茶とかのほうがいいのかも……
などとマホミルが三十匹は進化できそうなくらいぐるぐるぐるぐる考えた末、結局、シュートシティの老舗パティスリーの、バレンタイン限定チョコレートに決めた。ポケモンも食べられるということが売りらしいから、もしカブさんの口に合わなくても、手持ちの子たちに食べてもらえるだろう。高級チョコでもあっさり買えてしまうチャンピオンとしての財力が有り難いが、そのくせこんなところで守りに入るのかお前は、と自分で自分のヘタレさに呆れてしまう。
「勝者、エンジンシティの──」
審判の声がスタジアム中に響き渡り、フィールドに立つ二人のトレーナーが握手を交わす。
今行われていたのは、ジム所属のトレーナー同士の交流戦だ。ホームであるエンジンシティジムからはシャンデラ使いの二〇歳くらいのお兄さん、対する相手はアラベスクタウンジム所属のアブリボン使いのマダムが出ていた。ジムチャレンジほどの賑わいはないが、それでも客席はそこそこ埋まっている。観客の多くは気楽な普段着姿で、おそらく散歩の延長感覚でふらりと観戦に来た町の住人なのだろう。カップルや家族連れもちらほら見える。
試合後の独特な高揚感に包まれている客席をあとにして、ジムのロビーに戻る。受付で名乗り、カブさんに用事があることを伝えると、スタッフさんは快く関係者通用口に通してくれた。チャンピオンという身分はこういう時に役に立つ。断じて濫用などしていない。
慌ただしくスタッフさんが行き来するバックヤードの廊下を進み、カブさんがいるというジムリーダー控え室へ向かう。さっきまでなんともなかったというのに、急に心臓が早鐘を打ち始めてきた。一定のスピードを保って歩くことに集中する。そうしていないと、来た道を逆方向に走り出してしまいそうだった。
大丈夫、大丈夫。何も構えることはない、ちょっと近くに立ち寄ったからお土産を渡しに来ただけ、という感じでスマートに渡せばいいのだ。不自然なところなんて、どこにもない。
心の中で自分に言い聞かせるだけでは足りず、ぶつぶつつぶやきながら歩く私の横を、スタッフさんが怪訝な顔で通り過ぎていった。死ぬほど恥ずかしいが、そんなことを思っている場合ではない。こうしている間にも私の足は着実にカブさんのいる部屋に近づいているのだ。
三回目の脳内シミュレーションに差し掛かった時、私は急停止した。いる。廊下の向こうから、カブさんが歩いてきている。え、ちょっと待って、まだ、心の準備が──
「ユウリ! 久しぶりだね」
「あっ、お、お久しぶりです、カブさん」
「今日はなぜここに? もしかして、試合を見に来てくれたのかい?」
「はい、さっきのバトル、途中まで押されてたのに、ラストのシャンデラで一気に逆転して……すごかったです!さすが、カブさんのお弟子さんですね」
「ぼくは何もしていない、彼の実力だよ。うちのジムでも特に実力をつけてきているトレーナーなんだ」
おなじみのユニフォームに首タオル姿のカブさんは、いきなり仕事場にやってきた私にも嫌な顔ひとつせず接してくれた。もちろんそれは私だからというわけではなく、カブさんは誰が来てもこうやって快く迎えるのだろうということくらい、ちゃんと心得ている。繰り返すが私はカブさんのそういう紳士的で、誰に対しても誠実に接するところも好きだ。
「フェアリータイプの攻撃は炎タイプのポケモンにはあまり効かないから、もともとこちらが有利だったけれどね。そんな状況をものともせず、あれだけ追いつめたんだ。相当場数を踏んでいるトレーナーだってすぐに分かったよ」
さっきのバトルについて、カブさんは楽しそうに話してくれる。バトルの話をするのはもちろん私も大好きだから、普段ならここぞとばかりに喋り倒すところだが、今日はそういうわけにもいかない。
いつ、鞄の中のチョコを渡そうか。頭の中はそのことで一杯だ。でも、会話に集中していないことをカブさんに悟られるなんてもってのほか。脳をフル回転させて会話に応えつつ、渡すタイミングを伺う。
「……ジムリーダー! もうすぐミーティングの時間ですよ」
頭がオーバーヒート寸前にまでなったとき、廊下の向こうからスタッフさんが呼ぶ声が聞こえた。
「おや、もうそんな時間だったか。随分と話し込んでしまったね」
壁に掛けられた時計に目をやる。試合が終わった時刻から、もうすぐ一時間が経とうとしていた。
「それじゃあ、ぼくは行くよ。今日は来てくれてありがとう」
あ、行っちゃう。そんな、まだ渡せてないのに。でも、こんなところで引き留めたら迷惑かも。諦める? ……ううん、それは、できない。なら、今いくしかない。
「ま……待って、ください!」
思ったより大きな声を出してしまった。カブさんが振り返る。少し面食らってるみたいな顔をしていて、それだけで引き返したくなるけれど、今更そんなことできるはずがない。逃げ出そうとする自分を叱りつけながら、むりやり一歩踏み出した。
「カブさん、あのっ、こ、これっ、よかったら、どうぞ……っ!」
唐突に、何の脈絡もなく、切り出してしまった。しかも噛みまくって。
スマートはどこに行った。本当にお前はジムチャレンジと決勝トーナメントを全戦全勝で駆け抜けたユウリなのか。
いきなり目の前に箱を突きつけられて、さっきよりもさらに目を丸くしていたカブさんは、けれども一瞬ののちにそれを手に取ってくれた。
「開けても?」
はい、どうぞ、お好きなように。口に出してそう言う代わりに、ぶんぶん首を振って頷いた。
ごつごつした指がリボンを解いていく。いかにもカブさんらしい几帳面な手つきで。やめてくださいそんな丁寧に扱ってもらえるほどのものじゃないんです、どうかひと思いにバリッと開けちゃって下さい! という言葉が喉元まで込み上がってくる。じっと見ていたいのに、しっかり踏ん張っていないとすぐ目をそらしてしまいそうだ。
そうして、ゆっくりと蓋が開けられる。
「これは……」
反応を見るのが怖くて、カブさんの顔を直視できない。
はい、そうです。バレンタインのプレゼントです。厚かましくも私は一ファンでありながら、カブさんにチョコを手渡ししてしまいました。甘いもの嫌いだったらジムのポケモンにでも……いやそれも残飯処理係みたいでポケモン達に失礼な話だ──
「……ラブカスの形のチョコレートかい?」
それがポケモンの名前だと気がつくのに、しばらく時間がかかった。
ラブカス。ラブカス。知っている。そう、ポケモン研究所にあった全国図観で見た覚えがある。確かホウエン地方で発見された、暖かい海で暮らす水タイプのポケモン……だったか。
「へえ……今の若い人たちの間ではこういうのが流行ってるんだねえ」
カブさんは箱に並べられたチョコのひとつをつまみ上げて、感心したように呟いた。確かに図鑑で見たそのポケモンと形はそっくりで、色も──ロゼルの実を配合しているのが、今年の新作の特徴だとパティスリーの店員さんは言っていた──よく似ていた。
「懐かしいなあ、ガラルにラブカスはいないから……ぼくも子どもの頃はよく釣りに行ったものだよ」
そう言って、カブさんはいつもの柔和な顔で笑った。試合中のきりっとした表情からは想像もつかないけれど、間違いなく私の知っているカブさんは、こういう顔で笑う人だ。
そっか。カブさんにも、子どもの頃があったのか。カブさんは、どんな風に笑う子どもだったんだろう。
「そうだ、お返しと言ってはなんだけど」
ちょっと待ってて、と言ってカブさんは元来た方へ小走りに駆けていった。程なくして戻ってきたその手には、〈名物 フエンせんべい〉と書かれた大きな袋があった。
「きみのポケモンくんたちと一緒に食べてくれ」
「そんな、私が勝手に押しかけてきただけなのに……申し訳ないです」
「まあまあ、ちょうどホウエンからたくさん送られてきてね。それとも、こういうお菓子はあまり好きじゃなかったかい?」
そんなことを言われてしまったら、もう受け取るしかない。
「ありがとうございます、カブさん!」
「こちらこそ。またいつでも遊びに来てくれ。……そのうちまた君とバトルできることも楽しみにしてるよ」
三番道路へつながる橋で立ち止まり、ボールからポケモン達を出す。今日カブさんにチョコを渡すことはさんざん聞いてもらっていたから、ひとまず無事に渡せたことを報告する。……まあ、みんなそんなに興味なさそうだったけれど。でも、もらったフエンせんべいは喜んで食べてくれた。
私も一枚かじりながら、橋の上からの景色に目をやった。エンジンシティはすっかり夕日に染まっている。カブさんとマルヤクデが燃やすあの炎と、同じ色だ。
「やっぱり、好きだなあ」
隣のエースバーンが、「ふぁ?」と耳を立てる。言い直す代わりに、また相談乗ってくれる? と聞いてみたら、やれやれという顔をしながらも、こつんと拳をぶつけてくれた。