n=2のささやかな実験計画 この歳になると、いや、何より職業上、他人のキスシーンを見ても、そうそう動揺することはない。実際、張り込み中に、濃厚な口付けを交わす対象者であったり、路地裏でキスどころでない行為をやらかしている対象者であったりを、幾らでも見てきた。最初こそどぎまぎしたりもしたけれど、最近では最早、日常茶飯事。どうということもない。――はず、だった。
偶然目にしたカップルのキス。首に腕を回して、彼らは随分と夢中になっていた。思わずドキリとしてしまい、そんな自分に、驚いた。そうか、付き合い始めの彼女が隣にいる状況では、さすがの自分でも、気恥ずかしさを感じるのか。新しい自分を発見して、一人、心のうちで感心する。
隣を歩くのは、赤毛頭の天才科学者。職場での彼女の評判は、クール、博識、毒舌、ヤバい…。畏敬を込めた、そんな言葉。案外かわいかったり、動物好きで優しかったりする一面もあるのだが、それは、自分が〔灰原哀〕だった頃を知っているからこそ思えること。確かに、科学者・宮野志保は、はっきり言って、時々怖い。
それでも、僕は彼女を好きになった。鋭利な言葉の裏に秘められた、人々への愛情。見識の広さの背後にある悲惨な組織時代と、それでも、それを乗り越えていこうとするしなやかさ。初恋相手であった、彼女の母親の思い出補正もあるかもしれないけれど、もっと彼女のことが知りたくて、彼女を自分のものにしたくて、僕は自分から、彼女に交際を申し込んだ。
「志保さん、僕と付き合わない?」
そう言った時の、彼女の顔といったら。所謂、この世のものではないものを見るかのような、というやつだ。少しばかり傷付いたけど、まだそこまでの関係じゃあなかったのにも関わらず、わざと不意打ちをしたのだから、仕方ない。
「僕は恋愛対象外?」
追い打ちをかけると、彼女は眉間の皺をひたすらに濃くして、吐き捨てるように言った。
「遊びなら、他を当たって」
「本気だから、他にはいかない」
僕がニッコリ微笑んだら、逆に、彼女は顔を引き攣らせた。
「…意味が分からないわ。どうして私なの?女の趣味、悪いんじゃない?」
少しばかり自虐的にそういう彼女。僕は、彼女の自己肯定感が実は低いということくらい、知っている。だからこそ、押しに弱いだろうということも。
一歩、彼女に足を近づけると、彼女も一歩、後ろに下がった。けれどもそれで、彼女に逃げ場はなくなる。人気のない壁際に追い込んで。僕は彼女を逃がす気なんて、まるきりなかった。
「哀ちゃんだった時から、君のことを見てきた。志保さんに戻って、一緒に仕事をするようになって、君を好きだと思ったんだ。人として、女性として、ね。お試しでもいいから、チャンスをくれないかな」
少しばかり下手に出ると、彼女の目が、僕を吟味するかのように睨め上げてきた。
「…あなたにとって、付き合う、って、何すること?」
「うーん…基本的には二人で、食事に行ったり、それ以上をしたり。お互いをちゃんと見て尊重すること。浮気はナシ。他の人とそういうことをしたいなら、きちんと別れる。…どうかな?」
正直、彼女を射止めるための模範解答は分からなかった。しかし、彼女は暫し俯きながら、じっくりと思案してくれた。論外、とか、取り付く島もなし、という可能性だって十分に有り得たわけで、これなら十分、第一段階は突破だ。僕の心が、ソワソワとしてくる。さぁ、君の答えは?
「…いいわ。お試しっていうのも逆によく分からないし、普通でいいわよ」
お試しと普通の境界線は良く分からなかったけれど、こうして、僕の不意打ちの告白は成就した。
「よろしく、志保」
嬉しくなってそう言うと、志保はまた、面食らったかのように目を瞬かせた。
それから、数週間。自分はまだ、彼女とそこまでには至っていない。つまりは、先ほどのカップルのような、あるいは路地裏の対象者のような、そういうこと。
お互い忙しいのでなかなか会えないし、まだまだ距離は詰められていないというのが実情だ。けれども、したいかしたくないかで言えば、ハッキリ言って、とてもしたい。
そんなことを考えていると、喉に何かが絡んだような気がして、咳払いをしたくなったが、このタイミングでそんなことをしては、ラブシーンを目撃した気まずさを誤魔化していると勘違いされそうで、出そうになった咳をそのまま飲み込んだ。
まったく、他人のキスにあたふたするなんて、まるで思春期のようだな、と、我ながら呆れる。一方の彼女はどういう反応をしているのだろう。気になるけれど、今は目線を向けるのにも気を使う。どうしたものかと思っていると、彼女は唐突に、言った。
「人ってなんで、キスするのかしらね」
なるほど、科学者・宮野志保は、そう来るか。
「さぁ、なんでだろうな。口から快感を得る、という意味では、フロイトの口唇期とかを思い出すけど」
「快感原則?」
ふん、と志保は鼻で笑って言った。
「唇から快感が得られること自体には科学的エビデンスがあるでしょうけど、それがなぜなのかという問いに対して、答えが精神分析じゃあ、あまりにも力不足ね。フロイトを筆頭に、多くの精神分析理論は非科学的だわ。
まぁ、そもそもフロイト自身は、心理的なものはすべて生理学的な事象に置き換わると考えて、あくまで自説を暫定的な理論としていたようだけど、一部のフロイディアンは、フロイトが言ったことをそのまま信仰しているから、タチが悪いわ。ポパーの科学哲学で言う所の、反証可能性の問題を地で行っているといった所かしら。きちんと実証科学の土俵に乗せるべきよ」
「…なるほど」
こんな風に雄弁に語る志保の姿は、これまでに何度も目にしている。ちょっとした雑談でも、皮肉まじりに誤謬を指摘したり、科学的な観点から批判したりする彼女。そんなだから職場で畏怖されているのだが、自分は彼女のそういう所も、結構、好きだなと思っている。そもそも自分も、事あるごとに蘊蓄を語ってしまうし、公安の警察官なんて癖の強い仕事をしているので、これくらいの方が、張り合いがあって良い。ただ、それにしたって、情緒がない。この娘は、自身の恋愛感情に対しても、こんな風にシニカルに分析するのだろうか?
そんなことを考えていたら、ふと、それこそ公安警察官としての勘のようなものが、胸の辺りでざわついた。
…饒舌すぎやしないか?
改めて志保の方を見て、密かに観察を開始する。瞳孔。瞬き。目線。顔色。姿勢。呼吸。それから声の、ピッチとスピード、加えて響き。それらすべてを分析して、そして、確信した。
なるほど、この娘は、照れ隠しをしている。
なぜ今まで気づかなかったのか。彼女は正に、知性化という防衛機制を働かせて、気持ちを誤魔化しているのではないか。そうか、志保もあのカップルを見て、内心、動揺したに違いない。そう思うと、何とも愛らしくて、ワクワクとしてきてしまう。何とかその仮面を剥ぎ取りたくて、未だに御託を並べている彼女に、少し仕掛けてみることにした。
「…じゃあ、実験してみるっていうのはどう?」
「は?何を?」
訝し気にこちらを見上げてくる彼女に顔を近づけて、トントン、と、自分の唇を軽く指で叩く。そしてそのままその指を、彼女の唇にそっと触れさせて、言った。
「人がどうしてキスするのか。君と、僕で」
一瞬、何を言われているのかも、何をされているのかも理解できなかったのだろう。志保はぽかんとしていたが、すぐに顔を真っ赤にして背けながら、悪態をついた。
「っ…n=2の主観で、一体何が分かるって言うのよ…!」
なるほど、確かにそれはそうだ。とは言え、君だって、僕が触れた唇から、少しは何かを感じただろう?こんなに顔を真っ赤にしておきながら、転んでも、タダでは起きてくれないな。けれども、僕は。
「普遍的な自然法則よりも、君と僕だけに通じる個別の事象の方に、興味ない?」
科学者らしい君もいいけれど、一人の女性としての君が、もっと見たいのだ。だから、志保の手を取って、五本の指を根本から絡めて、ストレートに、誘う。
「志保、二人きりになれる所に行こう」
「…どこよ、それ」
繋がれた手にますます赤くなりながらも、そう問うてくれる君。それは、OKという意味で良いのかな。
「人から見られないスポットなら、仕事柄、たくさん知ってる」
少しふざけて辺りを見回すふりをすると、
「ちょっと。そこは普通にどちらかの部屋とかでいいでしょ。なんでそんな所でゼロっぽさを出してくるのよ」
と言って志保が吹き出すので、僕も楽しくなってくる。
「部屋でいいんだ?結構、大胆だな」
「もう」
ああ、こんな風に照れながら笑う志保は、初めて見た。ほら、やっぱり。科学者としての君もいいけれど、等身大の君は、もっといい。これじゃあ、部屋に着くまで待ち切れない。科学者と、公安警察官。一筋縄でいかない僕らの事例を、もっと二人だけで愉しもう。
【終】