いつだってお前には敵わない ハングマンは自分が頭が悪いと思ったことはない。むしろ優秀だ。それは決して自称ではなく、自分の立場が、残した成績が語っている。
自分の前に座っている男も馬鹿ではないだろう。ハングマンと同じくトップガンを卒業し、面倒なWSOをしている。それなのに食べ物はこぼすし、変なところで躓くし、忘れ物もよくする。時々本当に優秀なんだろうかと疑わしくなる。
「あ、チェック」
「はぁ?」
ほんの少し、違うことを考えていたらチェスの盤面が怪しいことになっていた。だいぶボブが優勢になっている。
「この野郎……」
「君は調子がいいとすぐ油断するよね」
「はっ、まだまだこんなのはひっくり返せる」
「そうかな」
いつもは控えめなくせに、カードゲームやボードゲームの時はやたらと強いので表情も言葉も強気だ。
ところでなぜチェスなんかをしているかというと突然の悪天候で飛行訓練が中止になったからだ。そのまま他の講義が入ってもおかしくなかったが、全員の休暇が消化できていないという理由でシンプソン中将から休みのお達しが出た。とはいっても急な休暇だ。予定もなく、一日だけの休みで外は嵐。やることもなくて始まったのが、この賭けチェスだった。
賭けの対象は金ではなく、自分。要は負けたら何かしら相手の言うことを聞くというよくある遊びだ。
「はい、チェックメイト」
「嘘だろッ?」
「よく見てごらんよ。チェックメイト、でしょ」
先ほどのチェックをかわし、攻めに転じたというのにどうやらうまく誘導されていたらしい。
「はぁ……はいはい、俺の負けだよ。で、優秀なWSOのフロイド大尉は何が望みだ?」
こんなことでごねるのはダサいし、ボブなら変な要望はしないだろう。そう考えてあっさり負けを認めると、驚いた顔でボブはハングマンを見た。
「おい、なんだよその顔は。俺が賭けを踏み倒すとでも思ってたか」
「あ、いや……少しは文句とかいうかなとは思ってたけど」
「潔いんだよ、俺は! ほら、何して欲しいんだよ」
「えっ、えっと……どうしようかな」
ゲーム中は饒舌だったのに、終われば急に歯切れが悪くなる。
「何もないならとりあえず飯でも奢るか?」
「あ、ある! あるからちょっと待って……」
「……なら早く言えよ」
一瞬どんなやばいことを頼もうとしているのかと勘繰ったが、伝えられたのは実に簡単な内容だった。
「付き合って、欲しいんだけど……」
「あぁ、いいぜ」
「えっ?」
「で、どこ行けばいいんだ?」
ハングマンは自分に同伴を頼むとは、気になっている女でも落としにいくつもりなんだろうかとニヤニヤしてボブを見返す。しかしボブは顔を真っ赤にして俯いていた。
「今の、忘れて」
なんとか絞り出したような声でボブは呟くと、至る所に身体をぶつけながら部屋から出ようとする。そんなボブを思わず引き留めて、ハングマンは未だ俯いている顔を覗き込んだ。
「なぁ、いつから? 理由は?」
あまりに意外すぎて言葉を取り違えていたが、意味がわかれば途端に興味が湧いた。正直同じチームの一員でしかない。そんな自分のどこに、性別の壁だってあるのに惚れたのか。
「教えてくれたっていいだろ」
逆光であまり見えないが、ボブの顔はさらに真っ赤になっていた。しっかり見たくて顎を掴んで持ち上げると、潤んだ瞳と目が合った。
「ッ……君は、僕を対等に扱うし……僕のために怒ってくれるし……」
少しずつ話し出した内容にそんなことで?と疑問が深まる。それならフェニックスだって同じだ。男でもいいならルーサーだって当てはまるだろう。
「それに、君の飛び方が綺麗で……本当に空が好きで、飛ぶのが好きなんだなって。僕にはできない飛び方だから憧れて、その……気づいたら目で追ってて……」
話していて恥ずかしさの限界が来たのかボブは黙ってしまった。一方のハングマンもボブの言葉に固まっていた。
飛び方が上手いとか、技能が高いとか褒められることは多々あったが、綺麗と言われたの初めてだった。それに誤解されがちだが、ハングマンは空が好きだった。好きだからこそ、その空を下手に飛んでいる奴や全力で飛んでいない奴が嫌いだった。それを隠さず言動に表していたのは性格ゆえだし、嫌味な奴だと言われもなんとも思わなかったのに。
ただ綺麗と褒められただけで、自分の本質を見透かされたような気がしてハングマンは感じたことのない感情が湧いてくるのを感じた。
この感情に名前がつくとしたら、なんなのか。それを知るためにはどうしたらいいのか。
「ハングマン……離して。僕、帰るから……」
もう断られると思っているのか、泣きそうな顔で手を払うとボブは背を向ける。
「変なこと言ってごめん。だけど安心して。明日からも何も変わらないし僕もいつも通りに」
「俺がいつ断った?」
「ハングマン……? ぅわッ」
勝手に話を進めるボブの言葉を遮って振り向かせると、壁に身体を押しつけた。そして覆い被さるように身体を密着させると、耳元で囁く。
「約束、ちゃんと守ってやるよ」
「え……?」
「付き合ってやるって言ってんだ。嫌なのか?」
予想外の展開にボブはただただ顔を横に振った。その様子は震える子犬のようだ。
「俺を本気にさせたんだ。覚悟はできてるよな?」
じっと見つめると、きっと本当の意味で理解はしていないだろうがゆっくりとボブが頷いた。
こんな純粋な生き物に好かれるのも意外だが、もう捕まえてしまったので逃す気もない。気の済むまで確かめよう。
「これからよろしくな、ロバート」
あえて名前を呼んで、壁に押し付けたまま唇の横にキスをした。本当にギリギリの、唇の柔らかさがほんの少しわかる場所に。
「あっ、え、いまっ、今キス」
こんな今時の子供でもしているようなキスで、ボブは壊れた音楽人形のように言葉を繰り返して頬をおさえた。そのまま見たことのないスピードでハングマンの腕から逃れると部屋を飛び出す。廊下でも何かにぶつかったのか盛大に音が響いた。
「くっ、はははっ」
男にキスをしたのに嫌悪感はなかった。むしろ反応に心地よささえ感じた。
これから楽しくなりそうだと、ボブがチェックをかけたルークを手に取るとハングマンは満足げに笑みを浮かべた。
〈了〉