隣の青を知っている ある男が、目の前の男の頰を打った。骨が軋む、音が、悲鳴のように鳴る。殴られた男は、畜生、と吐き捨て、その眼を憎悪に燃やし、裂けるほど右の頬を吊りあげた。眉下の皮膚で三角形を描いたその男は、素早くしゃがみこみ、道端の石を拾う。
「…………ッ!」
声にならぬ咆哮は、まさしく獣のそれで、あった。茹立つ眼の鈍色には赤が奔り、明確な攻撃の意図をもって、男はそれを投げつける。
「ざけんなテメエが死ねッ、おっ死んじまえ、!」
いっぽうの男もまた、明らかな攻撃の意図が、あった。石に打たれた左肩の痛みは、併し男の冷静をより失わせる効果を表した。分厚い手をぐっと折り曲げ、もう一発くれてやると、熱く息を巻く。
「訳分かんねえ奴らの言葉に騙されやがって、テメエにとってこの村はその程度だってか? 死ね、どっか行っちまえ、あいつら諸共今すぐ、この村から、なあ、聞いてんのかボケが、クソッ、どっか行けよ、死ねよ、なあ、死ね死ね死ね死ね、死ねッ!」
ワアッ、と声が上がり、土埃が皆の視界を妨げた。村のあちこちで憎悪の雷が轟き、踏み荒らされた畑の、鮮やかな緑の芽は、さながら死体のように薄汚れ、項垂れていた。
暴動、村人たちの荒々しい情動は伝播してゆく。手にした武器、或いは他者を攻撃するための道具と化した日用品や、拳を振るう腕に、かつて宿っていた躊躇いや、恐れ、悲しみは、烈しい熱に呑み込まれてゆく。火の海はすぐ其処まで迫っていた。
「おや。子供じゃないか。教会に避難したらどうだい?」
崩壊の足音、響く、土煙のなか、ひとりの青年が立っていた。黄金の髪、蒼の瞳、纏う白いローブ。あっちだよ、と教会を指し示す指は白手袋に覆われており、純白、汚れひとつない。
「えっと……」
小屋の影で蹲っていた少女は、戸惑った様子で顔をあげた。靴の片方を失くした子供の膝は、転んで擦り剥いたのか、薄らと血が滲んでいた。突然降ってきた問いかけに狼狽えながらも、震える脣、少女は懸命に言葉を繋ぐ。
「お、お父さんも、お母さんも、きのう、あれ、昨日かな、わかんないけど、もう、死んじゃった、から、」
何処に行けばいいかわからないし、何処に居ればいいのかもわからない。そんな口振りだった。悲哀と悲痛、必死さとが、少女の声のなかで荒く息をしていた。幸か不幸か、そこには未だ、期待が滲んでいる。とろり。少女の膝からひと筋、ゆっくりと、あかい血液が流れおちる。
「へえ。まあなんにせよ、ボクには関係がないのだけどね。教会の方向は伝えたよ。あとはキミの好きにすればいい。」
「たす、たすけてくれないの? 私のこと、」
「助けるよ。」
迷いなく、青年は答えた。
「循環するキミたちの魂に、ボクはきっと還る場所を用意してみせる。救ってみせるよ。ヴィータに真の幸福の在処を教えてあげるんだ。」
「…………わけわかんない。」
「だろうね。」
少女のひかりを打ち砕く、男の言葉は、一切の理解を彼女に齎さない。少女の眼にうつる、男は冷淡だった。まるで興味がないことを、隠そうともしない。りいん、と、ちいさな頭の奥で鈴の音が鳴る。それは真昼の夢のようで、併し確かに、少女の眼前では、男の足元、紫の花が揺れていた。
「それじゃ、ボクは行くよ。かるく様子をみるだけのつもりだったけど……思ったよりはやかったな。そろそろ逃げないと、流石にヤバそうだ。」
「えっ、えっ、えっ、」
ゆるりとした口調の、高貴な雰囲気を漂わせる男は、冷めたい声色のまま、だが存外にくだけた言葉をつかうようだった。それが少女の頭をいっそう混乱させる。
「あっ、あの、」
「ん?」
声を発せば、歩き出した男はぴたり、と立ち止まり、流麗な仕草でくるりと振り返った。その動きにあわせ、舞う、ローブのゆるやかな膨らみは、新しい朝の清らかさと、似ていた。男の背後にひろがる、土埃で煙った空よりも、ずっと晴れやかな、蒼穹、空色の瞳が、少女の幼い眼に映し出される。
「用がないなら、ボクは行くけど。」
言葉とは裏腹に、男はひどく、優しげに、微笑った。きらきら、輝く黄金の髪と相俟って、その男は楽園を満たす輝きそのものに、思えた。
少女はまだ若く、村の外を知らない。故に彼女にとって、この村こそが世界そのもので、あった。そうしていまや、その世界は崩壊の渦中にある。悪い夢にも思える現実、困惑と、恐怖とが渦巻く世界にあって、併し少女はこの瞬間、ただ、眼前の男を、綺麗だとおもった。きれいだった。きらきら、黄金と蒼。輝いて。苦痛と疲労とが積った思考はひかりに灼かれ、最早他にはなにひとつ考えられなかった。それ以外の一切を奪われたかのように。
嵐に襲われた世界は、ともすればこのひとの白を、清廉を、純粋と美しさを、際立たせる為にあるのかもしれない。そんな夢現の錯覚さえ、おぼえる。それ故に、少女はその、ちいさな、百合の脣から、呼吸同然の言葉を零した。
「どうして、あなたの目は青いの。」
「なにが言いたいのかな?」
「なんでもないわ。ねえ、あなた、天使さまみたい。」
そこでようやく、少女ははっきりと男の視界に映った。風が吹けば消えてしまう程度の、関心、ちいさな炎が灯る。きらきら、蒼い瞳が少女をみる。
「面白いことを言うね。ボクが天使にみえるか。」
「だって、こんなにもきれいなんだもの。」
細い腕をめいっぱいにひろげ、こんなによ、でもこれよりもっとよと、あなたはきれいだと、興奮に赤くした頰で、少女は懸命に伝えようとした。激しく動いたために、膝から垂れた血が、片方しかない彼女の靴を赤に染めている。けれど、それを気に留める者は、もはやどこにもいなかった。青年は、黄金の睫毛をぱたんと鳴らして目を閉じる。
「導く者、という点に於いては、確かにボクは天使に近いかもしれないね。まあ、ボクは自分をそんなふうに捉えたことはないし、ヴィータにとって寧ろボクは悪魔なのだけれど。」
ハルマは天使で、メギドは悪魔だ。それが此処ヴァイガルドの社会だ。人差し指を頰に当て、再びに目をひらく。元の通りに、自分だけを視界にうつした男は、そんなことを呟いた。
「ま、なんでもいいか。なんと言っても、ボクは天才だからね。」
納得をしたのか、その言葉と同時に、男はまた、くるりと振り返った。そうして進み始める、男が振り返ることは、終ぞなかった。やがては炎が村を覆った。その間も、幾度呼べども、天使も、悪魔も、誰ひとり、少女に微笑む者は、なかった。
「指環の呼びかけによって肉体はゲートを潜り、再構成される。さて親友、そのとき、肉体をかたちづくるフォトンはゲートを潜る前とは別のものだろうか。」
「たぶん、そうじゃないかな。少なくとも俺はそう捉えてる。」
「なるほど。つまりゲートを通って再びこの世界に現れるとき、魂以外は別の熱量で構成されているわけだ。いや、魂も同じか。すべてフォトンには変わりない。キミの召喚の座標指定はかなり大雑把だけど……ひとまず魂は標と想定しておくべきだろうね。」
「な、なあ、そういう話ならフォラスたち喚ぼうか?」
アジトにて、微かに眉根を寄せたソロモンは提案する。僅かばかりの当惑の汗が滴る頬は、少年だけが持ち得る、優しげな丸みの翳を残している。
「いいや結構。ボクはキミとだからこういう話をしたいのさ。それに本当のところ、話の中身そのものに深い興味があるわけじゃないしね。」
くすり、微笑んだ青年の、細められた瞳には、揺蕩う水の柔らかさが、あった。彼の言葉に、やや驚いた表情をみせた後、ソロモンはからりと微笑った。
「ふふっ、なんだよそれ。フォルネウス。」
名を呼ばれたことで、その青年は、フォルネウスは、もとより浮かべていた微笑いを、いっそう深いものに、する。極限まで張り詰められた、細い、細い三日月が、ゆったりと表情に浮かびあがる。睫毛の震えさえ読み取れるほど近い距離にある、互いの顔と顔とのあいだに、白手袋に覆われた、長い、人差し指をぴんと立て、示すようにフォルネウスは語る。
「どんな話だっていいんだ。それについてのキミの見解が知りたい。キミがどう感じ、どう答えるのか。キミの認識の仕方。ボクが知りたいのはそれなんだ。」
じっとソロモンの瞳をみつめ、告げた、フォルネウスの瞳を、ソロモンもまた、じっとみつめ返す。正反対の、いろをした、真剣な眼眸が混じり合い、やがてはソロモンが、ふっと微笑む息を零した。
観念したように、はにかむ、照れた様子で、褐色の肌が橙に染めあげられる。最初のひと足を踏み出す、躊躇いの濃い、脣で、併し眼差しは揺らがなかった。じっと、眼前の蒼だけをみていた。
「……オマエが俺のことを知りたいって言ってくれるのは嬉しいよ。でも、だったら、俺もフォルネウスのことが知りたい。いっつも俺に尋ねてばかりで、俺はフォルネウスのことを殆ど知らないだろ。勿論、フォルネウスの都合が悪くなければ、だけど。」
「ふふっ、優しいね、親友は。」
軍団に所属する追放メギドには、ヴィータとしての、彼らの生活がある。それを明らかにする者も居れば、軍団員には自ら進んで語らぬ者も、居る。軍団での生活と、ヴィータとしての生活とが、深く、繋がる日々を送る者も居る。関わりを望む者と云えど、その形は様々であり、彼らの、ヴィータとしての領域に、ソロモンが能動的に関わることは、少ない。そういった一切を承知で、フォルネウスは言葉を贈る。赤いリボンをかけた、大切なギフトのように、言葉を紡ぎ、自らが親友と呼ぶ魂へ捧げる。
「それじゃあソロモン。ボクになにか尋ねてご覧。」
綻ぶ声の蓮華。開く花弁が揺れる、淡紅、白、大仰に両の腕をひろげ、フォルネウスはゆうるりと微笑んでみせる。傷つかない水のかたちをして、友を迎える。彼がひろげる、おおきな、おおきな微笑いは、併し童子特有の、ぱちぱちと爆ぜる、夏の明滅、浮かれた輝きが潜んでもいる。その光は、きっと期待に似ていた。
ふるり、一度、黒の睫毛が揺れる。ソロモンは頰に指を添え、深く思案する様子をみせた。歪められた太い眉には、震える、若い芽の青さが、呼吸をしている。境界、開かれた扉の向こう。確かめるようにゆっくりと、ソロモンは足を踏み入れる。
「えっと、……フォルネウスのすきな食べ物、とか?」
「あはは! 食に関する嗜好を尋ねることさえ遠慮していたのかい? ふふっ、おかしいね。ボクらは親友なのに。」
氷の残響、翻る尾鰭の優美が、無邪気に跳ねる。あたたかなものが、棲む、透明な微笑みを鳴らし、それじゃあと、フォルネウスはソロモンの手を取り、立ちあがった。
「街に行こうか。友好を深め合うために。」
アジトを出た足で、当たり前のように隣同士に並び、ゆっくりと歩く。立ち並ぶ店屋、集う人々、盛んな王都の賑わいは、併しふたりの会話を遮らない。
「どうする? コラフ・ラメルでも行こうか。」
「いや、それよりも街を見てまわりたいかな。ここには沢山のものや、出会いがあるだろうし……なにより、せっかくキミとふたりきりの時間なんだ。」
栄えた街が皆そうであるように、王都は、物質で溢れている。交易の中心地でもある、此処は、人々や、様々な物が集い、別れ、再会をする場所であり、そうして、ヴァイガルドで最も豊かな街である此処は、多くのヴィータが暮らす街でも、あった。
——純粋でない、と、フォルネウスはちいさく、眉を顰めた。歩きながら、何処に視線を遣っても目に入る、溢れる物質、ヴィータの群れ、欲望。魂の声を遮るものが多過ぎる。フォトンバーストの発生した地でもある、此処は、きっとそのとき誰もが異なる思念を抱き死んだ筈だと、遠く思いうかべる。
フォルネウスには、それが、ひどく残念でならない。悲しみは抱かないが、併し、勿体無いとさえ、感じる。どうせ死ぬならば、自分が導いてやりたかった。ただ、循環の旅人となった彼らの、意味と評価とを考える。蓮華の瞳で思い馳せる。行き交うヴィータの群れと、己の隣を歩く、友の崇高な魂。彼らは知らないのだ。魂の還る先、言葉の向こう側。真の幸福の場所。ヴィータの還る場所。
「なあフォルネウス」
「なんだい、親友?」
すかさず、フォルネウスは返事をする。なにを考え、どれほど騒がしくとも、きっと彼の声は己に届くだろう。だってボクらは親友なんだ。内心でちいさく独りごちる。
「実はさ、俺、いつも皆に教えて貰ってばかりなんだ。これがすきとか、美味しいとか、おすすめだとか。出かけるときも大抵は幻獣退治や買い出しで目的があるし、休日の外出は皆の行きたい場所に着いて行って、こういう世界があるんだって知る。
芳ばしいパンの香。赤い肉の焼ける音。かがやく果実で彩られたドリンクやケーキ、愛らしいかたちに形成されたドーナツ。赤、黄、白、桃色、鮮やかな花々を買い求める子供の、朱に染った、華やかな笑顔。立ち並ぶ露店を眺めながら、春のように頰を緩ませ、ソロモンは微笑う。
「不思議な話だよな。いざ自分のしたいことや欲しいものを考えると、なにも浮かんでこないんだ。いまだって、昔じゃ考えられなかったような……こんなにも華やかな街にいるのに。俺って自分で思うより、ずっと陰気なヤツなのかもしれない。」
語る言葉とは裏腹に、ソロモンはやわらかな表情を浮かべていた。両手いっぱいに宝物を抱えこんだ、やわらかで、嬉しげな花を綻ばせる。自らの隣で咲く喜びをみつめて、フォルネウスの脣もまた、穏やかなぬくもりのかたちになる。
「いざそう考え始めると、もしかしたらみんな、俺に色々気を使って誘ってくれてたのかなとか、そういうことに気づいて、なんだかすごく、無性に嬉しくなってさ。」
くしゃりと目を細め、それからソロモンは斜め前の屋台を控えめに指差した。
「あの肉はモラクスが喜ぶだろうな、とか、そういうことも浮かぶよ。」
「ふふっ、そうだね。彼はよろこぶだろうね。」
若い炎の少年をふたりで思い浮かべる。頰に思い出をを刻んだ、弾む声、ソロモンが続ける。あっちの甘いのはロノウェかな。これはシャックスが美味しいって教えてくれた。目にする様々が、過去、記憶、思い出の積み重ねと繋がり、少年にとってかけがえのない意味を持つ。歩きながらあちこちに意味を見出す、鮮やかな横顔をみつめる。キミは優しいね。薄赤い舌の上でそう呟くと、フォルネウスは背に伸びる影をいっそうおおきくして、誇らしげに少年の名を呼んだ。
「キミは愛されているから。親友としてボクも嬉しいよ。なんだか悪くない気分だな。」
「ははっ、なんだよそれ。」
微笑いながら、ソロモンがフォルネウスをみた。音の無い鐘が鳴り、かちり、視線が噛み合う、あおと橙とが混ざりあう。ぎゅっと目を閉じたまま、ふたり、くすくすと微笑いあった。
花売り屋台の前を通れば、噎せ返るほどに濃い、甘やかな花の香がする。出来立てだ、安いよ、これは滅多に入荷されない。威勢の良い、様々な声が飛び交う。艶めく林檎が大量に積まれた赤の群れ。蜂蜜の黄金、魚や野菜、珍しく、知らないものも多く在る。併しそのどれも、フォルネウスの目には映らなかった。感官は通れど、魂を揺らすには至らない。そも、ヴィータとして食の嗜好なぞを持ち合わせてはいなかったと、今更の事実をあたらめて認識する。だって、天才なのだ。フォルネウスは。
「ねえ親友」
「うん? どうした? フォルネウス。」
花動かす風のように、ソロモンが微笑った。魂を知る、彼の輝きが燦燦と眩い。ずるいなあ、と思う。ずるい、なんて、フォルネウスは一度も抱いたことのないもので、あったから、本当は、この感情にこの言葉が適切かさえもあやふやだ。
けれどやっぱり、ずるいと思う。そんなふうに微笑うから、ソロモンが微笑むと、言葉の続きは必要ないと、言わずとも分かりあっていると、そんな都合のいい錯覚に、溺れる気が、してしまう。海と太陽とが番うように。
それは水を揺蕩う、やわいひかりの響きに似て、あたたかく、居心地が好い。けれど同時に、知っている。そのひかりが照らすは海だけでなく、抜け出した蒼の向こうには、未だ世界が広がっているのだと知っている。
困ったように、嬉しいみたいに、眉をぐしゃぐしゃにして、フォルネウスは、細めた蒼の眼、何かを言おうとして、ぱっかりと口を開き、けれど其処で立ち止まる。ぎゅうぎゅう、切羽詰まったような、その表情は、息ができない深海魚の姿をしていた。
「言わなくていいよ。きっと分かってる。」
どちらともなく、そう言った。或いは、どちらとも、何も言わなかった。言わなければ伝わらないし、言えども伝わらない。だからこれは、痛くて、幸福な、錯覚だ。あおい泡沫を抱き締めるように、ふたりの、肩と肩とのあいだを風が通り過ぎ、また、鐘が鳴る。それは秋が泣く音に、似ていた。錯覚は英雄の死骸の上で産み出される。
「けど実際、こうして店やものがたくさんあると悩むものだね。アジトを出てから随分と歩いた気がする。この市場を通るのも二度目じゃないか?」
「そうだな。はは、俺もフォルネウスも、休息が下手なのかもしれない。」
まるで迷子みたいだ。ソロモンはそう思ったけれど、そも、今日の彼らは目的地を持たなかったから、これは迷子と呼べないような気もした。散歩の気軽さで、彼らは歩き続けた。
王都は、栄えた街である。多くの人々が訪れる地である。様々なものが、深く浅く交わる場所である。美味、甘美で綺麗なもの、鮮やかで、胸を躍らせ、目を惹くものに溢れている。其処は豊かな街である。けれどもソロモンと、フォルネウスとは、未だ何も決めることができないでいた。詰まるところ、それはひどく、簡単な話で、食事や読書、交友、鍛錬に音楽、恋もセックスもギャンブルも、なにひとつ、彼ら自身の手には持っていなかった。種はあっても、それを植えるべき場所がなかった。ただ、遥か遠くの、辿り着くべき大地ばかりを知っていた。
「でも、楽しいよ。こうして悩むのも。フォルネウスが居てくれるから、楽しい。目的地がないままぶらぶら歩くのって、なんだかわくわくしないか?」
微かに、フォルネウスは目を見張る。ざぶざぶ、蒼の波が、おおきくなる。ざぶん、揺れる情動に任せ、ソロモンの肩に手をまわす。少年の、剥き出しの皮膚を、白手袋の指が親しげに抱きとめる。
「ねえ親友。」
「どうした? フォルネウス。」
「キミの幸福が知りたい。」
「滅茶苦茶急だな?!」
高く、わらい声をあげて、フォルネウスは無邪気に、爽快にわらった。愛をするような、玲瓏の音が鳴り、つられてソロモンも、口の端を空に届くよう高くする。肩に添えられた、汚れひとつない、真白の手に目を留め、嬉しげに呟く。
「フォルネウスって、指がすごく長いんだな。」
足元の秘密をみつけた子供のように、ぎゅっと眼を細める。なんでもない発見を愛おしむように。歓びの風がするり、吹き抜け、ソロモンの手が、白く、長い指に、触れた。
陽光を反射する手袋は眩しい。その下にある皮膚を、ソロモンは知らない。ただ、掌の温度だけが、薄らと感じ取れる。大きさを比べるように、互いの掌を重ねあわせた。どちらが大きい。どちらが小さい。それは子供が好む、遊びの仕草で、あった。
二枚の肉が重なり、どくり、血液が波打つ、白い手の温度は、ソロモンが想像したとおりに、あたたかった。手袋の下。呼吸を重ねる皮膚。爪のいろ。そのかたち。それらはどんなものだろうかと、真剣な眼差しを向け、確かめるように、人差し指で白の輪郭をなぞる。とんとん、と腕をもうひとつの白が叩き、眉を下げたフォルネウスが、悪戯にわらう。
「ボクらのかたちを確かめあうのは賛成だけど、往来で立ち止まるのはいけないな。」
「あっ、ごめん。つい楽しくなって、なんだろう、ふふっ、ごめんな。行こう。」
「ボクは構わないのだけどね。うん、行こうか。」
「死ぬまえに食べたいものはなんだろう。」
若葉の脣、午后の陽光にそぐわぬ音で、言葉、突然にソロモンはそう言った。ちょうどすれ違ったヴィータが、不審がるように視線を投げ、足早に通り過ぎる。おそらくは家路に向かう、その男は、パンと、葡萄酒とを抱えていた。
「おや。急にどうしたんだい?」
ぱちり、困惑の瞳を瞬かせると、身を乗り出すようにして、フォルネウスはソロモンの顔を覗き込んだ。常の悠々とした表情とは異なり、波の表面には、焦りと戸惑い、歓びとが、囀るように揺れている。彼の応答にソロモンもまた、ざわざわと胸を揺らす。そうして、彼らの王の立場として、軽々にすべき問いかけではなかったと、後悔に脣を下げた。
「……ごめん。いやな質問だったよな。前にシャックスとモラクスがこの話で盛り上がってたのをふと思い出してさ。」
「気にしてないよ。無礼とも思わない。他の誰かならともかく、キミの質問ならボクは歓迎する。」
信頼と誠実の青を刻んで、フォルネウスがソロモンの手の甲を撫でた。
「またそのふたりか。彼らなら、キノコと肉かな。」
「ありがとう。ふふっ、ああ、とびきり美味しい肉とキノコをたくさんって。確かブネは酒だったかな。酒場では見かけないけど、フォルネウスは飲まないのか?」
「そうだね。ボクには必要ないから。………、」
何か言いたげな、沈黙を抱えた、蒼い眼の無言が友をみつめている。冷たく、あつい、氷が燃える、ぐるり、波が渦巻く。やがてフォルネウスは、震える冬の指先に触れたように、わらった。それはどうしようもなく痛くて、切なくて、嬉しい震えが滲んでいた。彼だけが違う船に乗っていた。視線を受け、ソロモンはちいさく首を傾げる。
「どうした? フォルネウス。」
「ねえ親友。ひとつ、尋ねてもいいかい?」
「いいよ。親友なんだろ、俺たち。」
「その問いに、キミがどう答えたのかを知りたい。」
透明な声が細波に揺れている。躊躇いを孕んだ問いのかたちが、先刻の己の姿と重なり、だからソロモンは照らすように、抱き締めるように、薔薇の眼を大地に広げ、ゆっくりと微笑う。
「直接の回答にはなってないけど、でも、誰かと一緒の食事がいいかな。食事って、なにを食べるのかと同じくらい、誰と食べるのかも大事だと思うんだ。」
「そうか。……キミはそうなんだな。」
言葉を嚥下する咽喉が動く。白の幹が揺れ、青年は二対の小鳥を思い描く。フォルネウスはちいさく頷いた。
「なら、その相手はボクがいいな。キミとボクとで、最後の朝を迎えよう。」
「ははっ、ああ、頼むよ。ずっとずっと先になると思うけどさ。ううん、ずっと先の未来にしなきゃいけない。」
「……そうだね。親友。」
通り過ぎる人々、その誰かが蹴飛ばした小石が、ソロモンの爪先を叩いた。こつん、と触れて、跳ねる。フォルネウスには当たらず、他の誰かの足元へ飛ばされ、また何処かへ転がってゆく。人波に流されてゆくそれを追いかけることはできなかったし、しなかった。
吹く風が頬を撫でる。やわらかな風は、食卓に響く笑い声を予感させる、香り良いパンのにおいをふたりの許へと連れてくる。それに頰弛ませる隣人を眺め、蒼い瞳が無音に瞬く。持ち帰る記憶は記録ではなく、またその記憶は完全な過去では決してない。持ち帰る情報の主体を意識は考慮しない。抱いた歓びの真なる意味を知ることは、その魂の持ち主にしかできない。否、その者にさえ、正確には把握しきれないだろう。それでも、だから、いいや、それがどうした。
「なあ、どうしたんだ? フォルネウス。」
首を傾げたソロモンが、青い瞳を覗きこむ。いいや何も、考え事だよ。フォルネウスがそう返せば、納得したように彼は眉をあげた。それから、ゆっくりと脣をひらく。
「フォルネウス」
「なんだい、親友?」
氷がほどけるように蜜の眼を細め、青く、あおい、少年が、わらった。風が吹き抜けるように微笑う、その一瞬が永遠のように、蒼に灼き付く。ゆらゆらと焔が凍る。
「さっきフォルネウスが、俺の幸福を知りたいって言ってくれただろ。まだ漠然としてるけど、でも、いまみたいな時間はしあわせだと思うよ。」
幕間の平和に過ぎないこの時間は、併し間違いなく、豊かな時間だ。それは魂に安らぎを与える。それは魂の交歓を齎す。それは魂を高く揺さぶり、明日へ導く。首肯するように、フォルネウスはソロモンの手を取った。その手の動きは、ダンスに誘う夜の高揚のかたちで、或いは駆け出す子供が掴む手だった。
「そうか。親友がそうなら、ボクもそうかもしれないね。」
フォルネウスはゆっくりと微笑んだ。手袋越しに、伝わる、ソロモンの手があたたかいことを、フォルネウスは既に知っていた。そうしてまた、この温もりを受け止める意味を解する者が、己しかいないことも知っていた。
「ねえ親友。みつかったよ。ボクが食べたいもの。」
夕暮れの大地、深い海の底の色をした髪をみつめる。
「ほら、贈り物でよく何か作っているだろう。キミが作ってくれたものが食べたいな。せっかくの機会だ。ボクも作ろう。親友はそれを食べるといい。」
「いいなそれ。リクエストはあるか?」
「パンがいいな。ボクらの肉だ。」
「うーん、俺も作ったことはないけど、パンってすごく難しいんじゃないか?」
「そうかな? ボクたちならできると思うよ。」
「ふふっ、とりあえずアジトに帰って材料を確認しようか。」
目的地は決まった。あとは其処へ歩くだけ。それでも、何処かゆったりとした、穏やかな足取りでふたりは歩いた。揺籃の午后は明るい。途中、思い出したようにフォルネウスが空を指差した。
「ねえソロモン。君は君の道をお行きよ。」
「…………うん。わかった。ありがとう。」
そう言ってソロモンは微笑った。その表情を眼におさめ、微かに蒼を細めると、フォルネウスは前だけをみた。
「ボクはボクの道を行くとも。けれどね親友、キミが呼べば、ボクはきっといつだって駆けつける。」
「うん。……ありがとう。俺を信頼してくれて。」
ひとつ、言葉を落とせば、ひとつ、太陽が胸に落ちる。歩くふたりは隣り合う。そうして、歩くふたりの影が隣り合うのを、たかく青空がながめている。満たされないものの左側が、少しだけ温められているように感じて、ふたりにはそれが不思議だった。
「フォルネウスは、フォルネウスの道を行ってくれよ。」
「勿論だとも。」
フォルネウスはにこりと微笑んだ。風が、言葉が、心が、陽射しが、繋がる糸のように、ひどく緩やかにながれている。それは切れない糸だと信じてしまう。
「なにがあっても親友でいれると思うんだ。仮にボクらを別つものがあるとしたって、それは魂じゃない。」
アジトへの帰路の途中、一度だけ、フォルネウスが立ち止まる機会が、あった。ぴたりと静止した視線の先には、鮮やかに染めあげられた、色とりどりの織糸を売る屋台があった。
「ねえ親友。あそこの、青い糸。キミがくれたマフラーの色に似ているね。」
そう告げるフォルネウスの横顔が、あまりに無邪気ないろをしているから、つられるように、ソロモンも嬉しい顔を浮かべる。
「ああ! この糸をみたとき、フォルネウスの眼に似てると思ったんだ。綺麗な空の色だろ。」
「なるほど。面白いね。キミにはボクの青が空にみえるのか。」
記憶は記録ではない。それは主観に彩られており、また、修正され改竄され、或いは忘れ去られ、色褪せてゆくものである。けれども、きらきら、輝く、純粋にひかる、友の魂をフォルネウスが決して忘れないと言葉にするように、いっぽうで彼が不要と断じた記憶の底、とっくに忘れ去られた少女が無邪気に問いかける。わらう。届かない手を伸ばす。天使様、どうして、あなたの目は青いの?
「ずっと、海をみていたから。だからボクの目は蒼いのかと思っていたけれど。そうか。キミには空にみえるんだな。」
宝箱をあけた子供が、ひとつの歓喜も溢さぬよう己を掻き抱く仕草で、噛み締めるようにフォルネウスは呟いた。同じあおをみて、海だと言った。空だと言った。知らない青を知っていた。知らない青をみていた。なんでもない、その、ちいさな違いが、今日はやけに素晴らしく思えた。抱擁の衝動に駆られソロモンを見遣れば、無垢な純心で、驚いた瞳で、じっとフォルネウスを見つめていた。
「えっと、どうしたんだい親友。ボクはなにか妙なことを言ったかな?」
「いや、その、フォルネウスって、いつも俺のことばかりみてるから…………」
「えっ」
そりゃそうだよな、海、驚くほうがおかしな話なのに、焦ったように捲し立てる、ソロモンがゆるゆると顔を赤くするから、つられてフォルネウスの顔も、ほんの少しだけ赤くなる。橙と薄桃。同じようで異なる、遠い、けれど近い色に染まって、まるで世界にふたりきりのように、じっと見つめあう。微笑いあう。
言葉にせねばわからぬことも、言葉にすれど伝わらないものもある。重なりあうことは困難で、そも、同じ色をみることさえ難しいと知っている。知らない青を知り、知っている青を分かちあった。それらを積み重ねた、その上で、それでも、互いにいま、何を言いたいのか、言わずとも理解できている気がした。フォルネウスとソロモンとが抱いたその、泡沫の錯覚は、友情は、きっと青春に似ていた。