おやすみのまほう「まだ寝ていないのか」
執務室から明かりが漏れていたとかで、ムリナールが通りがかりにのぞき込んできた。
「私が言うのは説得力がないが、君はもう少し時間を決めて眠るべきだ」
「寝ようと思うと目が冴えてしまうんだよ」
すでにフェイスシールドも外して夜具に着替えて肩にカーディガンを羽織って、なにか思い出したらしくて自室から戻ってきたらしい。周りに決裁の紙を積み上げたその姿はドクターとは呼びづらいただ一人の民間人のようで。
ムリナールはまだ仕事着の己を見下ろし、やはり人の事は言えないと思いながら部屋に戻るぞと強制的にドクターの手を引いて部屋の電気を落とした。
「眠くない」
「では眠れるまで側にいてやろう」
ドクターの私室を開けさせて、眠れないと騒ぐ部屋の持ち主を寝具に入れる。ムリナールはコートを脱いでネクタイを緩め、部屋の持ち主が眠るベッドの側にある椅子に腰掛けて右手同士で手を握った。
「君は一緒に寝ないのか」
不思議そうに問うドクターに、ムリナールは薄く笑うとドクターの髪をそっと空いた方の手櫛ですいた。
「私を一緒に眠らせたいのであれば、寝てもまだなお余る時間を休憩時間に割くべきだ。そうでなければ、貴方は朝目覚められないだろうな」
「……君の朝を満足させるまでの休憩は、なかなかしんどそうだ」
「そう思うのであれば、体力をつけることをおすすめする」
ゆるゆると手のひらをあたためるように、すこしかさついた指が手のひらをほぐすように動く。
「何か話をしてくれたら眠れるかもしれない」
「それよりもまずは、目を閉じることだ」
髪をすいていた手が、そっと目に覆いをかける。
「暗いのは、なんだかこわい」
「マリアたちも小さい頃はそう言っていた。安心しろ。私がここにいるし、君が眠るまではこうしていてやろう」
手のひらからの温もりが、じんわりとドクターの目蓋を温めていく。袖口から香るムリナールのコロンの香りが、首周りから下をゆっくりとほぐしていくような感覚が広がっていく。
「ねえムリナール」
「なんだ」
「おまじないとかないの?」
「おまじない?」
ドクターからの子どもじみた要求に、ムリナールが微かに笑ったような気がした。
「マリアたちにしていたような」
「ああ……そうだな。君が眠る時に、怖い夢を見なくなるようなおまじないをしてやろう」
「へえ。そんなのがあるのか」
「ある。あの子たちが一人で眠れるようになってからは、随分と遠のいたが……。まあ、君にならしてもいいだろう」
そこから、ぽつりぽつりと今日みた仕事以外の話を少しずつ広げていく。途中、ムリナールから体の力を抜くようにと部屋の明かりがじわじわと落とされて、まぶたの手が胸の上に移動して、ゆっくりと撫でる動きに変わる。
「…で、……それでね」
呼吸が緩やかになり、ムリナールが重ねたドクターの手が弛緩していく。
「ああ……残りは明日聞こう。おやすみ、ドクター」
「うん。おや……すみ」
ぎしりとムリナールが動いた気配がして、頬に温かなものが触れた。それはおそらくはムリナールの体の一部。
「おやすみ、良い夢を」
なるほど、これがおまじないなのか。
ドクターはそう思いながら、お礼を言わなきゃと唇を開こうとして。
そして言えたかはわからないまま、そのままゆったりと意識を手放した。
◆◇◆
ムリナールはドクターが完全に意識を手放すまで見守って、そこからコートを手にかけて静かに部屋から出ていった。