光のお隣さん/いい夫婦の日「いい夫婦の日ですね」
「そうだな」
「今日入籍するカップル、すごく多いらしいですよ」
「知ってる」
開店まであと三十分。カウンターの中に立ち、洗ったグラスを拭きながら、テーブル席で茶を飲んでいるリーンと、そんな会話を交わす。
最近の彼女は、学校帰りに花屋へ顔を出したあと、その隣にもこうやって立ち寄るようになっている。たいていは一人で、たまにはガイアと。サンクレッドは「開店準備の邪魔になるだろ」と渋っていたが、基本的にはテーブル席で会話に花を咲かすだけなので、邪魔になどなりようもない。むしろバタついているときには用意を手伝ってくれるので、助かるくらいのものだと話し、歓迎の意を伝えていた。
「……しないんですか?」
「入籍?」
「はい」
「少なくとも、今日はしないな」
最後のグラスを拭き終えて、カウンターから顔を上げると、いかにも不満げに唇を尖らせた少女と目が合った。苦笑しながら湯呑みに自分の茶を注ぎ、テーブル席に向かう。
「いつするんですか」
「さあ」
「さあって。する気はあるんですよね?」
「あるよ」
「だったら──」
「お前の父親はまだ『する』とは言ってないからな」
斜め向かいに腰掛けて、ふうふうと白い湯気を吹く。横目で見たリーンはいよいよ「納得いきません」という顔をしていて、不服を隠そうともしない率直さが微笑ましかった。
「サンクレッドのこと、知ってるでしょう? 自分から『する』なんて言いません」
「かもな」
「あの、同じこと訊きますけど、する気はあるんですよね?」
「あるよ」
「だったら、なんで、する方向で動いてくれないんですか?」
ストレートに次ぐストレート。まったく、怖いものを知らない。若さと、あとは父親の影響、及び教育の賜物だろう。
「してほしいのか?」
「はい」
問いに問いを返しても、臆することなく、打ち返してくる。
「なんで?」
「サンクレッドには、幸せになってほしいから」
「今は不幸せそうに見えるか?」
「見えません」
「だったらわざわざ急いで入籍することもないだろ」
「それでいいんですか?」
「いいよ」
「する気はあるのに、できないのって、ストレスにならないんですか」
ならば、こちらも正々堂々、本心をぶつけてやるとしよう。
「信用できないか、俺が」
「そ──」
強打に怯んだ少女が、否定の言葉を口にしかける。しかし、発されたのは結局、最初の一音だけだった。
「……ちょっとだけ」
「傷付くなあ」
「だって、貴方、モテるじゃないですか」
「お前の父親ほどじゃないだろ」
「いつも笑顔で、みんなに優しくて」
「接客業はそういうもんだよ」
「グ・ラハさんも、貴方のこと、憧れだって言ってました」
「それは……まあ……複雑な事情があってな……」
「だから、私は」
「さっさと既成事実を作らせておきたい、と」
「き、既成事実と呼べるのかどうかは、知りませんけれど!」
このフレーズには照れるのか。青少年の「ここから性的ライン」は、わからないものだ。
「心配するな」
机の半ばあたりまで、わざと大仰に動き、心の準備をさせてから、小さな頭に手を置いた。まだまだ触れられる瞬間には身を竦めてしまうリーンが、それでもすぐに落ち着いて、空色の目を向けてくる。大人びて、強気ではあるけれど、やはり子供で、繊細でもある。そんな「中間の存在」に、大人になりきってしまった自分の言葉は、毒かもしれないが。
「俺が離れようとしても、サンクレッドが離してくれないさ」
「え」
「俺があいつなしでは生きていけなくなってるように、あいつもとっくに俺なしでは生きていけなくなってるからな」
声を潜めて囁くと、ぼぼぼ、と音がする勢いで、薄くファンデーションだけを塗られた頬が紅潮した。
「そ、それって、つまり、どういう、」
「身も心もってことだ」
「はわ……」
「そのへんにしといてもらおうか」
がらりと引き戸が開け放たれた。そこから、白い男が一人、剣呑な顔で踏み入ってくる。
「よう、保護者」
「よう、保護者候補。うちの娘に何を吹き込んでる?」
「別に。パパとママはいつでも仲良しだよって言ってただけだ」
「そうか。話は終わったか?」
「ああ」
「じゃあリーンはパパのところに返してもらってもいいな」
ママの立場に甘んじるつもりは一切ないらしい。やはり、負けん気の強いところは、父親から受け継いだようだ。
「ほら、リーン。いい加減、お暇しろ。もうそろそろ開店時間だ」
「え、わ! ほんとだ、ごめんなさい!」
サンクレッドに腕時計を見せられたリーンが、椅子から立ち上がる。鞄とコートをばたばたと腕に抱える様子を見ながら、大丈夫だと落ち着かせた。まだ来客の気配はない。
「お邪魔しました!」
「またな」
「はい!」
リーンが店外へ駆けていく。その背中を追おうとしたサンクレッドの腕を掴んで、耳の後ろに囁いた。
「ありがとな。似合ってる」
アリゲーターレザーの腕時計。濃いブラウンに染められたバンドが、きりりと手首を縛っている。白い肌を切り分けるようなコントラストが、たまらなかった。
「すぐ外す」
「ああ。水仕事だしな。好きなときだけ着けてくれ」
「あんまり、リーンをからかうな」
「努力はする」
「まったく、お前は……」
俯く男の顎を掬って、リーンがこちらを振り向く前にと、一瞬だけ、唇を重ねた。鋭く息を呑んだ体が、すぐに手を突き、距離を取る。
やめろとは、言われなかった。視線を絡ませる中で、左手を持ち上げたサンクレッドが、見せつけるように手首の内側、艶消しの留め具にキスをする。あからさまな挑発に、心が浮き立ち、笑みが零れた。
「またな」
「ああ」
今日が何の日であろうと、何の日でもなかろうと。この男との関係は、濃密になる一方で、離れることなどありえない。とはいえ、それを恋に夢見る少女に理解してもらうのは、まだ少し難易度が高いし、やはり、毒が強すぎる。
大人にとっての一年は短く、一日はさらに短い。だから「待つ」ことは彼女が想うほどの苦ではないのだと、離れてこちらを見た娘と、近くでこちらを見なくなった父親を、同時に眺めて、思う。
急ぐ必要など、どこにもないのだ。いずれリーンも、身をもって、時間の速さを知るだろう。そのときには、一つ屋根の下で、彼女の嘆きを聞こう。
軽く手を振り、引き戸を閉めて、エプロンの紐を括り直した。いい夫婦の日である以前に、今日は一つの平日だ。間もなく訪れる客のため、テーブル席の湯呑みを片し、ダスターできれいに拭き上げた。