めまい虚無感や脱力感というものは。元々何かを持っていたと思うから、起こるものだ。
そもそも空っぽの自分には。そんな感情も、起こり得ない。
やり遂げたという思いは、抱いた。
病室で横たわっていたベッドから身を起こし、降谷は頭に手をやる。こんなことをしている場合ではない。大仕事を成し遂げた後の。事後対応や後始末こそ、困難と多忙が甚だしい面がある。
ただ、頭はふらついた。身体のあちこちは痛むが、それ程大掛かりに固定されたり処置されているわけではないのに。意識だけが、朦朧としている。
おかしい。あの因縁の組織に対する大規模作戦を決行し、激しい攻防と策略の末、制圧を成し得た、という感情と覚えは確かにある。やりきった、果たした。その時自分が抱いたのは安堵と達成感だったのだろうか。
ちくっ、と頭か心か、分からないところが痛む。
その時、病室の扉が開いた。よく知った顔が見える。
風見。君は死なないんだな、と、その時胸に流れ込んだのは紛れもない安堵だった。何か言っている。動こうとしているのを咎められているのか、問いかけられているのか。
ただ意識はそこから遠のいていった。
温かい何かが、触れる感覚がする。
安心感に満たされる。心がぬくもりに、包まれる。
こんな心地、久しく感じてなかった。
でもどこか、懐かしい感覚。
意識は深く揺蕩っていく。
失ったものは、戻ってはこない。
片割れのように共にあった、親友。
少年の頃に自分を救い上げてくれた、敬慕を捧げたかの人。
ずっと支えと拠り所であった、かけがえのないものを与えてくれた、仲間達。
自分に遺された使命をやり遂げることに、命や気概を燃やし邁進することが、生きる意味にもなっていた。
けれど。それを完遂した時に。残るのは、何も。
虚無感を抱くだけの在り来たりの感情が。まだ自分にもあったようだ。
うっすらと。瞼を上げてその姿を捉える。
降谷の体に触れ、傷を見たりケアにあたっている人物は、どうやら小さな身形をしているようだ。
知っている、子だ。そうだ。まともに顔も見合わせず言葉を交わすことさえなかったが。
どうして、あの子が。
「降谷さん、最後あの子をかばって倒れたんですよ」
腹心の部下である風見が告げる言葉に。目を丸くする。
決着はついた、ことを確信し、終結を迎えたことを自覚したのは確かだが。
その後。何かがあったのか。
降谷の状態は快方に向かいつつも、意識の混濁を繰り返していた。
知覚がはっきりしている時は、驚くほど冴えて後処理にも指示や指摘を寄越すので、風見はそんな上司の元に詰めつつ業務を行い、未だ症状が安定しない降谷に戸惑ってもいた。あと、ほっとくとすぐ身体を動かし鍛えようともするので、そのストッパー役でもある。
そんな風見から告げられた事柄に、降谷の意識はまた遠のいていく。
あの子は。全てが終わったかのように見えた時、まだ危険な場所にいた。彼女のことは未だ何も知らず、何の理由や経緯があってそこに佇んでいるのかさえ分からなかったが。
降谷は咄嗟にそこへ身を投じ、その小さな身体を抱え保護し堅守した。崩壊する瓦礫の中、その子と共に自身の身体も防御したはずだが、どうやら意識の指揮系統に異常を来したらしい。
そうだあの子を手にしその存在を確かめた時。
懐かしさどころか、忘れ物に巡り会えたような気がした。
もう二度と出会えないはずの。自分には何も残っていない、大切なものの、欠片に。
それをまたさらに失う恐怖にも。急激に飲まれた。
忘れていた。忘れようとしていた、恐怖に。
暫くその温もりに会えていなかったのに。次感じた時は、また何かが違った。
病室の薄暗がりに浮かぶ、その姿形。伝わる、あたたかさ。届く、その佇まい。
それは。
「………せん、せい…」
自分が守れなかった。失った、もの。
だけど。その存在はぎゅっ、と掌を握りしめてくれた。
あれ。確かにここにいる。自分が守るべきものは。今も、まだ、ここにいる。
懐かしい声が、その声音が、奏でる。
───戻ってきて。みんな待ってるから。
───私を引き止めておいて。自分だけ逃げるなんて、許さないから。
もう昏睡に悩まされることは、無くなった。
それから退院の日取りが決まるのは、早かった。降谷も漸くベッドから解放される、と爽快な気分だ。やはり何かを忘れているような気も、するが。
一人で出れるのに、風見がやって来る手筈になっていた。諸々手続きがあるらしい。それを言われると仕方なく、降谷は大人しく病室で待っていた。
立って窓から見渡す光景は、組織の壊滅する前と今と、変わらない。そうそれは。大切なものを喪ってからも、変わらずそこにあったように。
ただそこに平穏と平凡な幸せが、人々にある世界であるのなら。それこそ、これからも自分が、守っていきたいものだ。
その信念の元、まだ立てていることを実感していると。カチャ、と小さな音を立てて病室のドアが開いた。
ゆっくり振り向き。そこにあった姿に、降谷は吃驚で足元から崩れ落ちそうになった。
「………シェリー…」
その言葉に、すっ、と立っていた美女が微笑む。
かき消えそうな笑みとその姿に、やはり幻なのだ、と思う。失ったものは、戻ってこないのだ。
するとその唇が。思慕にあふれた声を紡ぐ。
「…先生、の次は。シェリー?」
はっ、と息を飲む。心臓がおかしいほど暴れる。もしかして。
もしかして、ずっと、自分に届けられた、温もりは。
「……君、は…」
声が震える。今目にしているこの姿は。実体のある姿。
失くしたと、思ったのに。目の前に、戻ってきてくれた。
するとそこにいる、彼女は。一気にその瞳に涙を湛えた。
「……っ、あの姿の私に志保、って呼び掛けておいて。逃げないで」
一気に。感覚が呼び醒まされた。
あの時。瞬間的に小さな少女を助けた時。あまりにも不思議な感覚に襲われていた。
真正面からその深淵に輝くような瞳と面影に出会ったとたん。自分が手にしたものが何か、理解も感情も追いついていなかったのに。
「志保っ…!」
そう、叫んでいた。自分が守れなかった。失いたくなかった人の名を。
こうして手に抱いている僥倖に襲われ。それが手の中から滑り落ちていく恐怖に、慄いた。
ただ、ひたすら。
降谷は覚束ない足取りで、彼女に近づく。
びくっ、と身を揺らしつつも彼女は。逃げることはなかった。
かすかに震える手が身動ぐ。与えてくれた温もりを。確かめたい。
「……触って、いい?」
それにはさすがに彼女はたじろいた。
「なっ…、何でよっ、」
「……え…、だって君、僕のこと触って慰めて、くれてただろ」
「慰め…?、あ、あれは、治療よっ」
「……うん。すごく、効いた」
彼女が生きていてくれたことが。どれだけこの心に、効くか。
伸ばした手は、震えながら彼女の頬に添えられた。消え入りそうな肌が、指に吸い付く。確かにある、その温もり。
透き通るような頬が、みるみる薄紅に染まった。
「ちょっ、ちょっ、とっ、」
慌てふためくような声。その生きた反応に。降谷の目の前に明かりが灯る。
道が、照らされる。この手に宿った、奇跡に。
唇に思いが駆け上がる。
「……志保」
それにはさらに彼女の頬に熱が上った。怒りに染まるその様子に降谷は首を傾げる。
何故。今度はちゃんと彼女の名前を呼んだのに。
「なっ…、馴れ馴れしい」
震える彼女の声に答える。
「どうして? もう、一度そう呼んでるし、いいかと」
名を呼ぶだけで心底震える。その温もりをもっと確かめたくて、頬に添えた手がその柔肌を包み込む。
とたん、勢いよく志保は身を引いた。
空っぽになった手に。瞬間たじろぐが、瞳に力を込めて睨まれて、降谷の胸には新たな熱が灯った。
「気安く近づくからには。全部吐いてもらうから! 私が知らない私の家族のこと、も、わ、私を助けてくれたとたん、苦しそうに意識を彷徨わせた、ことも」
それを。心を開いて話すことができるかもしれない、存在が。
もしかしたら。互いにそうできるかもしれない、相手が。
生きて表情をくるくる変えて手応えのある反応を返してくる、ようやく巡り会えたずっと会いたかった、存在に。
失っていなかった、その人に。
自分の手に、胸に、留まってくれた、彼女に。
失う怖さよりもっと近づきたい知りたいと、漲る感情に。
目頭が熱くなるのを自覚し。
目眩が、した。