石乙散文 身体を洗った後、ちゃぷりと湯船に足を入れる。熱すぎないその温度にホッと息を吐き、そのまま両足から肩までお湯に浸かった。両手でお湯を掬って顔も洗う。そこで湯船の縁に背中を預けながら、ふぅーっと息を吐いた。
「おい、乙骨、なにじーさんみたいなことしてんだ」
そんな乙骨に対して、広い湯船をすいすいと泳いでいるのは、乙骨の同行者であり監視対象の受肉体である石流だ。その様子をぼんやりと見つめながら、乙骨はポツリと口を開いた。
「……公共のお風呂で泳がないで下さいよ」
「別にいーだろー、今は俺たちしかいねぇんだし」
「それはそうですけど」
チラリと、浴場と脱衣所を繋ぐ扉の方を見るが、誰かが入ってくる気配はない。完全に自分たちの貸し切り状態だ。
だから乙骨もそれ以上強くは石流に言わず、石流も泳ぐのを止めなかった。乙骨は身体をお湯に浸したまま両手を組んで伸びをした。こんな広いお風呂にゆっくり浸かるなんていつぶりだろうと思っていた。
乙骨はその日、石流と一緒にとある僻地の任務に来ていた。呪霊の罰祓とその原因解決を無事に済ませたのはよかったのだが、すっかり夜になっていたので、任務地で一泊することになったのだ。
とはいえ、今回の騒ぎですっかり人がいなくなってしまったそうで、宿泊先の近くの銭湯に来てみれば、利用客は自分たちだけとのことだ。銭湯の主人は怪現象についてはお兄さんたちが解決してくれたからまた人は戻ってくるさと言って、乙骨たちのために銭湯を開けてくれた。申し訳ないと思いつつも、折角なのでお湯に浸かり、任務の疲れを癒していたのだが。
「おーい、乙骨、生きてるかー?」
ぼんやりとしながらお湯に浸かっている乙骨に、石流がいつの間にか近づいて来ていて、乙骨の顔を覗き込んでいた。その顔の近さにドキリと胸を高鳴らせながらも「…大丈夫です」とだけ返した。
それに石流は「ふーん」と頷きつつ、乙骨の隣に並ぶように座った。湯船で泳ぐのはもう飽きたのかもしれない。
そんな石流の方へ、乙骨はなんとはなしに視線を向けた。湯船に入る前に彼の特徴的な髪型は洗って崩れていた。身体も普段から前の開いたジャケットを着ているから、ムキムキの筋肉に覆われた身体なのも知っていた。だから、その姿を見るのは決して初めてではなかったのだが、間近でしみじみと眺めていて──あることに気付いた。
「……石流さんって」
「ああ?」
「よくよく見ると、身体に傷跡多いですよね」
自分の腕の倍の太さがあるのではとも思う、上腕筋に手を伸ばす。鍛え上げられたその筋肉はほどよく弾力があって、擦れたような痕があった。そこをなぞりながら、肩に触れ、更に胸元にも触れた。普段から、表に出しているそこはところどころに傷が残っていた。
そんな乙骨の手を、石流がパシリと掴んだ。
「…なんだ、誘ってんのか?」
「……なんでそうなるんですか、少し気になっただけですよ」
乙骨がそう返せば、石流はふぅん?と言いつつニヤリと笑った。
「そりゃあ身体に傷は残るだろ、俺は高出力の砲撃も出来るが、身体をぶつけ合う肉弾戦の方が好きだからな」
「それはまぁ、アナタはそうなんだろうなって思いますけれど、それなら尚更ちゃんと肌が隠れる服の方がいいのでは?」
「煩わしいンだよ、前が閉まってると」
「……そういうもんですか?」
「むしろオマエみたいにきっちり着込んでるの見てると邪魔じゃねぇかなって思うくらいだぞ」
石流にあっさりとそう言われ、そういうものなのか、と乙骨は受け止めることにした。それでも、石流の身体に残る傷に気付いてしまうと気になってしまう。反転術式でも傷跡は治せないしなぁ──そんなことを思いながら、そっとその痕に顔を寄せて、ちゅっと口付けた。
乙骨の手を掴んだままの石流の手が、ピクリと震えた。
「……おい」
「……なんですか?」
「いや、オマエがなんですかだよ、急に何やってんだ?」
「何って……」
言いかけて、我ながらなんだろうと思案してしまう。すると石流が「まさかと思うが」と言ってきた。
「…反転術式でも掛けようとしたのか?」
「は?」
「でも反転術式で傷跡は治らねぇだろ」
「いやそれは知ってますけど」と思いつつ、なんで反転術式だと思ったのか。
その疑問をぶつければ、石流はしれっと答えてきた。
「だってオマエ、黒沐死にマウストゥマウスで反転術式の正エネルギーぶち込んでただろ?」
「はぁまぁ……いやだからって、口からじゃないと反転術式使えないなんてことはないですけど」
半分呆れながらそう返すが、逆に「それなら」と石流は問い返してきた。
「結局なんで俺の傷跡にキスして来たんだよ」
石流の疑問は結局最初に返った。乙骨は眉をひねりつつ、改めて石流の身体に残る傷を見つめた。
なんだろう、ここに口付けたいと思ったこの気持ちは。
「……早く治るように、おまじない…?みたいな…?」
言ってから、我ながら恥ずかしいことを言っているような気がしてきた。そして、それを聞いた石流もポカンとした顔をしている。それから不意にプッと吹き出した。
「なんだよそれ…」
「いや、ちょっと待って下さい、今のはナシで」
「ナシでいいのか?他に理由あんのかよ」
「……いや、やっぱりそれでいいです」
「面倒くさがるなよ」
石流はケラケラと笑ってから、乙骨の首に腕を回してその身体を引き寄せてきた。
「…ちょ…」
「……そう言えばオマエ、今日の任務中に口の中を切ったよな?」
そして急にそんなことを聞かれて「え?」と思って顔を向ければ、顎にくいっと手を添えられる。
「…それが早く治るように、俺もおまじない、してやるよ」
そう言って、そのまま唇を塞がれた。身体が震えて、ちゃぷんとお湯が跳ねる。石流の舌が乙骨の唇を割って入ってくる、まるで口内全部をなめ回すように。
(口の中の傷なんて、もうとっくに治ってるけど)
そう思いながら、乙骨はその瞳を閉じた。
顔が熱くて鼓動が速いのは、きっとお風呂のお湯だけのせいじゃない。