途轍もなく、むしゃくしゃしていた。
胎児のように体を丸めて頭から布団を被って、母親の優しい体温を思い出して眠ってしまいたいような、そんな気分だった。最も残念ながら、浮奇にはそんな風に縋れるほど優しい幼少期の思い出なんて無いけれど。
やるせなさに泳がせた視線がお湯を沸騰させる鍋を捉える。ふつふつと沸き上がる湯を見ていると自分の中の何かが暴れ出しそうな感覚がして、気持ちを抑え込もうとキツく目を閉じた。
気持ちに影響されているのか体がぐらぐらと揺れる感覚がして、やがて目の前がぐるぐると回るような眩暈へと変わる。倒れる、と気付いて咄嗟に伸ばした手は何かにぶつかって支え損ねた。重力に従って硬い床に体をぶつけた感覚を最後に、浮奇は意識を手放していた。
ーーガシャン
心地よい静寂を破った物音に、ファルガーは読んでいた本から顔を上げた。足元で寛いでいたドッゴも心配そうに立ち上がる。
「どうした、大丈夫か?」
物音がした方向はキッチンで、浮奇が昼食を準備していたはずだった。大きめに発した声は充分に届くはずの距離なのに浮奇からの返事がない。
本を放り出し足早に階段を降りて部屋へ足を踏み入れたファルガーが見たのは、信じがたい光景だった。
「…は?」
確かに彼はそこに居た。色違いの瞳はしっかりと閉じられて、何かから身を守るように身体を丸めている。一見穏やかに眠っているようにも見える表情の彼は、周りを丸く取り囲む紫色の光に包まれてキッチンで浮いていた。
何回瞬きをして何回心臓が拍動を伝えたのか分からなくなるほどの時間をかけて状況を飲み込もうとしたファルガーだったが、やがてふわふわとその場に漂う彼を改めて見つめて、理解することを諦めた。
彼を取り囲む光へ手を伸ばして触れてみたが、弾かれることはない代わりに触れた場所がキラキラと光るだけで何も起こらない。
「本当にサイキックなんだな」
我ながら間抜けな感想であることは分かっていたが、いつもは煩いくらいに言葉を並べる脳みそがまるで動かなかった。
ファルガーはこの世界へ飛ばされてから様々な人々と出逢った。ドラゴンや鬼のような特殊な生き物から、文豪やマフィアのような人間まで。妖精や呪術師もいるのだから不思議体験みたいなものは、自分に経験があるか無いかを問わず存在はするのだろうなとは何となく理解していた。
だから恋人がサイキックであることを疑ったことはないし、ナレーションを読んだ伝承は彼の実体験であると分かっている。けれど、日常生活で彼がサイキックであることを実感したことは今まで一度もなかった。
「…まるで繭だ」
彼の周りを囲む光はキラキラと星空のように輝いていて、中心にいる彼はその中でふわふわと漂っていた。この声が届くようにと念を込めて彼の名前を呼んだが、閉じられた瞳が開くことは無かった。
そうして彼が「繭」に篭ってから、一週間が経とうとしていた。相変わらず光の中で、彼は昏々と眠り続けている。
あの後、いくら声を掛けても触れても反応がないことにファルガーは事の重大さをようやく実感して、アルバーンとサニーに連絡を入れた。翌日に様子を見にきた二人にふわふわと漂うだけで触れても拒絶されないことを話したが、彼らが伸ばした手をバチリと弾かれたせいで見たこともない顔でこちらを見てくる彼らにファルガーは嘘でないことを己の身を持って伝えるはめになった。
そうして、ああでもないこうでもないと三人で頭を悩ませている間に、常に返信は早い方である浮奇と連絡が取れないことを不審に思った仲間たちに質問攻めにされて、ファルガーは三日目にしてようやく全員へと状況を説明した。
すぐさまチケットを取ったのだろう、真夜中に慌ただしく飛び込んできた猫や歌鳥が声を掛けて文豪や探偵が心配そうな視線を送ったが、浮奇はやはり眠ったままだった。
四日目には非科学的な観点から言えばサイキックと同じだろうと天人と宇宙人が訪れて、声を掛けたり、触れたり、力を使ったりしてみたがそういう問題でも無かったようだった。
入れ替わり立ち替わりのお見舞いも落ち着いた五日目にはここ数日の騒がしさに疲れ切ったファルガーへ寄り添うようにアルバーンとサニーが泊まり込んでくれた。ファルガーのスマホやパソコンにはひっきりなしに連絡が来て、浮奇が色々な人に愛されていることを感じた。
祈るような気持ちで六日目にきた呪術師と鬼に助けを求めたが、彼らは首を横に振るだけだった。彼はただ眠って夢を見ている、と鬼が言った。空想の現実味のない夢ではなく過去の夢を見ている、と。
「身体に何かあった訳じゃないから、命に別条はないよ」
じっと浮奇を見つめていたシュウが告げた言葉に、ほっと胸を撫で下ろす。優雅に紅茶を啜る鬼を睨みながらファルガーはシュウへと向き直った。
「過去の夢の中で起きたことは現実に影響するのか?」
「基本的にはしないよ」
意味もなく期待させるようなことを言う人ではないと分かっているからこそ、シュウの言葉には安心感があった。
「それに、ふーちゃんなら分かってると思うけど、過去の夢を見たからといって戻りたいって意味とは限らない。特に浮奇の場合は」
肩をすくめて見せたシュウに、ファルガーは首を縦に振った。浮奇が生きてきた過去は話に聞く限り過酷な環境だったことは想像に容易いため、戻りたいと思っている可能性は低いだろう。浮奇が、何かをやり直したいと思っていない限りは。
「じきに醒める夢だから、もう少し待ってあげて」
「あぁ、ありがとう」
少し気持ちを整理できたファルガーは、鬼を蹴り出し呪術師を見送った。じきに醒めるのであれば、そう深く心配することはないだろう。浮奇が強いことは誰よりもファルガーがよく知っている。
そうして、また一週間が経った。浮奇は、まだ目覚めない。
「そろそろ抱き締めたいんだが」
常にふわふわとその場を漂い続けているからと言って浮奇を独りでリビングに置き去りにする訳にもいかず、ファルガーはすっかり定位置になりつつあるリビングのソファベッドに横になりながら浮奇を見つめた。
猫の様に腕の中へ潜り込んでくる体温が懐かしい。くすくすと胸元で笑う低めの声も、甘えて強請る時の柔らかな声も懐かしい。足を絡めてしまえばすっぽり抱き締めてしまえる小柄な細身の身体が懐かしい。
「浮奇は今、何を見ている?」
配信もあるし個人の仕事もあるのだからと、ここ数日泊まりこんでくれていたアルバーンとサニーを半ば強制的に帰したせいで、家の中は酷く静かだった。やけに目が冴えて眠れる気がしなくて、ファルガーは起き上がり浮奇の傍へと近づく。
「嫌な思いをしていないか?怖い思いをしていないか?安心できる場所にいるか?」
唇から溢れたのは、自身でも眉を寄せたくなる様な悲痛な声だった。相変わらず閉じられた瞳を見つめながら、彼へと手を伸ばす。紫色の光は、やはりファルガーを拒むことはしなかった。
「…こんな時でも、俺だけは傍に置いてくれるんだな」
こんなに近くにいるのに触れられないことがもどかしい。独りきりで待つばかりなのは辛くて、彼が見ている世界に飛び込んでしまいたかった。
「浮奇の見ている夢を、俺にも見せてくれないか」
ほとんど無意識に祈る様な言葉が溢れ落ちたのと同時に、ファルガーは見えない何かに背中を強く押され光の中へと引き込まれた。
「…ッ!?」
あまりに強い光に包まれ目を瞑る。
「ここは…?」
光が引いて目を開けた時には、見覚えのない知らない土地に立っていた。
辺りは一面の暗闇だった。足元はどこまでも続く草原で、ファルガーの太腿あたりまである背の高い草が穏やかな風に葉先を揺らしていた。知らないはずなのによく知っているような、記憶の何処かに引っ掛かるような光景だった。
「俺は何を見てる?これは浮奇の夢か?」
混乱したまま呟いた言葉はきちんと音になって聞こえる。夢にしては耳に届く声も、頬へ触れる風も、少し冷えた空気もやけにリアルで、ファルガーはこの感覚を「知っている」と確信した。
--俺はこの世界に入り込む前に何を願った?そうだ、浮奇と同じ夢を…もし願いが叶っているのなら、これはきっと浮奇の知っている、浮奇の記憶の中の世界だ。
浮奇の夢の中に入り込めたのなら、この感覚がやけにリアルなのも納得がいく。過去から来た鬼は、夢を見ているのだと言っていた。空想ではなく過去の夢を。つまり、この光景は浮奇の過去でもある。
--もしかして、
ファルガーはハッとして空を見上げた。先ほどまで暗闇で何もなかった空に星々が現れ、色を変えながら僅かに揺れだしている。
“千年に一度のある夜に、すべての星が空から落ちてきて、その力を最も必要とする者に与えるという伝説がある”
自分でナレーションを読んだのだから、間違えるはずがなかった。これは、浮奇が星から力を授かった日の記憶だ。
--浮奇はなぜこの日の夢を?
ファルガーは混乱した。過去の夢に干渉したところで「基本的には」現実に影響はでないと呪術師は言っていた。けれど星の力を授かった日は、浮奇の持つ過去の中でも強い思い出であるはずだ。この日を夢に見ていることに何か理由があるような気がして、漠然とした不安と恐怖心がファルガーを襲う。
--力を授かってこの世界から逃げ延びる日をやり直して、それがもし現実に影響するとしたら。それはつまり、
「浮奇、どこだ!?」
強い焦りを感じながら声を張ったのと同時に、ファルガーの頭上を大きな音を立てて何かが通り過ぎていった。強い光を伴って視線の遥か彼方で地面にぶつかり消えていったそれが、ついさっきまで空で輝いていた星だと理解した瞬間、ファルガーの背中に悪寒が走る。
「どこにいる!浮奇!」
どこまでも広がる草原を、ただ浮奇の名前を呼びながら走る。ファルガーの頭上を叫びにも近い声を遮るほどの轟音と共に、眩しい光が通り過ぎて視界の端に消えていく。次々と空から降っては地面へとぶつかり消えていく星が、浮奇を捕まえられなかった先の未来のように思えて、ファルガーは必死に脚を動かした。
「頼むから…!」
ただの夢であれと願わずにはいられなかった。過去に似たやけにリアルな「夢」であれ、と。明日になって起きたら忘れるような、たったひと晩の悪夢であれと強く願った。
「浮奇、返事してくれ!」
叫びすぎて痛みを訴える喉を押さえながら名前を呼ぶファルガーのすぐ横を星が通り過ぎていく。星の行き先を確かめたファルガーは、遠くに見慣れた紫色を見つけた。
「浮奇…!」
ファルガーの先で走り続けていた浮奇の足が止まり、激しく上下する胸元を掴みながらしゃがみこむ。仰ぐように空を見上げた浮奇につられて思わず上を向いたファルガーの瞳に映ったのは、
「…!?」
今にも浮奇に向かって落ちる星ではなく、どこまでも深く続く暗闇だけだった。
ーーもしも、あの夜に浮奇の瞳へ星が落ちなかったら?
「どうして、さっきまでの星は…」
ーー俺たちはきっと、
「浮奇、頼むから。ここにいてくれ、俺たちのいる世界に!」
叫んだ瞬間にぐにゃりと歪みだした世界で、ファルガーは必死に足を動かした。足元が何かに取られているかのように重く感じ、前に進んでいるはずなのに少しも浮奇に近づけない。
「浮奇、戻ってきてくれ!」
振り返らない浮奇の背中へ伸ばした掌は何も掴めずに空を切った。
「ふーふーちゃん?」
聞きなれた声がしてハッと目を開ける。
ついさっきまで暗闇だった辺りは自宅のキッチンになっており、浮奇の足元には割れた皿が落ちている。片側に星を宿した色違いの瞳が、心配そうにこちらをじっと見つめていた。
「…浮奇?」
「そうだよ。どうしたの、そんな怖い顔して」
眉を寄せて首を傾げた浮奇は、割れた皿を避けながらカウンターの傍で棒立ちになるファルガーへと近づいた。
「本当に浮奇なのか」
「そうだよ?」
瞬きも忘れて確かめる様に浮奇の頬へ両手を滑らせる。ファルガーの言動に浮奇は怪訝な表情で返事をした。
「…浮奇!」
名前を呼ぶや否や、ファルガーは浮奇の身体を引き寄せて抱き締める。触れた感覚が、伝わる体温が、ここにいる浮奇が本物であることを証明していた。
「ふーふーちゃん、大丈夫?」
「それはこっちの台詞だ」
安心してぷつりと緊張の糸が切れたファルガーは、浮奇の視線も憚らずに涙を零す。
「もう、会えないかと思った」
「どうして?俺はここにいるよ。…ほら、そんなに擦ったら赤くなっちゃう」
伸ばした袖で浮奇に涙を拭われながら鼻水を啜る。ドッゴにするように頭を撫でられて、もう一度強く抱きしめた。
ファルガーは落ち着いてから夢のことも含めて何が起きたのかを話したが、どうやら浮奇にはこの二週間の記憶がないようだった。昼食を作っている途中で眩暈に襲われて倒れたこと意外は覚えていないらしい。カレンダーを見せると愕然としていたのが何よりの証拠だった。
本人に自覚がないため、ファルガーから全員に浮奇が目を覚ましたことを伝えると、浮奇のスマホは一日中鳴り止まなかった。
「ふーふーちゃん、寝るよー?」
結局、本人に記憶が全くない以上は、浮奇が眠りについた理由は分からずじまいだった。何か夢を見ていた感覚はあったようで、嫌な夢ではなかったから大丈夫だよと笑っているのを見て、複雑な気持ちになる。
兄である鬼にも改めて礼を述べると、過去の鬼に未来からきた超常現象の説明を求めるな、と呆れられた。よく考えれば確かに言う通りで、随分と切羽詰まっていたことに自嘲する。一方で呪術師は、よかったね、となんとも彼らしいあっさりとした返答が来たのみだった。
「べいびー、早く!」
「分かったから、ちょっと待て」
ほぼ全員を巻き込んだ騒ぎも数日が経てば落ち着いて、ファルガーと浮奇にも日常が戻ってきていた。
「ふーふーちゃん、おやすみ」
「おやすみ、浮奇。…いい夢を」
ーー浮奇に星の加護がありますように
信じてもいない神様に、こんな時ばかり祈ってみる。夢の中でもはぐれないように、しっかりと手を繋いだ。
ファルガーの手だけは弾かなかった話をアルバーンから聞いた浮奇が、瞳を輝かせながらファルガーを追い詰めるまであと数日。