パプリカはティファニーブルーの辻褄合わせ/尾月 妙だ、と思った。
仕事を終えて帰宅し、家の扉を開け、玄関に同居人の革靴が揃えられているのを確かめ、目の前の廊下を突っ切った先にあるリビングの扉を見て、そう思った。
同居人はリビングの扉だけは開き放しにする癖がある。暖房や冷房を使う時は注意するが、他は特に開けてようが閉めていようが気にならないから何も言わない。
もう暖房は必要のない春の終わり。夏までは少し遠いから冷房も要らない。
ぴったりと律儀に閉じられた扉は平らな木目で帰宅した小汚いサリーマンを迎えている。
珍しいな、よりも、妙だ、の感想が勝った。
脱いだばかりの革靴を一回り大きい革靴の際に並べ、先に左側の自室に向かう。スーツをハンガーに掛けてTシャツとスウェットに着替えると、漸く肩の力が抜ける。
リビングの手前、玄関から見て左奥に設えられた洗面所で手と顔を洗った。
奥のリビングから肉を焼いた匂いがする。着替えの間にも電子レンジが何度かリンリンと鳴っていて、ガスコンロが火を灯す音も聞こえるからスープか何かを温め直してくれているのだろう。
こういう瞬間に、満ち足りた幸せを感じたりする。
独りで生きる方が楽だと思った時期はそれなりに長かった癖に、大切なものが出来てしまうと手のひらを返して疑いようのない幸福を一身に享受してしまった。
いつかは失うのだろうし、消えるのだろうし、痛みや重さを抱える事もあるだろうが、それがあの男──尾形百之助に与えられるのだから特段文句はない。
ひっくるめてお互い様だと思わされる。
鏡で改めて己が面を見る。
だらしなくなったものだ。
「ただいま。」
「おかえんなさい、丁度ですね。」
ぴったり閉じられていたリビングの扉を開けると、生活の匂いや温度が充ち満ちて、未だスーツ姿のままの尾形の存在を異質なものにした。
「何だ、着替えなかったのか。汚れるぞ。」
「作る時はさすがにエプロンしましたよ。」
尾形はそっと目を伏せて席に着くよう仕草で促す。
妙だ──とまた思う。
「…あー、俺、何か忘れてるか? それともお前が何かしたか?」
テーブルに並べられた料理はごくごくありふれた家庭で見るものだろうが、男の二人暮らしにしては豪勢だ。今日は──記憶違いでなければ──特筆すべき事のない普通の水曜日である。
「俺らに共通の何かがあると判断した、もしくは仮定した上で忘れているのかと聞いているなら無い、としか答えられませんな。それから疚しい事は何もありませんし。」
いつも通りの平然とした、少し理屈っぽい返答である。それでも何かが引っ掛かる。こういう直感は意外と当たるものだと経験上知っているが故に素直に納得できなかった。
大小様々な大きさと分厚さのハンバーグと、彩り豊かなサラダと素朴なコンソメスープと、尾形の祖母が送ってくれた酢漬けの小皿とが規則的に述べられている。数年前、一緒に沖縄に旅行した時に作ったグラスには尾形の祖母が送ってくれるほうじ茶が注がれていた。
ともかく五感を擽る食卓である。
「ハンバーグか。食いたかったんだよな。」
「昨日、寝言で言ってましたよ。」
「そんな夢見んかったぞ。」
「まあ嘘ですから。」
「しょうもない…」
手を合わせ、いただきますと声を揃えた。
違和感は拭えないが、こんな日常が当然になっている。決して明るくも快活でもない二人だから刺激は少なく、穏やかである。
当たり前に共に過ごす約束──いわゆる恋人の関係を指す──をしたのが共に通った大学の卒業式で、一緒に暮らし始めたのもおよそ同じくらいの時期だ。別れた方が良いだとか別れたいだとかもう嫌だとかは何度も思った。理由があったり理由がなかったり、身勝手な心境によるものだったのだが、尾形は離れる事を許さなかった。絆すのが上手い男だからなのか、絶対に離れないという執着をひたと体感するからなのか、いつも最後は互いの欠落は互いにしか埋められないと思わされる。別に尾形には月島がいなくても構わないだろうし、月島自身にも尾形がいなくても問題ないのだが、自然と隣にいなければならないと思わされている。
つまるところそれが居心地が好い。
先輩と後輩の延長で手を繋いで身体を繋げて、ただそれだけの筈が、今となっては人生をも重ね合わせている。言い逃れも出来ぬ、ただ単純に月島自身が選んだ現状なのだが、ふとしたとき、過去も未来も尾形の手中なのだと思う。
妙だ、とはそれらをひっくるめて生まれた感想だ。
「あ、ちょっと待っててください。」
良い塩梅に焼けた肉の塊と茶碗の中身を半分ずつ減らしたスーツ姿の男はそう言って席を立った。行儀が悪いと注意したが、既にリビングから飛び出していて返事はない。
開けたままの扉の向こうからガサガサと硬質な袋が擦れるような、この家に似合わぬ音がする。耳に馴染まぬ音は近づいて、扉を抜けた。
「あの、月島さん。」
尾形はハンバーグと白米を頬張る恋人を見るなり耳まで真っ赤に染め上げて、あのともう一度口籠った。
「…ん?」
さっきまでなかったネクタイを締め直して、両手には丁度その顔と同じくらいの色彩の、派手な薔薇の花束を抱えていた。泣きそうに歪んだ顔は知人の白石由怖いわく端正なのだそうだ。今は見る影もないのだが。
頬張った肉と白米と素早く明して口の中を空にし、「薔薇?」と見れば分かるものを聞く。
「貰ってください。」
低く震えた声はそう言って、おずおずと花束を差し出す。
貰えばいいだけにしては凄まじい重量感を覚えて、けれど何も言葉にならないままでいると嬉しさが余々にこみ上げてきて、
「おう、ありがとう」
と拙く受け取った。どうやって飾ろうかとか生きた花を見るのは久しぶりだとか、差恥を紛らわそうとそんな事を呟く。
「あの、月島さん。」
今日は一体何の日だろうか。共通の何かがないのならば、明日世界が減亡すると尾形だけが知っているのかもしれない。それとも抗えない運命による寿命を知ってしまったのだろうか。
どれも口にすればぐうの音も出ない正論でねじ伏せられてしまうから言わないが、そんな事でもなければこの状況はあり得ないと思う。
十年になる付き合いの男はポケットをまさぐり、跪いた。
蛍光にほど近いライトブルーの小さくて高級感のある箱が仰々しく差し出される。
小さな箱はゆっくりと開かれて、シンプルなデザインの指輪をお披露目した。
「薔薇と指輪って…ちょっと──待て」
次から次へと。心臓がもたない。一緒に暮らす日常が充分に幸福で、今まで想像も出来なかった愛情らしいものを知って、それなりの生活が送れていて。
尾形がいたから成立した事もあればそうでない事もある。
尾形がいても、いなくても。
いや。
いなければ。
「結婚しましょう、月島さん。」
幸せじゃなくてもいいです、と顔をくしゃくしゃにした。
「俺は不条理な世の中が大嫌いです。でも、アンタと生きる不条理なら俺には希望になるんです。希望なんて、不似合いですけど…」
馬鹿で、可愛い男だ。
今更何を言うんだと思う。
もう覆りようのない生活の匂いが染みついている。
習慣や癖はもうどうしようもない。
たった独りでは生まれなかったものだ。
今更、一緒に死にゆく約束をするのか。
震える手がひとつの指輪を収めた箱を支えている。
力が抜けたのを利用して笑い、箱を受け取って跪く男の前で正座をした。
「俺はたとえ絶望でも、幸せがいいんだけどな。」
手が震える。
成熟と未熟の狭間を生きる年齢の男がふたりして、リビングの真ん中で小さくなっている。
これ以上許容しきれぬ非日常が降ってばかりくるものだから、興奮して表情ひとつ繕えない。
「そうだな、そうだ。」
ずっと伝えるのを、想うのを、避けてきた事がある。
「俺は尾形百之助を愛してる。」
世の中は不条理だ。
生きる事は辛い。
どこにいても何かがずっと間違い続けているような気がして、憂鬱だった。
釈然としない呼吸を続けていた。
「俺を見つけてくれてありがとうな。」
ただ、同じだけの暗闇を同じだけの傷を同じ分量で抱えてこられたから不条理の中に気持ちが生まれた。誰が何と言おうとこれが愛情だと断言できる。愛情は互いにとってだけ辛かった世界に、生きる希望と絶望とを孕んで飽和させた。
大きな眼から溢れる大粒の涙を、泣き虫だなあと抱きしめた。
「ひゃくのすけ──百之助、良い名前だな。」
伴侶となる男の名を呼ぶ。
膝の上で香る薔薇と体臭の混じった洗剤の匂いを吸い込んで、また新しい生活を予感する。
「お前も一番大事な事、俺に言ってないんじゃないか?」
背中に回された腕の逞しさと縋りつく体温とを確かめてねだった。
優しく触れる大きな手がうなじを包んで確かめるようにすべり、抱擁から解放される。つるんとした漆塗りの瞳は青白く薄い瞼に覆われて、より深く昏い。どこまでもがらんどうな双眸に吸い込まれながら「うん?」と首を傾げ、格好のつかない愛の告日を待つ。愛想はなくともキスの巧みな薄い唇が「基さん」と低く呼んだ。
「良い名前ですね、基さん。愛してます。」
見つけられてよかったと相好を崩した最愛の男に、見つけるつもりだったのかと聞く。
「見つけなきゃいけないような気がしてました。」
「へえ。前世で何かあったのかもなぁ。」
「前世なんてありませんよ。バカバカしい。」
「珍しく根拠のない発言かと思えば…こういう時は適当に合わせろよ。」
「基さんの前で繕うのはごめんですよ。いつだって正直者の俺が好きでしょう?」
「ぬかせ。」
無事にコトが済んで安心できたからか、ようやく見慣れた尾形らしい態度に戻る。
妙だ、とはもう思わない。
薔薇の花束と指輪を眺めて、冷静になればなるほど似合わない事を思い知らされて可笑しい。
「飯、食うぞ。折角豪勢にしてくれたんだろ?」
「やっぱりバレました?」
「サラダにパプリカなんか混ぜた事ないだろうが。」
立ち上がり、薔薇と指輪をテレビの前のローテーブルに置いて振り向くと、ネクタイを緩め、シャツのボタンをひとつ外した尾形は何か物足りなさそうに両手を伸ばしていた。
「一番大事な返事、ちゃんとくださいよ。」
尾形百之助が欲しいものは何だって与えてやりたいと思う。
──結婚しましょう、月島さん。
甘やかしすぎだろうか。
「喜んで。末永く、よろしくお願いします。」
いつかは〝一緒に死んでください〟と言われるのだろうと勝手に思っていたのだが、末永い先を求められしまった。今更逃げるつもりなど毛頭ないが、やはり月島基の人生は尾形の手中なのだ。
冷えてしまったハンバーグとコンソメスープは、舌に馴染んで美味かった。
《了》