永きに添う/尾月 国の為に死ねるなら、役に立ったみたいでいいじゃないか。暴力に盗みに殺人なんて、生きているだけで恥なものなんだから。勝手な父親に、勝手な息子も面目が立つだろう。面目なんてないだろうに。
嘲笑。
それが異常だと思わなかった。
侮蔑。
向けられる疎外の視線から目を背けるのは自然だった。
嫌悪。
身を守る術は暴力しかなかった。
国が変わろうとしている。立身出世、民権、自由、民の為のお上。政は生きとし生ける者の為に平等にある筈が、国の中心となる人間たちの手で国の隅々の在り方が歪曲されつつある。月島が生まれ育った集落にも、何処から端を発したか変革の兆しが広がり、充満していた。
拳を上げ、熱狂の演説が方々から聞こえる最中に、月島基は隣国との諍いに兵士として呼び出された。
字も読めぬ、書けぬ者たちが言葉を使って自己を表現するようになって数年経つと、ハズレモノはより生き難くなった。
ハズレモノが戦へ征く。
これは自然な流れなのだと、徴兵制には僅かな安堵すらあった。立派な名目は、真っ当に暮らす者に与えられる名誉だが、月島には必要ない。何処で生きても、死んでも、弔われぬのなら、祀られぬのなら、上へも下へも埋もれられぬなら、同じ事だ。
手を引かれ、走っている。
只管に、何処かへ向かっている。
顔だけは昔馴染みの無表情の男の手は汗でびっしょり濡れて、浮き出たたまの汗は太陽を吸い込んで光って、月島の視線を惹き付けた。
「なんで」
垂れ流しの汗に片目を伏せ、振り返った男は口を切った。
海の音がいつまでもまとわりついている。
ずっと海沿いを走っていたのだから、当然だ。
見る景色、見る景色、変化がない。この疲弊が嘘だと──嘲笑うようだった。
「いくさなんて、ちがうだろ──なあ、基くん」
上擦った声は訴える。
同じ歳でも幾分か幼く感じるのは、細身で、色白で、病的に映るからだろう。
「お前だって、徴兵されたんだろうが。」
息咳切って肩を激しく上下させ、ようやく交わす会話でないと思う。
「おれはされてない。だから、いくなよ。」
「はあ…? ていうか、ここ何処だ」
男は無表情を赤くしたり青くしたりして、月島の手をその両手で握り込んだ。益々理解の届かない行動にそれ以上の言葉を失った。
「逃げよう、一緒に。」
「逃げる? 何から? 何処から?」
「ここから。」
「あほか。誰にも知られずこの島を出られると思うか。お前はあの父親があるだろ。俺とこうしてつるむのも禁止されたんじゃないのか。そもそもこうして顔合わせるのも何年振りだって話だろうよ。」
幼い頃は遊び場所が同じ海辺だという理由だけで、毎日会うようになった。虐められやすい虚弱な見目だったこの男をよく庇っていたからか、他は誰も知りもしなかった「基」という名前で呼ばれ、手を差し伸べられ、懐かれた。しかしそれもたったひとときだけで、大人が見え隠れし始めた頃から近づくこともなくなった。
男は豪農の妾腹だったのだと、会わなくなってから知った。
「殺した。」
海鳥が近くで鳴いた。
波の音に馴染まず、葉が擦れる音からも浮いて、少し、怖かった。
「殺したから、どちらにせよ俺はここにはいられない。」
もう理由はいらないだろとまた手を握り、走り始める。
策があるのか。
何故、道連れなのか。
生まれてからこの方不穏な中に生き続けていると、それらは全て瑣末な心配事になり得る。
手を引く男が血濡れている事に気がつく。
刺さり続けていた嘲笑が遠ざかり、自由とは何か、生きるとは何か、初めて考えた。
「いいよ。」
「あ?」
「俺は清国に行く。終わったら絶対に一度だけ帰ってくるから、その時にここから逃げよう。」
それまで、逃げられる算段を考えていろと言った。殺したことも隠し通せと無理を承知で言うと、親殺しの男は素直に頷いた。
自由があるのなら、生きられるなら、真正面から目を合わせて名を呼んでくれるこの男と探してみたいと願ってしまった。
それからその男に会うことは二度となかったのだが、第七師団第二七連隊に配属されてから出会った尾形百之助という部下の面影がいたく懐かしく、「逃げられましたね」と歪めた顔からは──故郷の匂いがした。
《了》