《トマ蛍》店員さん、オレとデートしてください 屋敷に帰るや否や、一息つく間もなく浴衣を着せられる。誰に何を聞いてもそのうちわかりますから、の一点張り。理由もわからぬまま下駄を履き、今さっきくぐったばかりの門を追い出された。
皆は手を振って送り出すばかり。何事かと疑問符を浮かべるトーマの背を、誰かが軽く叩いた。
「トーマっ」
同時に脇からひょこんと顔を出したのは、薄らと化粧を施した蛍だった。上向きのまつ毛は瞬きに合わせて震え、色をのせた頬が愛くるしさを引き立てる。弧を描く唇は紅でくっきりと縁取られて満足げな表情を彩っていた。
ずいぶんなおめかしだと彼女に向き合えばこれまた上等な浴衣が相見える。眩しい白地に、ぱっと咲く真紅の花たち。蛍が腕を広げると炎のように揺らめいて見えた。
「かっこいいね、浴衣似合う」
「ありがとう、蛍も……うん。とっても可愛いよ」
見つめ合い、互いを褒める。花結びの帯を揺らしはにかんだ蛍が、トーマの手を取った。ふわふわ甘ったるい雰囲気に、屋敷の人間が微笑ましいとばかりに目を細めているのには気づかなかったことにしよう。
さて、一連の過程は蛍が仕組んだものだったとして、一体何を企んでいるのか。
「どこ行くの?」
下駄に慣れない蛍がよたよた進む後ろを、引っ張られるままに歩く。
「ふふ、どこだと思う?」
取り出されたのは小さな壺。何の変哲もないその中には途方もない空間が広がっているというのだから驚きだ。なるほど目的地はこの壺らしい。
しかし、これまた不思議なことに壺の中は一晩もあればすっかり姿を変えてしまうために、行先はわかったようでわからないままだ。昨日までと同じ風景があるとも限らないそこには、何が待っているのだろう。
詮索は諦め、蛍と共にその壺に触れた。吸い込まれるようにぐわりと足元から歪んでいく感覚は何度経験しても慣れない。繋いだ手を離さぬよう地面を踏ん張り、強く目を瞑ってやり過ごす。
そして次に目に入ったのは、細長い石畳の両端にずらりと並ぶ屋台だった。ひしめく提灯に眩しいほどに照らされて、ずっと奥まで続いていく。終点の櫓の上には大きな太鼓がひとつ、張られた皮が真白に光る。
「すっご……」
「お祭り、一緒に行きたくて」
並んだ狐のお面、焦げたソースは香ばしくて、ヨーヨーがぷかぷか浮かぶ。甘ったるいカステラの匂いと、射的の的は誰が作ったのか、ずいぶん小さくて当たりそうにもない。
ここにはざわめく人群れも、賑やかな囃子もないけれど。
ぬるい風に吹かれながら、隙間をくぐり抜け、あちこち目移りしては両手いっぱいになる程に物を買って。ついにべたべたに汚れた手を握り締め、上がる花火を見上げる。そんな光景が瞼の裏に浮かんだ。
「お祭りだ」
「ふふ。うん、お祭りだよ」
あの浮かれた雰囲気が思い出されると自然と心が踊り、年甲斐もなくはしゃぎたくなる。
「早く行こうトーマ、売り切れちゃうよ」
二人きりのお祭りに売り切れなんてあるのか。あるんだろうな、蛍が言うなら。
からから、石畳に下駄がぶつかる軽い音が二つ。これだけの屋台を独占できるなどまたとない贅沢だ。せっかくなら全て回ってみようかと、端の店を覗き込んだ。
ところが蛍は絡ませた指をするりと解いて、屋台の中まで駆けていく。
「へへ、いらっしゃいませ」
そしてちらちらと点滅する電球の下、なんだか照れくさそうに、あっという間に屋台のお姉さんへと変身した。客もいなければ店員もいない、たった二人だけのお祭り。
「じゃあ、わたあめひとつください」
「はあい」
ぶうん、大きな音を上げる機械に流し込んだザラメは、すぐに糸状になって飛び出す。蛍はそれを割り箸に絡め取り、見て、と小さく飛び跳ねた。しかしトーマが見つめるのは当然きゃらきゃらと笑うその表情のほうで、視線に気づいた蛍に怒られてしまうのだ。
「わたあめを! 見てて!」
「うん、はいはい」
膨らむ頬もまたトーマを惹きつけてやまない。そうしてじとりと睨む蛍が目を離した一瞬の間に、わたあめはいびつに成長していった。また今度はショックを受けて泣き出しそうに顔を歪める。可愛いねとは言い出せずに黙っていたが、喜怒哀楽、くるくると変わる蛍の表情をじっと見ているのが、トーマにとって一番幸せかもしれない。
「ちょっと失敗しちゃった」
「大丈夫、美味しそうだよ。さて、お代はいくら?」
「ふふっ。お兄さん、カッコイイからサービスです!」
まったくどこから影響を受けたのか、朝市で見かける魚屋のおじさんだろうか。ぱちくりと目を瞬かせたのがよほど面白かったのか、蛍は腹を抱えて笑い出す。差し出された不格好なわたあめが、今にも落ちそうな程に揺れた。
まあ、蛍が楽しいならそれで。握った小銭をしまい込み、わたあめを受け取る。
「さあ、いらっしゃいませ」
屋台を移動する度に蛍もとことこと着いてくる。その都度丁寧に迎えてくれる蛍に合わせて、ひとつひとつのお店を見て回った。焼きとうもろこし、りんご飴、焼きそば、ベビーカステラ。お店屋さんごっこに付き合ううちにたくさんの「カッコイイお兄さんへのサービス」を受け取り、最後の店に辿り着く頃にはすっかり両手が塞がってしまった。こんなにたくさん、どこで食べようか。
トーマの恋人に戻った蛍は空いた二の腕に絡んで、わたあめを頬張りながらおすすめだという場所に連れて行ってくれた。
提灯の光も遠ざかり、崖下でざあざあと揺れる波の音だけ。ぽつんと置かれたベンチの上で、可愛い店員さんが作ってくれた食べ物を広げる。
「もうそろそろだと思うんだけど」
月の位置を確かめた蛍が呟く。その余所見の隙に蛍の手にあった焼きとうもろこしを一口齧ってから、何がと問いかけた。
「そのうちわかるよ」
笑顔で誤魔化されたそれは、今日何度か聞かされた台詞だ。そういえば、トーマを送り出してくれた皆は蛍から事情を聞いていたのか。トーマだけ何も知らぬまま、蚊帳の外。いくらサプライズとはいえ、それはなんだか。ずいぶん寂しいな、と。消化しきれないもやもやを抱え、隣に座る蛍に凭れかかるように頭を預けた。
トーマの意図を掴めなかったらしい蛍は、口元に焼きとうもろこしを寄せてきた。言いたいのはそういうことではないけれど。
「おいしい」
「うん、焼いた人が上手なのかも」
「自分で言うんだね」
結局、それを齧った。蛍の自慢げな笑顔にふっと笑いを零せば、ぐるぐる考えてしまった数秒前の自分が途端に馬鹿らしくなる。トーマを喜ばせたいと思ってくれたその気持ちだけ、素直に受け取ればいいじゃないか。やはり蛍の表情ひとつで、トーマは幸せになれるらしい。
そう一人で納得した頃、唐突に、蛍があっと声を上げる。その視線の先を追いかければ、体に響く大きな音と共に辺りが明るくなった。
「見て!」
夜空に咲く鮮やかな花火は、菊の花、垂れ下がる柳、はたまた犬の肉球、形を変えて次々弾けていく。
こちらを振り向いた蛍がそれを指差す。色とりどりの光をきらきらと跳ね返す瞳は、嬉しさを滲ませていた。
「花火、綺麗だね」
「……君のほうが、」
どん、と胸に響く音。追いかけるように開いた蕾に合わせてぱらぱらと星が弾ける。ひときわ大きな花火にかき消された言葉の続きは、そのままベビーカステラと共に飲み込んだ。
いいんだ、こんならしくもない台詞。浮かれ過ぎだ。
「……言ってくれないの?」
きゅ、と。いつの間にか重なっていた手にほんの少しだけ込められた力が、トーマを急かす。
大きな蜂蜜色の瞳に映る自分の影さえはっきり見える距離では、いくら花火が邪魔したって、どれだけ小さな声だって、全て拾われてしまうのだ。照れくささに負けたことすらもお見通し。
期待したように濡れた瞳。頬の赤みも、化粧のせいではないだろう。誘うような表情にとくんと心臓が跳ねる。
「蛍のほうが、綺麗だよ」
すんと落とされた瞼。物を食べて紅の落ちた唇に、吸い寄せられるように近づいた。