君のこと なんて曇りのひとつもない、おだやかな優しい顔で笑う人なんだろう。たぶんそれが、はじめて彼の存在を胸に焼き付けられたその瞬間からいままで、変わらずにあり続ける想いだった。
「あのね、鴫野くん。聞きたいことがあるんだけど……すこしだけ」
「ん、なあに?」
二人掛けのごくこじんまりとしたソファのもう片側――いつしか定位置となった場所に腰を下ろした相手からは、ぱちぱち、とゆっくりのまばたきをこぼしながら、まばゆい光を放つような、あたたかなまなざしがまっすぐにこちらへと注がれる。
些か慎重すぎたろうか――いや、大切なことを話すのには、最低限の礼儀作法は欠かせないことなはずだし。そっと胸に手を当て、ささやかな決意を込めるかのように僕は話を切り出す。
「……前から気になってたんだけどね。鴫野くんはさ、いつでもすごく穏やかに笑いかけてくれるでしょ。何かに怒ったり苛立ったりすることなんてすこしもなくって――いつもそうやって、すごく落ち着いた気持ちでいさせてくれるのが本当にうれしくって、でも」
ほんとうなら口にするべきじゃなかったのかもしれない、こんなこと。それでも――慎重に言葉を選ぼうと思った矢先、案の定、とでも言わんばかりに言葉に詰まらせるこちらへと、すっかりお馴染みになってしまった優しい言葉がはらりと覆い被さる。
「ああ……もしかしてだけど。気にしてくれてたの? 前に話したこと」
蝶の羽ばたきにもよく似た軽やかで優しいまばたきに促されるかのように、やわらかな口ぶりでの言葉が続く。
「ほら、僕ってキツネ目でしょ? 普通にしてるだけでも睨んでるみたいに見えちゃうから良くないよなあっていうのは小さい頃から意識しててさ――だからって無理して笑ってるとか、そういうつもりは全然ないんだけど。ごめんね、もしかしてだけど、不自然に見えたりしてた? ありがとう、教えてくれて」
言葉につれるようにと、きゅっと吊り上がった切れ長の大きな瞳の奥に宿る光はほんのわずかな翳りを帯びる。
いつもこうだ。こちらの思惑なんて悠々と飛び越えるほどに鴫野くんは優しくって、どんな些細な言葉や態度にも、いつだって曇りなんてひとつもなくって。
たちまちに身勝手なもどかしさに襲われていくのを感じながら、なにかを振り切るような心地できっぱりと首を横に振り、僕は答える。
「そんなことないよ、全然。その」
ごめんね――じゃない、こんな時には。浅く息をのみ、精一杯の穏やかな笑顔を浮かべるようにしながら、続く言葉を口にする。
「ありがとう……ほんとうに」
どうしてだろう、こんなにもありきたりな言葉なのに、ひとたび口にするだけでこんなに心を満たしてくれるのは。
ひたひたと押し寄せるような心の内をじいっと見つめながら、ぽつりと噛みしめるようにつぶやく。
「鴫野くんはさ――最初からずうっと、目が合えばたちまちに、すごくうれしそうに笑いかけてくれてたでしょ。一緒にいる時間が増えてからもずっとそうで、怒ったり不機嫌になったりするような時なんてすこしもなくって、すごくうれしくって――でも。こんなふうに言うのも失礼なのかもしれないけど……鴫野くんがね、もしも僕のことを気遣って我慢してくれてたんだとしたらよくないなっていうことを思って」
堰を切ってあふれ出すような言葉を口にした途端、みるみるうちに胸の支えが軽くなるような心地を味わう。
ひどく身勝手なことを口にしているのは百も承知だ、それでも――必要不可欠なことだと思えたから、これからも共に居続けるためには。
振り絞るような心地で言葉を終えれば、いつもに増しての穏やかなぬくもりで満ち足りたまなざしがまじまじとこちらを捉えてくれていることに気づく。
「ごめんね、ほんとうに。疑ってるとか、そういうわけじゃないんだけれど」
もどかしく言葉を詰まらせていれば、やわらかに色づいた花のような優しい笑顔にくるまれる。
「いいよ、そんなの。気にしないで。要はさ、遠野くんは僕のことを心配してくれたんだよね? すごくうれしいよ、話してくれて」
「あぁ、」
いびつに震えた指先を握り込むようにするこちらを前に、おだやかに降り注ぐ光にも似た、優しい言葉が続く。
「まぁさ――わからなくもないんだけど、そういうのも。昔からよく言われるんだよね、宗介あたりには特に。『おまえっていつ見てもへらへらしてるよな』って。凜になんて『おまえと宗介で足して二で割ったらちょうど良いのにな』って言われたくらいでさ。宗介はすごく嫌がってたけどね、そりゃそうだよね?」
いとおしげに瞼を細めながら軽やかに告げられる言葉は、ふつふつとこみ上げるようなあたたかな色で染め上げられている。
「でも仕方なくない? そんなの。大事な相手と一緒にいられるんだって思うと、自然とうれしくなっちゃうものでしょ? 遠野くんと一緒にいられてうれしい、遠野くんが喜んでくれるとうれしい、遠野くんの気持ちを聞かせてもらえるとうれしい――ずうっとそんな風にばっかり思ってたらさ、不機嫌になってる暇なんてすこしもなくない?」
うんと得意げな口ぶりで告げられる言葉に、〝らしい〟としか言うようのない感慨がしずかにこぼれ落ちる。
「遠野くんとはさ、一緒に居るとすごく安心できるんだよね。遠野くんはいつでも思慮深くてすごく優しくて、遠野くんが僕にくれる言葉はただの都合のいい言葉なんかじゃすこしもなくって、遠野くんの視点で見つけてくれた優しい気持ちがいつだって感じられて」
「あぁ……、うん」
そんなこと、と遮ってしまいそうになるのを咄嗟に抑える。彼が見つけてくれたものが〝そう〟だと言ってくれるのなら、素直にその気持ちを信じればいいのだということを、もうとっくに知っているから。
「でもね、一番好きなのは、こうやって不安なことがあったらちゃんと話してくれること。だからさ、遠野くんには不満なんてすこしもないよ」
いまにもこぼれおちそうなやわらかな光を携えるようにしながら、優しい言葉がそっと手渡される。
「あのね、遠野くん。……せっかくだからさ、僕が遠野くんにお願いしたいこと、話してもいい?」
「あぁ――、うん」
まっすぐに注がれるまなざしに魅入られるままに、ぽつりと一言だけそう答えれば、おだやかな思いやりだけを閉じこめたかのような返答がそこへ続く。
「遠野くんが僕と一緒にいて楽しいな、安心できるなって思ってもらいたい。いまみたいに不安なことや心配なことがあった時には聞かせてもらえるとうれしい。遠野くんのことすこしも不安にさせないなんて無理かもしれないけど、そういうのも含めて全部、大切な時間だって思ってもらえるように努力したい。それとね、あとひとつだけ」
人差し指をすっと突き立てながらと、どこか得意げな口ぶりでの言葉が届けられる。
「遠野くんははずかしがり屋さんだと思うから……一〇回に一回とかでいいから、遠野くんが僕のこと好きだなって思ってもらえる時があれば、教えてもらえたらすごくうれしい」
すっかりお馴染みのふわり、と口角のあがった優しい笑顔には、うっすらと火照りを帯びたかすかな朱色が滲んでいる。
「……鴫野くん」
ああもう、どうすればいいんだろう。観念した、としか言えないような心地になりながら、噛みしめるように、ぽつりとゆるやかに僕は答える。
「鴫野くんの好きなところならいくらだってあるし、いまだってすごく思ってるよ。なによりもいちばんなのは、そうやってまっすぐに僕に向き合ってくれること。言葉や態度にすこしも嘘がないところ。一緒にいるだけですごくおだやかな気持ちでいさせてくれて、鴫野くんといる時の自分が好きだなって思わせてくれるところ」
誰かに認めてもらえなければ自分の価値を計れないだなんて、ひどく子どもじみて馬鹿げているだなんてことくらいはわかっているつもりだけれど、それでも――こうして側に居てくれる大切な人を通してしか見つけられない〝自分〟が居ることを教えてくれたのは、彼にほかならないから。
「……遠野くん、」
もどかしげに震える指先が、しばしばそうするように、スエットの袖を遠慮がちにそっと掴む。すこし子どもじみたその仕草やもの言いたげに震える唇、透明なゼリーの膜を張ったみたいにあまく潤んだまなざし――そのすべてを穏やかにつたうように、息苦しいほどのいとおしさが押し寄せてくるのをひたひたと感じる。
「ありがとう、教えてくれて。これからも努力するね、遠野くんに信じてもらえるように」
じっと見つめ合ったまま、確かめ合うように頷き合えば、胸の奥にくすぶったわだかまりはみるみるうちに音も立てずに溶けて、あたたかな想いだけで埋め尽くされていく。
「……僕もだよ、そんなの」
「うん」
たどるような心地でどちらともなく指と指とを絡め合う。指先を伝い合う熱は、染み渡るような安堵を静かにもたらす。
ふたりだからこそ分かち合える想いがまたひとつ、おだやかに花開く。