恋に落ちるというのは、色々と儘ならないものだ。
一日の任務を終えた夜の隙間、自室の隅で読んでいる書物の文字を表面だけで追いながら、水心子はぼんやりそんなことを考えていた。
水心子が親友である源清麿に恋をしていると自覚してから少し。
色々あって元から親友というだけの関係ではなかったのだが、盛大な勘違いとすれ違いを経て今は互いに恋をしていると認め合った仲でもある。それ自体は良いのだが、そのことを認めてからというもの、水心子の方はどうも心身の制御が上手くいかない日々が続いていた。
清麿への想いを自覚する前から散々似たような症状を持て余していたのでこういった感情面の不具合には慣れているはずなのだが、それとはまた違う──これまで当たり前だった世界が何か根こそぎ変わってしまったような、そんな感覚に陥ることが増えた。
例えば、つい先程も任務先で清麿から仕掛けられた口付けひとつで咄嗟に取り繕えないほどの前後不覚に陥って、情けない姿を晒してしまった。任務の最中にやることではないという前提はさておき、別に口付けなんてこれまでだって何度も交わしているのだから今になってどうこう騒ぐような行為ではない。
戦闘は終えていたとは言え、戦場で突然唇を奪われるという突拍子もない行為ではあったからそれに動揺しただけだと己に言い訳をしてはみたが、どう考えてもそれだけが理由ではないことは自覚しているし、好いた相手からの情を感じて舞い上がる気持ちがないと言えば嘘になってしまう。
動揺しすぎたことが悔しくてその場の勢いで後で覚えていろなどと宣言したはいいが、任務を終えて帰還し自室に戻ってからも、具体的にどうするかは何も決められていない。同じことを返すだけでは気が済まないので、もう少し深く。それくらいのことは考えたのだが、悶々としているうちにこんな時間になってしまい実行に移せないまま今に至っていた。
戦いに関することなら経験則からいくらでも新たな策を考案できるのだが、色事に関してはまだそこまで見識が深くないという自覚はある。だが、これまで散々自分からそういう雰囲気に持ち込んでいたはずなのだから、誘いをかけることには慣れている。なので、今更躊躇するようなことはないはずだ。
物理的な距離を詰めて、腕を引いて、それから口付けを一つ落とせばあとは簡単。──だと思っていたのだが、そこに至るまでがまず長い。そもそも、今この部屋にそういう空気は一切流れていないので、まずはどうやって雰囲気を作るのかという問題もある。
(あれ……?)
今までどうやって誘いをかけていたのだったかと、水心子は記憶を手繰り寄せてこれまでの事を思い返してみる。
気がついたら清麿がそっと隣に寄り添っていて、触れたいと思ったときには繋いでいた指が解かれて、髪に触れて頬を撫でられる。そうして、いつの間にか唇が届くような距離まで近づいて──そのまま口付けをするのが、行為を始める合図だった。
口付けをするのはいつも水心子からだったので、これまでずっと自分から清麿の事を誘っていたのだと思っていたが、なるほどよく考えてみればこれは完全に誘導されている。そうなると、つまり自力で誘えたことなど一度もないじゃないかと、こんなところでようやく気付いてしまったものだから、水心子はまた頭を抱えるしかなくなってしまう。
(…………いや、何も全部が全部そうだったわけでは)
ないだろうと思ったのだが、冷静になって考えても自分からそういう空気に持ち込めた覚えが全くない。空気を壊したことならあるような気がするが、事に及ぶきっかけは様々だったとしても自分から作れたことは多分一度もない。
そこまで考えたところで、あの頃の自分が盲目だったという認識はあれど実は思っていたより相当深く清麿を振り回していたのだろうなと今になってまた気まずさが募る。
だが、過ぎたことに囚われるよりも今どうするかを考える方が建設的だ。そう思って、今更こんなことで怖気付いてはいられないと水心子はどうにかして事に持ち込むべくこの議題と真面目に向き合おうと息を吐く。
ただ、そもそも距離の詰め方から既に分からない。この真っ新な状態からさりげなく近づいて口説き落とすための道筋はまるで見えないし、そもそも清麿は目敏いから不審な動きをすればすぐに気づかれるだろう。現に、あまりに見つめすぎたために気配で察したのか、読んでいた書物から顔を上げた清麿と、ばっちり目が合った。
「水心子、どうかした?」
清麿は、水心子の中で渦巻く荒れ狂う情緒とは真逆の凪いで穏やかな表情でこちらを見つめている。不埒なことなど何も知らないような顔をしているが、その瞳も指先も、火が点いてしまえば水心子よりも余程巧みな手段でこの身を蹂躙することを知っている。この状況でそんな一面は欠片も見せずに微笑むその様子に思うところがないわけではないのだが、今の水心子には何も言えなかった。
「…………いや、別に」
自然に側に寄るというのは、こんなに難しいものだっただろうか。意識するからこそ困難に感じるのだとは思うが、このほんの少しの距離を埋めるのが物凄く険しい目標のように感じられる。
自分の気持ちを理解する前の時点で、何とは言わないが勢い余って押し倒したこともあるし、自棄になって自分から上に乗ったこともあるのだから、正直な話今更こんなことで純情ぶれる身でもない。あれと比べたら随分と難易度は低いはずだから何を躊躇っているのかと改めて思う気持ちはあるのだが、ならばどうすればいいのかと考えたところでこの状況を打破するのに適した答えは出ないまま。
水心子が黙り込んで不埒な考えに耽っていると、それを静観していた清麿から堪えきれない笑いが零れて静寂が破られる。それだけで、水心子も清麿に己の不審な行動について何もかも露見しているのだということを察した。
一連の困惑について声には出していなかったし、極力大人しく様子を伺っていたつもりなのだが清麿はいつだって小手先の小細工では誤魔化されてはくれない。分かっていて観察に徹するとは随分と意地が悪いなと睨んでもいつも通りあまり効いている様子はないし、そうすることで余計に楽しそうな顔をすると知っているから抗議するのは早々に諦めた。
「……後で、なんだっけ?」
「それは……」
あの戦場での会話を忘れてくれるならそれで良いと思ってはいたが、まあ清麿がこういう時思い通りにいく男ではないことくらい知っている。期待に満ちた──というような純粋な目ではなく、どう見ても面白がっているであろうその視線は、簡単に逃す気はないという意志を隠さず水心子の瞳を捉えていて、逸らすことを許してはくれない。
その視線から伝わる温度に、先程の経緯を思い出して少しばかり腰が引ける。いくら突然のことだったとは言え、口付けひとつにあんな不慣れな態度を取るつもりなどなかったのに、反撃も反論も何一つできないまま盛大に感情の高揚を見せつける羽目になったのは不可抗力とは言えあまりにも情けない。
咄嗟に後で覚えていろと負け惜しみを口にしてしまったが、そう言った手前たまには翻弄してやろうと志していたはずなのに、この時点でもう詰んでいる気がするのは何故だろうか。
別に勝負しているわけではないはずなのだが、勝ち筋が全く見えない。
「どうしてくれるのか、楽しみにしているんだけど」
「……するなと言っただろう」
これは水心子が常々思っていることだが、清麿は分かり易く甘い顔をしている時ほど圧が強いし意地も悪くなる。
この親友がどんな時だって優しく頼りになる存在だと思っていることは嘘ではないが、それはそれとしていい性格をしていると認識しているのも変わらない事実だ。譲らないものは譲らないし、弱いところを突いてくるのが異様に上手い。
「でも、二言はないよね?」
「…………当たり前だ」
こうして今日も優しい顔で逃げ場を奪って、水心子が選べる選択肢は絞られていく。
同時に、なるほど今までこうやって誘導されていたということを、改めて理解した。結局のところ、水心子は自分から誘うのが上手くはない。これまで上手く出来ていると思っていたのは、全部清麿の掌の上だったからだと今なら分かる。
とは言え、今はもう互いの感情がどんなものかきちんと理解しているのだから、いつまでもこれに甘えてはいられない。好意をきちんと示すためにも自力でなんとかできるよう解決策を見出さねばと思うが、こんなもの実践以外でどう身につければいいのか。
そもそもこんな誘いは清麿以外にすることでもないから、慣れるまで毎回こんな目に遭うのかと思うと、未熟さを暴かれているようでなんだか悔しい。
何はなくともまずはやるしかないと、意を決して清麿に一歩近づく。これもまた誘導された結果なのだとは思うが、今はそれに構ってはいられない。
気合いを入れるためにひとつ息を吐いて清麿の膝に乗り上げてはみたが、清麿はそんな水心子を楽しそうに見つめて融けそうな顔で微笑むばかり。水心子も条件反射でその顔に見惚れて動きを止めてしまうものだから、そこから何も進まない。悔しいが、これが完全に自棄になっての行為だと清麿には完全に見破られている。
「…………」
「……水心子、大丈夫?」
「ああ、問題ない」
目が据わってるけど、と言われたがその指摘は一旦聞かなかったことにする。この勢いで押し切らないと、多分そのまま怖気つく。不慣れなことを恥じるのなら、何事も実践を繰り返すしかない。閨事の作法だって行為を重ねるうちになんだかんだで覚えられたのだから、これも修練と一緒だ。
などと水心子が真面目に不穏な事を考えていると、暫くその様子を観察していた清麿の方から瞬きの間にそっと唇を奪われる。別に油断していた訳ではなかったが、あまりにも鮮やかな手口に水心子は一瞬何が起きたのか理解が遅れて──されたことを把握した瞬間、これまで考えていた策が全部綺麗に吹き飛んだ。
「……清麿」
「駄目だったかな」
「そうじゃないけど〜……」
どうやって触れれば良いのかと考えていたものを逆にあっさり奪われたことで空回っていた力が抜けて、崩れ落ちた水心子の身体は清麿にそのまま受け止められる。そこまで計算の上なのだろうなと思うとなんだか気恥ずかしくて顔を上げられないが、この抱きついている状態も割と恥ずかしいので今の水心子には行き場がない。
抱き留められたまま、もう全部バレているなら構うものかと水心子は「なんでそんなに余裕なんだ」と小声で問い詰めるが、対する清麿は意外そうな声でそんな事ないよと宣った。
「……僕も結構、緊張しているからね?」
「え、何が……?」
先の戦場であんなことをしておいて一体何を言うのかと、水心子は真顔で疑問を投げた。今この場でも涼しい顔で堂々と唇を奪っていったような男の口から緊張なんて言葉が出たことに、素直に驚く。
「……最近、ちょっと抑えがきかないって自覚はあるから」
「そう、なのか」
こういうとき、どうするのが正解だったのか分からなくなる。清麿は、そう言って水心子の身体を抱き締めた。余裕ぶっているように見えて、内心は水心子が抱えている混乱とそう変わらないものを持っているのだと、清麿が言いたいのはそういうことなのだろう。そんなことを素直に言われては、水心子に返せる言葉はない。
「……嬉しいんだろうね、きっと」
「…………そっか」
他人事のように言うのが可笑しいが、清麿の瞳が照れたように伏せられて、その頬がいつもより僅かに赤く染まっているような気がしたから、珍しいものを見たなとまた驚く。
その顔を見ると、水心子の方まで先程までの焦燥が薄れて、ただ心が満たされていくのを感じる。現金なものだなと己の心に言ってやりたくはなるが、好かれていることも好きでいられることも、嬉しいものだ。そう素直に思えて、その気持ちが互いに同じものであるということを実感できるこの瞬間が好きだと、水心子も柔く微笑んで同意を示す。そうして今度は、躊躇わず自然に自分から唇を重ねられた。
「……ん」
気持ちの上では穏やかなのだが、交わす口付けの方は真逆の様相なのが面白いなと、水心子は浮き足立ったままどこか場違いな事を考えながら伸びてくる舌を受け入れて応える。一度唇が離れても、もう一回と今度は清麿から口付けられて、静かな部屋に次第に荒くなっていく呼吸と水音だけが響く。
初めての頃は唇を合わせるだけのもっと拙い口付けだったはずだけれど、今では当たり前に舌を絡められて、それに応えることにも慣れた。
「……っ、あ……」
息継ぎをすることも惜しくて言葉すらも交わさず没頭していくうちに、慣れたつもりでいたそれが、知っているものとは全然違うという事に気付く。清麿の方に遠慮がなさすぎて、多分これはいつも通りの口付けではない。もっと重くて深い、清麿からの執着が全部表に出ているような、そんな行為だ。それを受け取れることが嬉しくて水心子もなんとか返そうとするが、気を抜くとこれだけで腰が抜けそうになるから現状を保つので精一杯だった。
その勢いに負けまいと拙いながらも舌を絡めようとするが、一方的に貪られる感覚も嫌いではないから次第に抵抗を放棄する方向に傾く。ただ、水心子の力が抜けて唇が離れそうになると後頭部を押さえ込まれてそのまま続けられるものだから、簡単には逃して貰えそうにない。清麿からのこういった行為にはまだ慣れないが、求められていることが態度だけで分かるから、これが好きということなのだろうなと己の感情について改めて自覚させられる。
清麿はこうして強引に事を進める事にはまだ抵抗があるようだけれど、されたらされたで水心子もやり返す気でいるので別に遠慮しなくても構わないのにと思う。それを真っ向から口にするのは流石にまだ無理だが、清麿になら別に何をされてもいいと思っているのは今でも変わらない。
こういう仲になる前から相当自制していたと前に言っていたから、もう少し気軽に箍を外してしまえば良いのにと、水心子は己の置かれた状態を棚に上げてまた不埒な事に思いを馳せる。清麿はいつも自分の身体を過剰に労ってくれるが、別にそこまで軟弱でもない。随分と不健全な事にばかり明るくなってしまったとは思うが、そういう身体に仕立てたのは清麿なのだから、好きにしてくれて構わないのに。
「……清麿、」
「…………ん? どうしたの」
そんなことを考えてしまった以上、これだけで終わるのは嫌だと思うけれどやっぱりどう誘えばいいのか上手い方法は思いつかない。もう既に全身の力が抜けてしまってまともに立てそうにないし、声も顔も蕩け切っていてとてもじゃないが他者に見せられるようなものではない。なにか色々と考えていたことはあったような気がするのだが、今はもう目の前の男のことが好きだということ以外、なにも分からなくなっている。
「…………」
「ねえ、水心子」
言い淀んでいるところに、再び正面から目を合わせられる。この澄んだ色の瞳に映る自分がどれだけ腑抜けた顔をしているのか直視できなくて、気恥ずかしさで顔を逸らそうとしても、物理的な距離が近すぎて逃げることも出来ず強引に視線を戻された。
見合わせた清麿の瞳には、普段見せている穏やかな色なんて欠片も存在しない。あるのは、見慣れた欲望だけだ。それを隠さずにいてくれるようになったことが嬉しいと思うのも、恋をしているからなのだろうか。
「…………なんだ」
「これだけで、良かった?」
何が、とは聞けなかった。
水心子があれだけどう切り出そうか頭を抱えていたことを、清麿は一言だけですんなり成してしまう。それが少しばかり悔しくはあったし、分かってて言うところが清麿だなとは思うけれど、今この状態で水心子が選べる選択肢が一つしかないことくらいは、なんとか分かる。
「……………………良くは、ない」
「うん。……続き、しようか」
水心子がなんとか絞り出した返事に対して嫣然と微笑む親友の顔は、まだ一度も見たことのないものだった。これだけそばにいても、いまだに知らないことはいくらでもあるのだなと、それを知れることが嬉しくもあるし、恐ろしくもある。
今日もまた清麿のいいように転がされているような気がするが、それを望んでいるのは自分なのだから余計なことは考えずに今はこの衝動を享受しようと、水心子は清麿の言葉に大人しく頷いた。