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    巨大な石の顔

    2022.6.1 Pixivから移転しました。魔道祖師の同人作品をあげていきます。

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    巨大な石の顔

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    サンサーラシリーズ第一章。兄上が江澄への片思いを自覚する話。オリキャラが出ます。

    #魔道祖師
    GrandmasterOfDemonicCultivation
    #藍曦臣
    lanXichen
    #江澄
    lakeshore
    #曦澄
    #オリキャラ注意
    orientedCharacterAttention

    天人五衰(四) 涅槃へ行って阿瑶へ謝ることさえも許されないのか。涅槃へ行っても彼らはまだいないのだ。
     藍曦臣は嘆きのあまり顔を覆った。
     彼らの魂が来世を望んであの狭い棺桶から抜け出るだろうと思い込んでいた。自身の見通しの甘さにも気分が悪い。どうして私はいつまでたっても愚かなのか。
     聶懐桑が帰ってから寒室にいたときのように深い自己嫌悪の沼に陥っていた。
     もはや金麟台に彼が滞在する意味を見出せなかった。明日にでも雲深不知処へ戻り再度の閉関をすべきだろうかと悩んでいたその矢先。
     どんどんと激しく部屋の扉を叩かれた。
     こんな夜更けに何ごとだろう、きっとろくでもないことだと今は気分がすこぶるよくない藍曦臣は無視を決め込んだ。しかし扉を叩く音は止むことはなかった。
     むしろ足で蹴っているかのようで今にも扉を壊しそうな勢いだった。さすがに眉をひそめて開けると、藍曦臣の護衛にひそかについている人物が息を切らして立っていた。
     背が高いから男の子だとてっきり思っていたが、護衛の正体は楚々とした顔立ちの少女であった。思追たちよりもずいぶんあどけない顔をしている。十四、五歳ぐらいだろうか。
     彼女はいつも遠からず近からず適度な距離で藍曦臣の様子をうかがってくるが、これまで決して彼に接触してくることはなかった。
     何があったのだろうか。
     白蓮蓮と名乗る――本人は正真正銘本名だと言った――雲夢江氏の子弟は、まなじりに涙を浮かべて必死の形相で藍宗主に懇願した。
    「沢蕪君、師父が、いえ江宗主が大変な状態なんです。あの方をどうかお助けください!」
     今夜行われた夜狩りで魔物に襲われた姑蘇藍氏の子弟たちをかばって重症だという。
    「君も夜狩りに参加していたのか?」
    「いいえ報告することがあって私は江宗主のお帰りを金麟台で待っていましたところ、意識のない宗主が運び込まれてきたのです」
     金凌が担架に乗せられた江宗主のそばで半狂乱になっていたという。遠目にもずいぶん顔の色がよくなかったと白蓮蓮は言った。
     藍曦臣は顔をこわばらせた。なぜ悪いことほど重なるものなのか。
     蓮蓮は御剣ができると言うので藍曦臣はのせてもらったが、彼女は金麟台の門前に降りずに江宗主が運び込まれた部屋がある庭へひっそりと音もなく下降した。
     空からの侵攻を防ぐためどこの仙府も結界が通常張り巡らされているが、彼女はある一角から勝手知ったる出入り口のように易々と侵入したのだ。
    「結界にほんのちょっとだけ穴が空いていましたね。なんていう偶然かしら!」と若い弟子は藍宗主にわざとらしく言った。もちろんあらかじめ抜け道を作っていたのだ。
     この子は何度もここへそのように出入りしていそうだと藍曦臣は思った。おそらくは蓮池の四阿にいる絵師の様子をうかがうためだろう。それでも他家の結界を破って侵入し藍曦臣にすら見つかっていないとはなかなかの才能の持ち主だ。聞けば雲夢江氏への弟子入りは二年前だという。なかなかではない、これは抜きんでた才能だ。彼女はどうやら将来の雲夢江氏大師兄ならぬ大師姉候補のようだ。
     部屋の入り口で人だかりができている。蘭陵金氏や姑蘇藍氏の校服に身を包んだ少年少女たちがおろおろしていた。藍氏の門弟はどの子も見覚えのない顔だった。
    「雲深不知処へ、思追と景儀へ至急こちらに来るように連絡しなさい」
     先導する白蓮蓮の後に続いて少年少女たちをかき分けながら、藍曦臣は姑蘇藍氏の子弟たちにそう命じた。
    「あっはい!」
    「もう連絡しています!」
    「って、え? え? 今の誰?」
     姑蘇藍氏の少年と少女たちは顔を見合わせる。雲夢江氏の子弟に案内されていた今の怪しげな風体の男はどうして先輩たちのことを知っているのだろう?
     江宗主が運ばれた部屋へ入ると、叔父が横たわる寝台のそばで金凌は恐慌状態だった。高く結わえた髪を振り乱して辺りもはばからず泣きわめいていた。彼の飼い犬である仙子がそのそばをどうしたものかとおろおろ歩き回っている。
    「叔父上、叔父上! 嫌だよ俺をおいていかないでくれよ。あなたまで死んじゃったら俺とうとう一人ぼっちじゃん」
    「金宗主、落ち着きなさい! 君がそれでは助かるものも助からない」
     泣きわめいている金凌へ一喝すると彼は弾かれたように振り返った。
    「ああ、沢蕪君! どうしてこちらへ?」
    「私がお連れしました」
     白蓮蓮が藍曦臣の横から進み出て金宗主に拱手した。
    「蓮蓮どうしてお前がここに……まあ今はそんなことどうでもいい、沢蕪君を連れてきてくれたのはでかした! 沢蕪君、どうか叔父上を助けてください。後生ですから!」
     金宗主が謎の男を沢蕪君と呼びかけ床に座って頭を下げているのをみて、部屋の外にいた姑蘇藍氏の子弟たちは衝撃ともいえる驚きをもってふたたび互いに顔を見合わせた。
     長く閉関しているはずの藍家宗主がどうして金麟台にいるのか。それも校服どころか抹額すら身につけず。次々と湧き上がる疑問に答えてくれる人は今は誰もいない。
    「金宗主。お立ちなさい。それからどうしてこうなったのか、事情を説明してほしい」
     藍曦臣は年若い宗主を落ち着かせるように静かに言った。金凌は涙を袖口で乱暴にぬぐって立ち上がる。主と一緒に伏せていた仙子もまた起き上がった
     金凌によると、今夜の獲物は九尾の狐の親子だったという。金凌と主管たちは親狐を、蘭陵金氏と姑蘇藍氏の若い子弟は子狐をそれぞれ仕留めようとした。あと一歩というところまで子弟が追いつめたとき、子狐は尻尾の一本をくいちぎって弟子たちに放り投げた。
     尻尾が落ちた場所からもくもくと黄色い霧が発生した。卵の腐ったような匂いが漂った。まちがいなく毒霧だった。子弟たちの後方から勢いよく紫電が飛び出し、霧が立ち込め始めた中であっても子狐を探し当てその首を絞め上げこと切れさせた。
     しかし、毒霧はあっという間に辺り一面に蔓延してしまった。親狐の姿は霧の中に消えてしまい逃がしてしまった。
    金凌は全員を急いで森から退却させたところ、姑蘇藍氏の門弟一人と彼の叔父である江宗主がいなかった。
     叔父と門弟を探しに森へ引き返そうとしたとき、江宗主が血まみれの校服に身を包んだ少年を背負っておぼつかない足取りで木々の間から現れた。子弟は深い傷を負って気絶していたのだ。
     江宗主の肩にかつがれていた子弟は、宗主に手で口と鼻を覆ってもらったが、当の江宗主は毒霧を少なからず吸ってしまっていて、金凌が駆け寄ったときにその場で倒れ伏してしまった。
    「俺が子弟たちから目を離していなかったらこんなことにはならなかった」
     金凌は再び涙を流しながら拳を震わせた。自身のうかつさでたった一人の家族を死なせてしまったら、きっと彼は藍曦臣以上に深い傷を心に残すだろう。
     今は慰めの言葉は空回りしそうだったので何も言わなかった。魏公子ならば思追たちにやっているように頭を撫でまわすのだろうがそれも家規が身に染み込んでしまっている藍曦臣としてはためらいを覚えた。
     やるべきことをやろうと、藍曦臣は寝台のそばに腰かけさっと江宗主の体をみた。
     よく日に焼けていた皮膚は今やおどろおどろしい青緑色に変化している。呼吸も浅く脈は異様に速い。唇から泡がいくつか漏れている。肺に水が溜まっているあかしだ。先日、凛とした強い生気を放って藍曦臣を驚かせた彼は毒のせいで今や見る影もない。
     最悪だと藍曦臣は思った。もって明日の朝だ。
     ああ天よ、どうして私が好感を持っている人をまた私から奪おうとするのだ。
     次から次へと過酷な運命を課してくる天を恨みそうになったがそれで江宗主が助かるはずもない。藍曦臣はためらうことなく、力のない江宗主の手をとって握った。
     死なせない、私の前ではもう誰も。
     書物で得た無尽蔵に近い知識から藍曦臣は毒への対処法をすばやく思いついた。それをすぐさま金凌に授けた。
    「九尾の狐にかぎらず、花のしずくには魔物が放つあらゆる毒を浄化する力がある。幸い今は夜だ。花びらにしずくがついている時間帯だ。蘭陵中の花を切ってそのしずくをかき集めて江宗主に飲ませなさい」
     初夏の今咲いている花はまさに蘭陵金氏を象徴する金星雪浪だった。幸いなことにちょうどかれんな白牡丹は満開だった。あとは時間との勝負だ。
     涙と鼻水を一気にぬぐうと、金宗主は藍曦臣に拱手した。
    「恩に着ます、沢蕪君! 蓮蓮、お前は蓮花塢へ今沢蕪君がおっしゃことを至急知らせろ。うちの子弟は蘭陵中の花卉農家という農家へ花を買い占めにいけ! 他の世家の子弟たちは俺と一緒に金麟台中の牡丹をかき集めろ! 叔父上の命がかかっている、急げ!」
     さきほどの狂乱ぶりは嘘のようにてきぱきと子弟たちへ指示をだしていった。
    「沢蕪君、何をなさるつもりですか?」
     金凌は叔父の手を握って離そうとしない藍宗主をいぶかしんだ。
    「江宗主の肺に溜まっている水を私にうつします。多少の時間稼ぎにはなる」
    「! そんなことしたらあなたまで毒が回ってしまう。俺が、俺がやります!」
     叔父の握られていないもう片方の手を握ろうとするのを、長い腕によって制された。
    「未来のある若者は人助けに外を走り回りなさい。こういう危ない仕事は引きこもっている年寄りの役目だ」
    「だけど!」
     あなただって弱っているはずだという言葉を金凌はすんでのところで飲み込んだ。そんなことさすがに何より彼自身がもっともわかっているはずだ。
    「金宗主。もう一人の君の叔父を私に助けさせてほしい。もう誰も失いたくないのです、私の前で」
     後悔を繰り返したくないのだと彼は誠意をこめて言った。
    金凌ははっと息を呑んだ。剣を佩かなくても身嗜みが整っていなくても、たしかにそこに射日の英雄とたたえられた沢蕪君がいたからだ。
    「わかりました。でも決して無理はしないで下さい。でないと俺があとで外叔父上に怒られる」
    「なぜ?」
     藍曦臣は切れ長の双眸を瞬かせた。彼は江宗主に心配される理由が心底わからなかった。
     すると、金凌は母方の叔父と藍宗主を交互に見た。何か迷っているようだったが彼もまた腹をくくった表情を浮かべた。
    「叔父上、いっつも悪ぶるし本音を言わないだろうから代わりに俺が言います! 封印の儀式の後閉関なさったあなたのことを外叔父上はずっと気にしていました。座学時代に恩を受けたからだって。こないだここへ来たのもほんとは夜狩りなんてなくて執務が休みだったからわざわざあなたの様子を見に来たんです! だから恩人のあなたにもしものことがあっても叔父上が悲しみます」
     藍曦臣は一筋の雷に打たれたかのような衝撃をもって意識のない江宗主を見下ろした。
     では護衛をつけたのも宿で料理をふるまったのも、金凌のためではなく正真正銘私のためだったというのか。わざわざ休みの日に四阿へ来てくれたのも。
     何かあなたに恩をさずけたことなど一度としてないのに。
    「江宗主、あなたという人は……」
     藍曦臣は握る手にさらに力をこめた。手に全神経を集中させる。小さなヒルのような黒い虫が無数に江宗主の手から藍曦臣の手のひらへ集まってきた。
     さあ来るがいい、この人はお前たちなどにはけっして渡さない。
     虫は溶けるように藍曦臣の中へ入ると腕へ心臓へ血管を伝って這い上がってきた。やがて大きな黒い塊になって血管を食い破る勢いで走り回った。ぞわぞわと内側を這い回られる感覚に寒気を覚えて、わきや背中からどっと冷や汗が流れる。
     思わず手を放したい衝動にかられても藍曦臣はこらえた。肺へ到達する前に開いている片手で素早く経穴をついて化け物を胃へ誘導させる。かつての霊力があれば水毒と引き換えにそれを江宗主の体へ注ぎ込めただろう。
     ああ、今の私に霊力がないばかりにこの菩薩のように優しい人を喪ってしまうのかもしれない。
     閉関前ならば、と藍曦臣は唇を噛んだ。そのとき胃から胃液とともに死臭のような生臭い液体がせりあがってきた。気付いたら床へどす黒い水をぶちまけてしまった。
     金凌と仙子は黒い噴水からすんでのところでとびすさる。
    「甕、空いている甕を持ってくる!」
     金凌が用意してくれた大きな甕へ、藍曦臣はどす黒い水を吐き続けて朝を迎えた。江澄は泡を吹かなくなったが皮膚の色に変化はない。
     花のしずくはまだだろうかと焦りを抱き始めたとき、小双璧はもちろん弟とその道侶までが金麟台へ到着した。
     まだ金星雪浪のしずくを集めているだろう金凌を手伝うように藍曦臣は小双璧に指示をだした。
     魏無羨はつかつかと大股でやってきて藍曦臣の前に大きな水嚢を突き出した。鼻先をふわっと包み込むような甘い香りがうっすらたちあがる。木蓮の花だ。
    「沢蕪君、すみません。こいつのために雲深不知処に植わっている木蓮という木蓮を斬りました。寒室の前の木蓮ももちろん斬りました」
     ちっとも申し訳ないと思っていない態度で魏無羨は言って江澄の枕もとに立とうとした。なみなみならぬ勢いにおされて藍曦臣はその場所を譲らざるをえなかった。
     いったい彼は何をしようとしているのだろうか。
     すると、魏無羨は寝台の端へのしかかりいまだ意識のない江宗主の上半身を片腕で起こした。
     そして信じがたいことに水嚢の水を自ら口に含み彼の口へ移して飲ませた。何度も何度も。
     藍曦臣は唖然とするとともに胸の奥が激しくきしんだ。
     ちらりとみやると弟もまた複雑そうな表情を浮かべている。今二人は全く同じ顔になっているに違いない。
     やっぱりお前も嫌だよね。
     弟がそう思うのは陽が東から昇って西に沈むごとく当たり前のように理解できたが、なぜ自分がこうも目の前の光景に胸をえぐられたような強い衝撃を受けているのか藍曦臣本人にはすぐにはわからなかった。


     半時ぐらいたったときだ。金凌と小双璧は牡丹の花びらを髪にいくつもくっつけて戻ってきた。彼らは魏無羨が寝台にのしかかり江宗主に口づけしているところを目の当たりにしてしまった。
     驚きのあまりか金凌は絶叫して、その声にびっくりした藍思追がお盆から金色に輝く杯をひっくり返してうっかり割ってしまい、藍景儀がせっかくかきあつめた花のしずくが入った水差しを床へ落とした――藍忘機が地に落ちる寸前に避塵に拾わせてことなきを得た。
    「ええい、これは応急処置だ! 俺だって好きでやっているわけじゃない。お前たち妙な想像をするんじゃない!!」
     魏無羨は動揺の激しい少年組を一喝した。
     好きでやっているわけじゃないなら今すぐ私に代われと思わず怒鳴りそうになるのを藍曦臣はどうにかこらえた。
    「こんなのこんなのうそだうそだ」と目を覆って頭を何度もふっている金凌に、「細い飲み口が付いた小さな水差しか何かないだろうか」と苛立ちを含んだ声で彼は尋ねた。
     藍曦臣は自身を温和な方だと思っていたが、こんなに激しい怒りを誰かに抱くなんて思いもしなかった。
     もうこれ以上この場にいるのは耐えられそうになかった。観音廟事件のときほどに気分は最悪だった。
     金凌に近寄るとなぜか彼はひっと悲鳴をあげた。表情筋が最大限ひきつっている。小双璧たちも青ざめている。まるで凶悪な邪祟りにでも遭遇したかのようだ。あとで聞いてみたら藍曦臣の背中に夜叉のごとき悪鬼の幻覚がみえたという。
    「飲み口が付いた小さな水差しですか――ああそうだ、硯用の水差しなんてどうでしょうか? 少量ずつ飲ませられるから誤嚥のおそれもなくてたいへん便利……あれ、私何か変なこと言いました?」
     江宗主を除いてその場にいた全員の視線が藍思追へ集中した。次の瞬間、魏無羨は「ああああ!」と叫んで首筋まで真っ赤にした。
     少年組三人が硯用の水差しを探しに駆け出して行ったあと、すぐに藍忘機は江宗主から道侶を引きはがし、すっぽり空いたそこへ当然のように藍曦臣は腰かけた。
     魏無羨は双璧二人の連携の良さに垂れた切れ長の瞳をこれ以上なく大きく見開いた。
    「金凌たちに硯用の水差しを持ってきてもらったら私が江宗主に花のしずくを飲ませて差し上げよう。魏公子、これ以上は忘機があまりにもかわいそうだ」
     藍曦臣は硬い表情で弟とその道侶を見比べて言った。
     ちがう、本当にかわいそうだと思っているのは弟ではなく彼自身に対してだった。

     木蓮の水と白牡丹の水をすべて飲ませてから一刻ほどして、江宗主の脈と息が正常に近くなり、皮膚の色もほぼ戻ってきた。時は申の刻に近づきつつあった。金麟台の葉っぱだけになった金星雪浪が冷たい風に揺れていた。風雲急を告げる気配だ。
     魏無羨と藍忘機は、そこで姑蘇藍氏の子弟たちを連れて引き上げることにした。
     金凌は叔父上が目覚めるまで残っていけばいいと言ったところ、「あーそれはいいや」と鷹揚に手を振った。その仕草はいつぞやの江宗主にとてもよく似ていた。
    「目が覚めて俺がいて俺に唇をうばわれたとわかったら、あいつきっと地の果てまで俺を追いかけまわして紫電で気を失うまで叩いて、生きながら三毒で八つ裂きに切り刻むにきまっているよ。だからお前たち俺と藍湛がここに来たことは絶対江澄に言うんじゃないぞ? 俺だって硯用の水差しのこと気付けなくてめっちゃ恥ずかしいんだからな!」
     魏無羨はかあっと頬を赤くさせて若者たちに固く口止めしたあと悲鳴のように叫んだ。
     彼は後に意識のない人にでも飲ませられる水差しを発明したという。それはまた別の機会に話そう。
     魏無羨の言葉を聞いて、彼を切り刻むのは江宗主ではなく私こそがやりかねないと藍曦臣は思った。さきほどは魏無羨が江宗主と深く関わりがなければ彼の胸を後ろから刺していた。
     魏無羨に抱えられて彼の口移しで江宗主が水を飲み干すさまをまざまざと見せつけられ、藍曦臣は一瞬視界が真っ赤になり、頭の後ろに赤黒い小さな渦がうまれたのがわかった。
     魏公子と江宗主の口づけの回数が増えるにつれ、とうとうそのまがまがしい渦は人の形をとり、長い髪を逆立て爪が鉤爪のように鋭く伸び虎のような大きな牙をむいた鬼となった。
     その鬼はまさに藍曦臣彼本人だった。夜叉のような彼の分身は、魏無羨に向かって何度もこう叫んだ。
    『離せ、それはわたしのものだ!』
     江宗主へのこの気持ちがなんというのか、藍曦臣がこれまで読んできたあすまたの書物には記されていなかったが、動物としての本能でわかった。
     そしてそれがおそらく叶うことはないだろうとも思って、藍曦臣は母がかつて言っていたように心臓が悲しみで張り裂けそうになっていた。
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