あなたのそんなところが 乾いた風がハンガーに吹き込み、風に運ばれた砂が外と中の境界を曖昧にする。ぶつぶつと何かを呟く声。「ああ、あれが要るんだった」大きな歩幅で道具を取りに行く長い脚。俺には名前もわからない道具を迷いなく掴む小ぶりな右手。
「ブラッドリー、せっかく来てくれたのに構えなくて悪いな」
愛機の元へ戻ったマーヴは振り返って言った。するとソファに寝そべる俺と目が合い、マーヴは可笑しそうに笑い出した。太陽が動き、さっきまで影に覆われていたソファと俺の顔が、扉から差し込む強い陽の光に照らされているのだ。
「ほんと、俺はマーヴに会いに来たのにね。これじゃ帰る頃には丸焼けになっちゃう」
「すまない、もう少し待ってくれ」
マーヴは笑いながらもう一度謝罪した。
「仕方ないよ、古い機体は気まぐれだもん」
俺がモハヴェに来た今日この日、マーヴは愛機のメンテナンスに追われていた。本当は俺を乗せて遊覧飛行でもしてくれる予定だったのに、今朝から突然機体が動かなくなってしまったのだ。マーヴは俺が帰るまでに機体を直すと意気込んでいるが、正直俺自身はマーヴと一緒に過ごせるのなら飛べなくても構わなかった。
「普段は僕の言うことを聞いてくれるんだよ、素直でいい子なんだ」
マーヴは愛機について優しい声で話しながら、内部が露わになった機体の胴体部分に再び向き直った。どうやって汚したのか、黒い油汚れが白いTシャツの背面にまでついている。そのTシャツは差し込む日光で輝き、手を動かすたびに生地に這う影が形を変える。
「素直でいい子? まるで俺みたい」
「そうかな」
マーヴは背中を向けたまましゃがみ込み、足元に置いた整備マニュアルのページをめくった。丸まった背中にTシャツが張り付き、浮き出た肩甲骨がわずかにうごめく。少し長さの足りないTシャツの裾からは、無防備な腰がちらりと見える。筋肉に覆われた背中、砂漠の太陽に焼かれた肌、踵が浮いた左足。しゃがんで小さくなったマーヴの姿はどうしようもなく色っぽい。
「ブラッドリー、最近どうだ? 元気にしてたか?」
「うん、元気。変わりないよ」
立ち上がったマーヴは俺の短い近況を聞きながら、ちらりと一瞬俺を振り返った。その時の微笑みは逆光でよく見えなかったが、言い換えればそれは後光が差しているのと同じことだった。
「ずっとここに来るの楽しみにしてた」
「ずっと?」
「うん、ずっと。カレンダーにバツ印つけてカウントダウンして」
「本当か? 君はカレンダーに印をつけ忘れるタイプだろう」
マーヴは俺のことをよくわかっている。たしかに毎日欠かさずカウントダウンするつもりが、数日分まとめてバツ印を書くことが何度かあった。
「ここには砂以外に何もないのに」
「マーヴがいるじゃん」
俺は今までより優しく大きな声で答えた。マーヴがいる。それだけでこのだだっ広い砂漠のすべてが美しく見える。
「僕がいたって同じだよ、君を楽しませてやれることはあまりない」
前言は撤回する。やっぱりマーヴは俺のことをわかってない。俺はマーヴさえいればそれでいいのに。
「俺のことを楽しませたいなら方法は色々あるけどね」
「例えば?」
それは言わない。たぶん今のマーヴには考えもつかない。俺は今マーヴの後ろ姿を見ながらそのことばかり考えているけれど。
「とにかく、マーヴに直接会うことが目的だって、それはわかってるよね?」
「ああ」
「うん、ならいい」
マーヴの短い返事を聞いて、俺は持ち上げかけた頭をくたびれたクッションに沈めた。マーヴはこちらを向いて怪訝そうに眉を寄せ、曖昧な俺の言葉を反芻した。それからまた複雑そうな構造を見せる愛機に手を伸ばし、作業を再開した。
「だけど、せっかく取れた休暇をずっとここで二人きりで過ごすなんて……君にも友達はいるだろ? ここには何もないとは言ったけど、友達も一緒に連れてきてくれて構わないんだよ」
愛機の中に入り込む腕には筋が浮き、筋肉が逞しく盛り上がる。つい数時間前に抱きしめられた時の、締め付けられるようなマーヴの腕の感触を思い出す。あの心地良い抱擁をマーヴが他の誰かにしているところなんて、絶対に見たくない。友達? いたって連れて来ない。
「いい、俺は"ずっとここで二人きりで"過ごしたいから」
マーヴは断言する俺の返事を聞いて笑った。
「君は変わってるな」
「どこが」
「何もない場所で僕と二人きりで過ごしたいなんて」
また振り出しに戻った。マーヴと二人だけで過ごしたい理由は今まで何度も話したのに、直接会うとそんな話なんて忘れたみたいにして俺を不思議がる。好きな人と一緒に休暇を過ごしたいと思うことの、何が変わっているというの。マーヴはなかなか信じないけれど、俺はマーヴを好きで好きで、遠くにいる時も毎日一目見たくてたまらないんだよ。
「俺とマーヴ以外はみんな邪魔者なの」
マーヴのその柔らかい髪にも、鍛え上げられた身体にも、敏感そうな爪先にも触れたい。だけど俺の気持ちが伝わらないのなら先へ進めない。
「邪魔者って……」
「それ以外に表現のしようがないよ」
「いや、それは表現が悪いんじゃないか」
マーヴは小さな子を嗜めるような視線を俺に向けた。好きだって、何度も言ったのに。どうして俺は今マーヴに怒られているんだろう。好きだって一言言えば、全部わかってくれると思っていたのに。
「……じゃあなんて言い換えればいいの」
「それは……思いつかないけど」
「だったらいいじゃない、俺はこの場にマーヴ以外の人はいらないの」
困ったな、とでも言いたげなため息がマーヴの喉から漏れた。
「まあ……君がそれでいいのなら」
あと一回、「好きだ」と言えばわかってくれるのかな。今の俺は、まさにその一回の手前に立っていたりはしないかな。マーヴだって、追いかけたい相手は絶対に逃さない質でしょう? だったらどうして素直になってくれないの。
今すぐ機体の部品は全部元に戻して。手なんて洗わなくていい。汚れたままでいいから俺のところに来て。好きな人を呼ぶみたいに俺の名前を呼んで。俺のことも汚してみて。今一番手入れが必要なのは俺なんだから。
「マーヴ、好き」
「……うん」
俺を気にかけてくれるのなら、俺のあなたへの気持ちにもちゃんと気づいて。俺を理解して。俺が何を望んでいるかはちゃんと聞いたよね。だったら望みを拒否するか、応えるか、もう少し考えたいか、それだけは教えてよ。どの選択肢を選んでも構わないから、何もなかったみたいに振る舞わないで。何度同じことを言わせるの? それがマーヴの悪いところだよ。