【恋人初心者】
「キスする場所ごとに意味が違うそうだよ」
「意味?」
類のソファに腰かけ、図書室から借りてきた戯曲集に目を通していたオレは、突然振られた話に咄嗟にそれだけを返して首をかしげた。さっきからずっと隣でスマホをいじっていた類は、やおらにっこりと笑ってこちらを見る。
「そう。手の甲だったり頬だったりで、その意味が変わるってことらしいね」
「まぁ確かに外国では頬に挨拶のキスをしたりするしな。で、なんでいきなりそんな話なんだ」
「今日がキスの日だってことで検索サイトのトップに特集の記事があったから、なんとなくね」
スマホを脇に置いたかと思うと、長い指がオレのあごをついとなぞる。
「司くんは全部知っているかい?」
──なるほど、気にかけてくれたのか。
確かにそういった記事もバカにはできない。脚本にしろ演出にしろ、演技にしろ……一体何がショーに活きてくるか分からないからだ。一人、合点がいったオレは笑ってうなずいてみせた。
「知らんが、気になれば後から自分で調べるから気にしなくていいぞ!」
そして、また戯曲集に目を落とす。
……が。ゆるりとなぞっていただけの指がいきなりあごを掴んできたかと思うと、そのままぐいっと類の方を向かされてしまった。
今度はなんなんだ──そう問う前に、眉根を寄せた類が泣き出しそうな怒りたそうな、何やら複雑な顔で詰め寄ってきた。
「司くんはさ、もう少し空気を読んでもいいんじゃないかな!?」
「は? い、一体なんなんだ?」
「何なのか聞きたいのは、むしろ僕だよ!」
「まったくわからんぞ……。わかった、とりあえず話を聞くから手を離せ」
どれだけ必死だというのか。力加減を間違えているのではというくらい、指があごに食い込んできて痛い。だが幸い、手の甲をぺちぺち叩けばすぐに手は離れてくれた。あごをさすりながら本を閉じ、破ったりしないよう自分の背後に置いてから類の方へ身体ごと向き直る。
「それで、お前は一体何が言いたいんだ」
「はあ……うん、そうだね。順を追って話すよ」
そう言うと、今度はやんわりと包むようにオレの両手を握りしめる。
「僕たち付き合っているよね?」
「うん? ああ、そうだな」
三ヶ月前くらいだったか。放課後の屋上で、仲間としてだけではなく恋愛対象としてもオレのことが好きだと告白された。そして、恋人になって欲しいと。聞いた瞬間はもちろん戸惑いはしたが、オレも類をそんな風に思うようになっていたこともあって、その場でオーケーの返事をしたのだ。いくらオレが忘れっぽいといっても、そんな大事なことを忘れるわけがない。
「で、こうして手は繋ぐよね?」
「そうだな。手も繋ぐし、ハグだって毎日のようにしているだろう」
「うん。それは僕も嬉しいんだ。……照れながらでも好きだといつも言ってくれるし、本当に嬉しいんだよ」
「なあ類、何が言いたいんだ。本題を言ってくれ」
半眼で訴えると、類は少し顔をうつむかせて何やら考え込んで──意を決したように顔をあげて強い眼差しでオレを見た。
そして、その肩が大きく揺れるほど深く息が吸い込まれた、次の瞬間。
「これまでデートらしいデートもせずにキスもまだでそれなら僕の部屋に招いたら少しはそんな空気になるかなと思ったのにずっと黙って読書を続けられたらそろそろ僕の心だって折れそうだよ!?」
……怒濤の早口で、一息だ。わずかほどにも息継ぎがない。よっぽど溜まっていたと見える。しかし、オレにだって言い分はあるというものだ。握られたままの手をぶんぶんと上下に振って、異議を唱える。
「しかし、図書室に行こうだとか、部屋で読まないかとか言ってきたのはお前の方でっ」
「もちろん口実に決まってるだろうっ」
「さっきまでずっとスマホばかり見てたしだなっ」
「君の意識をそういう方面に向ける方便を必死に探してたんだよ!」
「そ、それにっ! 今まで何度かそんな空気になったりしたが、お前は手を出してこなかっただろうが!」
言い合いながらお互いにどんどん前のめりになって顔が近付き、声のボリュームも上がっていく。ここは類の家なのだから、多少声量は押さえなければと思いながらも止められない。
オレだって、ハグより先の恋人らしい接触を全く期待してこなかったわけではない。むしろ期待していたからこそハグの回数がやたらと増えてしまった側面すらあり、事実、今までそういう雰囲気になれたことは度々あった。
だが、そんな時には決まって類が茶化すような言動をしてきたものだから──
「オレはっ…………てっきり、お前がそういうことは、したくないものなんだと……思っていたんだぞっ」
意識しても下げられなかった声量が勝手に小さくなった。その理由が、目の端からつうっと伝い落ちていく。類はぎょっと目を見開いてオレの手を放り出すと、ソファの背もたれに引っかけたままだった、上掛けにしていたらしいタオルケットを引っ張ってきて懸命にオレの顔を拭った。
「つ、司くん、泣かないでおくれよ」
「お前が勝手なことばかり言うからだ、ばか類っ!」
「悪かったよ。僕もその、そういった雰囲気に自分が気付いてないとは思わなかったんだ。君ばかり悪いように言ってしまって本当に悪かった。だからもう泣き止んでくれないかい……?」
類の言葉を聞けば聞くほど、涙が溢れてくる。さっき思いの丈を早口でまくし立てた類を笑えない。……オレも、知らない内にこんなにも溜め込んでしまっていたのか。
──やはり、言葉で伝えるのは大事だな。
オレはタオルケットをそっと手で押さえて下ろさせると、未だ困り果てている様子の類をぎゅっと抱き締めた。
「…………て、……い」
「え?」
「キスして、ほしい。……そうしたら涙も止まる。多分だが」
「司くん……」
つと、頭を撫でられる。身体を少し離して上目使いに類を見やると、告白してきた時と全く同じ──いとおしくてたまらないと言わんばかりの優しいシトリンの瞳が、恥ずかしげに微笑んだ。
「僕も、今すごく君にキスしたい」
タオルケットを手放した両手が静かにオレの頬へ添えられて。三ヶ月もの間どうしようもできなかった、長くて短い距離が──ゆっくり、ゆっくりと、縮められていく。
「司くん──……好きだよ」
眼を閉じ。唇を迎え入れる。
……重ねられた、熱くてやわらかなそれの感触と、わずかに頬をくすぐってくる類の吐息。
きっと、キスの日が来る度に思い出すのだろうなと予感しつつ。初めて体験する甘い感覚に、しばしの間心地よく酔ったのだった。