初めて浮奇が泊まった日の朝、アラームをかけなかったのに目が覚めたのはいつもより早い時間だった。起きた時に目の前に人がいることに一瞬驚き、それがすやすやと眠る浮奇だと気がついて力を抜く。悪い夢を見ることもあると言っていたけれどずいぶん気持ちよさそうで穏やかな寝顔だったから安心した。
手を伸ばして頬に触れ、柔らかく滑らかな肌をそっと撫でる。いつまでもそうしていたいくらい甘やかで幸せな時間は数分で俺の許容量を超え、むずむずと落ち着かない気持ちになってベッドを出た。
寝室の外で廊下を駆ける足音と、それから扉の前で大人しく待っているらしい気配を感じて口元に笑みを浮かべ、何も身につけていなかった体に外に出るのに十分な防寒着を重ねていく。準備ができてからベッドを振り返って浮奇がまだよく眠っていることを確認し、静かに扉を開きそこで待っていた愛犬に「しぃ」と指を立てた。
ソワソワとしている俺の気持ちを察したのか、今日の散歩はずいぶん遠回りをして俺の好きな公園や道を通ってくれたおかげで、家に帰る頃にはずいぶん気持ちが落ち着いていた。得意げな顔をする愛犬を撫でてごはんをあげてから、ゆっくりと寝室の扉を開く。
覗き込んだ部屋の中、まだ膨らんだままかと思っていたベッドの上で大切な恋人が顔を覆って俯いていて、俺は慌てて彼に駆け寄った。
「浮奇? 浮奇、どうした、大丈夫か?」
「あ……ふーふーちゃん……、……あぁ、よかった……」
「なんで泣いてるんだ? 悪い夢でも見たか?」
「んん、そうじゃなくて……ううん、なんでもないよ。もう大丈夫になった」
「俺が大丈夫じゃない」
浮奇のすぐそばに寄り添うように座り、彼の濡れた頬を拭った。まだ瞳は潤んでいて今にも涙が溢れてきそうだし眉の下がった表情はなにも大丈夫じゃなさそうだった。じっと見つめれば浮奇はわずかに口角を上げ、俺の肩に頭を預けた。甘えるように擦り寄られ、俺はヘタクソな手つきで浮奇の髪を撫でた。
「嫌われたかと思ったんだ」
「……誰が?」
「俺が」
「誰に」
「ふーふーちゃんに」
「は? どうしてそうなるんだ、昨日あんなに……好きだって、言っただろ」
「……ん、ちゃんと覚えてるよ。ありがとう、俺も大好き。でも、起きたらふーふーちゃんいないんだもん。……朝起きて一人なんて、慣れてたはずなのになぁ」
「……浮奇」
それが普段一人で眠った時の話ではなく、誰かと夜を共にした次の日の朝のことだと分かって、俺は浮奇の頬に触れてふにっと指先でつまんでやった。顔を上げて俺のことを見た浮奇に「そんなことに慣れなくていい」と、あまりキツイ口調にならないように注意しながら咎める言葉を口にする。一瞬見開かれた彼の目が、ふわりと和らいで再び潤んでいくからものすごく焦った。何を言えば良いのか迷って唇を意味もなく動かす俺を見て浮奇はくすくすと笑い声をあげる。
「俺のために怒ってくれてありがとうベイビィ」
「……次は、ちゃんと浮奇が起きるまでここにいるよ」
「次があるんだ……」
「浮奇」
「……ちゃんと気持ちよかった? 今までのふーふーちゃんの彼女たちと比べたら体も硬いし、声だって」
「浮奇」
「う、いひゃい……」
「余計なことばかり言う口は塞いでやろうか」
「あう……ふひゃいへ」
頬を伸ばされている浮奇はふにゃふにゃと何を言っているのか分からないはずのに、嬉しそうな目で見つめられるだけで考えていることは手に取るように分かる気がした。
まあ、今日くらいは、甘やかしてやってもいいか。
頬をつねっていた指を離して赤くなったそこに手のひらを当てる。自由に喋れるようになった浮奇が何かを言う前に、ご希望通りその唇を噛み付くみたいにして塞いでやった。吸い付いてくる唇の熱に簡単に昨日の記憶が蘇り、俺の体まで熱を持ち始めそうだ。まだ、こんな時間なのに。
「ふーふーちゃん」
「ん……?」
「今日、おやすみだよね……?」
「……ああ」
「……だめ?」
「……、……昨日」
「うん?」
「昨日、……浮奇は、ちゃんと気持ちよかったか? 俺よりおまえのほうが身体が辛いだろう」
「……すっごく良かったよ。だって、ねえ、大好きな人が俺のことで頭いっぱいにして、すごく優しく抱いてくれるんだもん。幸せで死んじゃいそうだった」
「……」
「ふーふーちゃんは? 俺、本当に大丈夫だった? ネガティブな理由じゃなくて、ちゃんとふーふーちゃんが良かったのか知りたい」
「……ものすごく」
「ものすごく?」
「……、よかっ、た」
「……ふ、ふふ、もう、なぁにそれ。照れ屋さんなふーふーちゃんも可愛くて大好き」
すっかり上機嫌になった浮奇は楽しそうな笑みを浮かべながら俺の顔中に唇をぷちゅぷちゅとくっつけ、首の後ろに回した手をゆっくりと引き寄せベッドに背中を埋めた。俺は自然と覆い被さるような体勢になり、触れたところから浮奇の体も熱を持っていることを知る。
「……朝なのに」
「うん、二人一緒の初めての朝だから」
「……」
「もうこんなにいっぱい服着ちゃって……まだ朝だよ? ほら、脱いで、いっしょに二度寝しよ?」
にっこり、とびきりの笑顔を俺に向けながら、浮奇は俺の服に手をかける。困った顔を作ったってその手に抵抗しない俺の内心は浮奇にはバレているだろう。そう分かっていても浮奇の手が服を脱がしていくのをただ見つめるだけで、つまり……。
「……浮奇」
「ん?」
「終わったら、昼まで二度寝しよう」
「うん……? 疲れちゃう?」
「そうじゃなくて、……浮奇が起きるまで、隣にいたいから」
「……あー、もう」
唸り声を上げて手を止め、浮奇が強い視線を俺に向ける。潤んでいなくたってきらきらと輝く瞳に真っ直ぐ見つめられて、何を言われたわけでもないのに俺は浮奇にキスを落とした。それを求められていたかも分からないけれど、俺がそうしたかったから。
唇を離して息を吐き、浮奇と視線を重ねる。好きだという言葉がなくてもそう思っているのが伝わってくる意思の強い瞳が好きだ。それと、考えていることが伝わっていても関係なく言葉にして伝えてくれる浮奇の声も。
「ふーふーちゃん、だいすき」
「俺のほうが好きだ」
「……もういっかい」
「どれを?」
「んん、……全部。ふーふーちゃんがくれるもの、全部、もういっかい」
言葉も、キスも、愛も、一回じゃなくいくらでも、これからは全部おまえのものだ。一緒に迎える朝だって飽きるくらいに何度も、浮奇がそれを当たり前だと思うくらいに繰り返そう。もらってばかりだったあたたかい愛情を、俺もおまえに返したいんだよ、浮奇。